幸福銀行

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株式会社幸福銀行(こうふくぎんこう)は、かつて大阪府大阪市西区に本店を置いていた第二地方銀行(旧・相互銀行)の会社である。1989年に相互銀行から普通銀行になるに当たって行名を「幸福相互銀行」から改めた。なお、店舗の看板の「福」には、「礻」偏ではなく、旧字体の「示」偏が用いられていた。

同族経営の機関銀行

幸福銀行は社長頴川徳助の実弟・勉二(娘婿は香川2区選出の木村義雄前衆院議員である)が副社長、長男・徳昭が専務と一族で要職を固めていた。一族が経営する大一商店グループが大株主であり、「大一商店グループの金融部門」と揶揄されてきた。1998年5月時点幸福銀の融資のうち、大一商店などの関連会社向けが約1400億円と全体の1割弱を占めていた。中でも筆頭株主である大一商店への融資残高約235億円のうち8割強に当たる195億円が無担保状態であり、しかも利払延滞している案件が目立ち、さらに、非上場を理由に情報開示に消極的な姿勢をとり、マーケットからは「不透明な融資は多く、公表している不良債権額は信用できない」と言われていた。幸福銀の1998年9月期の自己査定では、銀行関連のノンバンク不動産会社に対する査定を甘くし、幸福銀行の総資産1兆9070億円のうち、第三分類債権は499億円、回収不能債権はゼロとしていたが、後の金融監督庁の検査でまったく過少査定であったことが判明する。

大蔵主導の再編策と見掛増資

1997年、大蔵省は大阪地区で経営が行き詰まっていた幸福銀行、京都共栄銀行、福徳銀行、なにわ銀行(福徳となにわはその後なみはや銀行として合併したが破綻し、主に近畿大阪銀行へ、一部は大和銀行へ営業譲渡したのちに清算された)の第二地方銀行四行を一つに合併させる再編案を描いていた。しかし幸福と福徳が主導権を主張して折り合わず、結局、1997年10月、幸福系の京都共栄は幸福に営業譲渡された。また、その後、第三者割当増資により大和銀行へ協力が打診されたが、大和銀は、リスクが高すぎると拒絶した。金融監督庁の検査を受け資本増強を迫られた幸福銀行は、やむなく単独にて増資を模索、1998年3月以降、グループ会社以外の金融機関や取引先に増資を要請したが、反応は鈍かった。このため、同じように経営難に陥っていた東京相和銀行グループと互いに増資を引き受け合う「迂回出資」を行い、急場をしのごうとした。一種の「見掛(見せ金)増資」であった。

経営破綻へ

1999年3月末の段階で赤字経営・自己資本比率0.5%という危機的状況となったため、早期是正措置が発動されるも、経営危機が表面化するにつれ、経営陣と行員の確執が広がり、放漫経営を批判する怪文書が何度となく外部に流出した。また、経営不安により1999年5月までに、預金量の約6%にあたる1200億円の預金が流出した。経営陣は、いったんは公的資金による資本増強を目指したが、承認を得られる可能性が低かったため断念、1999年5月、監督官庁に、「将来、預金の払い戻しができなくなる恐れがある」と廃業届を申請した。5月22日、金融再生委員会金融再生法8条に基づく破綻銀行と認定し、金融整理管財人を派遣して国の管理下に置くことを決めた。

その後に発表された、金融監督庁が1999年1月から4月までに行った検査による1998年9月期の不良債権は、回収に注意を要する灰色債権(第二分類)は3961億円、回収に重大な懸念がある債権(第三分類)は1030億円、回収不能な債権(第四分類)は284億円だった。この結果を踏まえて不良債権処理を行うと、464億円の債務超過となる。

マーケットの「モラルハザード」

廃業の理由は「将来、預金の払戻ができなくなる」だったが、実際には当面の資金繰りはついていた。それは、コール市場を通じ、他の複数の金融機関が幸福銀に巨額の資金を供給していたためだった。資金を求める幸福銀行に対しては、通常より高金利で資金を貸すことができ、破綻しても国が公的資金で肩代わりして焦げ付く恐れがないため、超低金利で運用難にあえぐ他の金融機関にとって、幸福銀行は絶好の運用先だった。1997年11月の三洋証券の破綻時、コール市場にデフォルトが発生し、大混乱に陥った教訓から、ペイオフ実施前はこうした取引も完全に保護されることを逆手にとったもので、一種のモラル・ハザードであった。

その後

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