平遠 (装甲巡洋艦)

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平遠
320px
艦首から撮影された「平遠」
艦歴
起工 1886年12月7日
進水 1888年1月29日
就役 1890年5月
編入 1895年3月16日 日本海軍に編入
喪失 1904年9月18日 触雷沈没
除籍 1905年5月21日
要目
艦種 裝甲巡洋艦
排水量 常備排水量 2,100トン
満載排水量 2,640トン
全長 60m
全幅 12.1m
吃水 4.4m
機関 レシプロエンジン2基2軸
最大出力 2,400hp
最大速力 10.5ノット
航続距離 -ノット/-海里
乗員 145名
武装 (北洋海軍所属時)
260mm砲 1門
150mm砲 2門
47mm速射砲 2門
機関砲 5基
18インチ魚雷発射管 4基
(日本海軍所属時)
260mm砲 1門
150mm砲 2門
47mm速射砲 8門
45cm魚雷発射管 4基
装甲 舷側 127~229mm
甲板 51mm
司令塔 127mm
砲塔 127mm

平遠(へいえん、平遠、Ping Yuen)は、清国海軍装甲巡洋艦日清戦争で日本軍に降伏、接収され日本海軍に編入された。ただし艦名は日本海軍編入後も変更されていない。

艦歴

ファイル:IJN Ping Yuen Go(Hei Yen).jpg
右舷から撮影された本艦。
ファイル:Heien.jpg
左舷から撮影された本艦。

起工時の艦名は、「龍威」であったが、北洋艦隊への編入時に「平遠」に変更されている。総工費は銀52万4000両。備砲については、47mm速射砲の装備数には2門から8門まで様々な説があり、一定していない。

清国初の国産巡洋艦であるが、装甲はフランスから、主砲・副砲はドイツのクルップからそれぞれ輸入した物であった。

黄海海戦において、日本の旗艦「松島」と交戦、主砲及び魚雷発射管に損害を与えたが、自身も命中弾を受け威海衛に撤退し、1895年2月17日、日本海軍に鹵獲され、3月16日に艦籍に編入された。

日清戦争では国内警備に従事し、1898年3月21日一等砲艦に類別された。日露戦争では旅順攻略作戦に参加した。1904年9月18日、哨戒からの帰投中に鉄島西方沖で触雷、沈没[1]。艦長浅羽金三郎中佐以下193名が死亡[1]。翌年5月21日に除籍された。

年譜

  • 1886年 清国、福州馬尾造船廠にて、起工
  • 1888年 進水
  • 1889年 艤装完了
  • 1890年 北洋艦隊に編入し、就役。
  • 1894年 日清戦争に参戦、黄海海戦に参加
  • 1895年 日本海軍に降伏、編入
  • 1898年 砲艦に類別。
  • 1904年 日露戦争に参加、触雷沈没
  • 1905年 除籍

艦長

日本海軍
  • 柏原長繁 大佐:不詳 - 1896年8月13日
  • 細谷資氏 大佐:1896年8月13日 - 1897年4月17日
  • 大塚暢雄 大佐:1897年4月17日 - 12月1日
  • 中山長明 大佐:1897年12月1日 - 1898年5月23日
  • 中尾雄 中佐:1898年5月23日 - 11月2日
  • 友野雄介 大佐:1898年11月2日 - 1899年9月29日
  • 有川貞白 中佐:1899年9月29日 - 1900年3月14日
  • 太田盛実 中佐:1900年3月14日 - 3月26日
  • 小泉鑅太郎 中佐:1901年8月30日 - 1902年6月5日
  • 毛利一兵衛 中佐:1902年6月5日 - 10月6日
  • 大城源三郎 中佐:1902年10月6日 - 1903年7月11日
  • 浅羽金三郎 中佐:1903年7月11日 - 1904年9月18日戦死

脚注

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参考文献

  • 真鍋重忠、『日露旅順海戦史』、吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報

関連項目

外部リンク

  • 1.0 1.1 日露旅順海戦史、234ページ