川越富洲原駅
川越富洲原駅(かわごえとみすはらえき)は、三重県三重郡川越町大字豊田にある、近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線の駅である。
目次
駅構造
島式ホーム2面4線を持つ待避可能な地上駅である。ホーム長は停車目標上は5両編成だが、駅改良工事の際に延伸されて6両編成の停車に対応している。ラッシュ時を中心に準急・普通列車の乙特急、日中に名阪甲特急の待避が頻繁に行われる。橋上駅舎が2010年(平成22年)4月3日より供用され、1945年(昭和20年)に建築された旧富洲原駅の駅舎は切り妻風の木造平屋建てで、面積は約150平方メートルで現存する駅舎では数少ない木造駅舎建築物であり、貴重な近代化遺産として文化財レベルの価値がある事から、文化財として移設して保存する運動もあったが、同月中に取り壊された。トイレは改札内にある。
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のりば
1・2 | テンプレート:Color名古屋線(下り) | 四日市・大阪・賢島方面 |
---|---|---|
3・4 | テンプレート:Color名古屋線(上り) | 桑名・名古屋方面 |
- 特記事項
- 内側2線(2番線と3番線)が主本線、外側2線(1番線と4番線)が待避線である。
- 4番線は四日市方面へ発車可能で、まれに四日市方面への当駅始発の団体列車が使用する。
- 保線車両の基地が当駅の南側に位置する。
改札口
- 窓口にて、定期券の予約発売を受け付けている。
- 2007年(平成19年)4月1日から名古屋線近鉄名古屋駅 - 塩浜駅間がPiTaPa対応になった。それに先駆けて2006年(平成18年)8月21日より自動改札機の設置工事が始まり、9月6日から自動改札機が設置された。
利用状況
「三重県統計書」によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである。
年度 | 一日平均 乗車人員 |
---|---|
1997年 | 3,422 |
1998年 | 3,400 |
1999年 | 3,367 |
2000年 | 3,387 |
2001年 | 3,269 |
2002年 | 3,167 |
2003年 | 3,183 |
2004年 | 3,142 |
2005年 | 3,117 |
2006年 | 3,088 |
2007年 | 3,078 |
2008年 | 3,041 |
2009年 | 3,028 |
2010年 | 3,128 |
2011年 | 3,133 |
2012年 | 3,218 |
- 当駅の利用状況の変遷を下表に示す。
- 輸送実績(乗車人員)の単位は人であり、年度での総計値を示す。
- 乗降人員調査結果は、任意の1日における値(単位:人)である。調査日の天候・行事などの要因によって変動が大きいので、年度間の比較には注意を要する。
- 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
年度 | 当駅分輸送実績(乗車人員):人/年度 | 乗降人員調査結果 人/日 |
特記事項 | ||||
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通勤定期 | 通学定期 | 定期外 | 合 計 | 調査日 | 調査結果 | ||
1950年(昭和25年) | 649,380 | ←←←← | 439,922 | 1,089,302 | |||
1951年(昭和26年) | 772,710 | ←←←← | 449,066 | 1,221,776 | |||
1952年(昭和27年) | 666,120 | ←←←← | 468,145 | 1,134,265 | |||
1953年(昭和28年) | 684,270 | ←←←← | 466,293 | 1,150,563 | |||
1954年(昭和29年) | 723,000 | ←←←← | 489,921 | 1,212,921 | |||
1955年(昭和30年) | 831,570 | ←←←← | 509,751 | 1,341,321 | |||
1956年(昭和31年) | 900,930 | ←←←← | 548,198 | 1,449,128 | |||
1957年(昭和32年) | 930,450 | ←←←← | 525,665 | 1,456,115 | |||
1958年(昭和33年) | 1,000,230 | ←←←← | 610,509 | 1,610,739 | |||
1959年(昭和34年) | 1,178,400 | ←←←← | 407,184 | 1,585,584 | |||
1960年(昭和35年) | 1,370,700 | ←←←← | 400,667 | 1,771,367 | |||
1961年(昭和36年) | 1,261,800 | ←←←← | 409,797 | 1,671,597 | |||
1962年(昭和37年) | 1,454,550 | ←←←← | 449,061 | 1,903,611 | |||
1963年(昭和38年) | 1,551,210 | ←←←← | 453,827 | 2,005,037 | |||
1964年(昭和39年) | 1,651,590 | ←←←← | 469,771 | 2,121,361 | |||
1965年(昭和40年) | 1,437,270 | ←←←← | 458,987 | 1,896,257 | |||
1966年(昭和41年) | 1,336,320 | ←←←← | 404,591 | 1,740,911 | |||
1967年(昭和42年) | 1,336,920 | ←←←← | 423,238 | 1,760,158 | |||
1968年(昭和43年) | 1,281,720 | ←←←← | 420,402 | 1,702,122 | |||
1969年(昭和44年) | 1,261,440 | ←←←← | 456,065 | 1,717,505 | |||
1970年(昭和45年) | 1,264,620 | ←←←← | 466,058 | 1,730,678 | |||
1971年(昭和46年) | 1,232,550 | ←←←← | 484,454 | 1,717,004 | |||
1972年(昭和47年) | 1,194,150 | ←←←← | 503,103 | 1,697,253 | |||
1973年(昭和48年) | 1,160,700 | ←←←← | 497,050 | 1,657,750 | |||
1974年(昭和49年) | 1,285,050 | ←←←← | 500,591 | 1,785,641 | |||
1975年(昭和50年) | 1,287,390 | ←←←← | 501,481 | 1,788,871 | |||
1976年(昭和51年) | 1,190,010 | ←←←← | 471,186 | 1,661,196 | |||
1977年(昭和52年) | 1,169,550 | ←←←← | 493,536 | 1,663,086 | |||
1978年(昭和53年) | 1,181,400 | ←←←← | 473,282 | 1,654,682 | |||
1979年(昭和54年) | 1,144,140 | ←←←← | 470,444 | 1,614,584 | |||
1980年(昭和55年) | 1,150,290 | ←←←← | 468,709 | 1,618,999 | |||
1981年(昭和56年) | 1,148,310 | ←←←← | 451,108 | 1,599,418 | |||
1982年(昭和57年) | 1,116,570 | ←←←← | 458,362 | 1,574,932 | 11月16日 | 7,829 | |
1983年(昭和58年) | 1,106,430 | ←←←← | 450,704 | 1,557,134 | 11月8日 | 8,110 | |
1984年(昭和59年) | 1,048,170 | ←←←← | 407,552 | 1,455,722 | 11月6日 | 7,275 | |
1985年(昭和60年) | 1,005,000 | ←←←← | 400,950 | 1,405,950 | 11月12日 | 6,878 | |
1986年(昭和61年) | 994,260 | ←←←← | 396,170 | 1,390,430 | 11月11日 | 6,644 | |
1987年(昭和62年) | 977,700 | ←←←← | 375,614 | 1,353,314 | 11月10日 | 6,871 | |
1988年(昭和63年) | 983,670 | ←←←← | 387,533 | 1,371,203 | 11月8日 | 7,040 | |
1989年(平成元年) | 978,870 | ←←←← | 372,294 | 1,351,164 | 11月14日 | 6,558 | |
1990年(平成2年) | 981,000 | ←←←← | 371,380 | 1,352,380 | 11月6日 | 7,272 | |
1991年(平成3年) | 1,034,400 | ←←←← | 369,923 | 1,404,323 | |||
1992年(平成4年) | 1,025,610 | ←←←← | 357,300 | 1,382,910 | 11月10日 | 6,866 | |
1993年(平成5年) | 1,000,980 | ←←←← | 369,578 | 1,370,558 | |||
1994年(平成6年) | 995,700 | ←←←← | 363,788 | 1,359,488 | |||
1995年(平成7年) | 989,160 | ←←←← | 372,800 | 1,361,960 | 12月5日 | 6,575 | |
1996年(平成8年) | 971,640 | ←←←← | 359,163 | 1,330,803 | |||
1997年(平成9年) | 906,870 | ←←←← | 342,260 | 1,249,130 | |||
1998年(平成10年) | 902,400 | ←←←← | 338,622 | 1,241,022 | |||
1999年(平成11年) | 894,810 | ←←←← | 337,448 | 1,232,258 | |||
2000年(平成12年) | 891,240 | ←←←← | 344,900 | 1,236,140 | |||
2001年(平成13年) | 872,070 | ←←←← | 320,954 | 1,193,024 | |||
2002年(平成14年) | 842,130 | ←←←← | 313,910 | 1,156,040 | |||
2003年(平成15年) | 852,780 | ←←←← | 312,163 | 1,164,943 | |||
2004年(平成16年) | 849,420 | ←←←← | 297,265 | 1,146,685 | |||
2005年(平成17年) | 836,730 | ←←←← | 301,085 | 1,137,815 | 11月8日 | 5,887 | |
2006年(平成18年) | 823,410 | ←←←← | 303,589 | 1,126,999 | |||
2007年(平成19年) | 817,260 | ←←←← | 309,293 | 1,126,553 | |||
2008年(平成20年) | ←←←← | 11月18日 | 5,777 | ||||
2009年(平成21年) | 814,740 | ←←←← | 290,511 | 1,105,251 |
駅周辺
- 川越町地域内
- 鈴鹿英数学院富洲原校(川越町の南部地域の駅前の豊田地区に立地)
- チヨダウーテ株式会社(川越町の南部地域の高松地区の国道23号沿いに立地)
- 川越火力発電所(川越町の北部地域の上吉地区に立地)
- 三重県立川越高等学校(川越町の北部地域の豊田地区の飛び地に立地)
- 四日市市地域内(富洲原地区・大矢知地区)
- 四日市市立富洲原中学校(天ヶ須賀5丁目に立地。富洲原地区の天ヶ須賀島崎町自治会に所属している。平田紡績富洲原工場の跡地付近に立地している)
- 四日市市立富洲原小学校(四日市市富州原町に富洲原小学校が立地する。富田一色地区の甚五兵衛町自治会に所属している)
- 富田一色飛鳥神社(富田一色地区の富田一色町に立地)
- 塩役運河跡地の水と緑のせせらぎ広場(富田一色地区の富田一色町付近に立地)
- 天ヶ須賀住吉神社(天ヶ須賀地区の天ヶ須賀北町に立地)
- イオンモール四日市北(松原地区の富州原町に立地)
- 四日市松原郵便局(松原地区の松原町に立地)
- 聖武天皇社(松原地区の松原町に立地)
- 暁学園暁小学校(大矢知地区の蒔田町に立地)
バス路線
乗り場 | 系統 | 主要経由地 | 行先 | 運行会社 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
近鉄川越富洲原駅東口 | 南ルート | 高松国道1号西・川越町役場 | 総合センター | ふれあいバス | 平日運転 |
歴史
年表
- 1929年(昭和4年)1月30日 - 伊勢電気鉄道桑名 - 四日市間開通時に富洲原駅として開業。
- 1936年(昭和11年)9月15日 - 参宮急行電鉄が伊勢電気鉄道を合併。参宮急行電鉄伊勢線の駅となる。
- 1938年(昭和13年)12月7日 - 線路名称改定。名古屋線の所属となる。
- 1941年(昭和16年)3月15日 - 大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併、関西急行鉄道の駅となる。
- 1944年(昭和19年)6月1日 - 関西急行鉄道が南海鉄道(現在の南海電気鉄道の前身)と合併、近畿日本鉄道の駅となる。
- 1945年(昭和20年) - 隣の川越停留所と統合し駅名は変わらぬまま、北へ300m程の川越町豊田に移動。
- 2007年(平成19年)4月1日 - PiTaPa使用開始。
- 2009年(平成21年)3月20日 - 川越富洲原駅に改称。
- 2009年(平成21年)5月8日 - 橋上駅化進捗により、構内踏切を四日市寄りに移動。
- 2010年(平成22年)4月3日 - 橋上駅舎供用開始。
駅名変更
1929年(昭和4年)に伊勢電気鉄道富洲原駅(伊藤平治郎の誘致した駅)として開業した。近鉄名古屋駅(名古屋市)方面から三重郡富洲原町の天ヶ須賀にあった須賀浦海水浴場に来る観光客で賑わっていた。[1]1945年(昭和20年)までは、富洲原駅の位置は現在の駅より300メートル南側に離れた四日市市平町に立地していた。同年、隣の三重郡川越村の朝明川付近にあった無人駅の「伊勢電気鉄道川越駅」が廃止されて富洲原駅と統合されて、川越駅側の中間の距離となる300m北の現在の位置の川越町の豊田地区に富洲原駅が移動した。[2]2009年(平成21年)に駅名が<川越富洲原>に改称された。富洲原は旧駅のあった四日市市の地区名である。
富洲原の駅名が使用されていた背景は東京ディズニーランドが千葉県浦安市に存在するのに東京の名称となっているのと同じで東京都と千葉県の力関係と同様の例であった。川越町は昭和20年代には、養殖と農業と水飴産業しかない発展していない三重郡の農村であった。富洲原は東洋紡績(東洋紡績富田工場)が立地していた事と平田紡績本社工場が立地するなど巨大工場によって工業化されていた街であった。戦前からの急速な工業化で商店街が形成されて、上水道網や下水道網が整備された近代都市で政治的にも経済的にも富洲原地区の方が川越町より力関係が強かったから富洲原の駅名が使用されていた。しかし、1990年代には富洲原地区は紡績工場の相次ぐ閉鎖による工業生産力の低下や商店街の衰退や水害による富田一色地区の急速な人口の減少で富洲原地区は衰退していた。[3]川越町は昭和末期に中部電力川越火力発電所が誘致されて大企業の施設が建設された事や道路網の相次ぐ整備で人口が急増して、川越町は法人税や固定資産税が急増して財政が豊かな地方自治体となり駅名を改名させる費用や駅前の整備をする費用の余裕ができて、富洲原と川越町の力関係が逆転していた。
川越町は富洲原を町の玄関口と位置付けていて、1983年(昭和58年)に川越町議会議員で富洲原駅付近(豊田地区)出身の飯田勝祐議員が問題提起をした。駅名問題として川越町に立地している事から、「富洲原駅」であるのが可笑しくて駅名に疑問があるから「川越町駅」に改称するように川越町議会で質問した事が発端となった。以後、川越町の議会で「富洲原駅の名称問題」が幾度も取り上げられて川越町駅に改称するように近鉄と交渉をした。竹下内閣のふるさと創生事業として、川越町の資金援助で三重県立川越高等学校付近の川越町(豊田一色地区内)に川越町駅を建設するように求めたが、近鉄が駅が新設されて駅数が増加する事によって駅間隔が短くなるダイヤ(時刻表)の都合がある事を理由に「川越町駅」の建設を断った。川越町駅への改称は近鉄及び四日市市への交渉と理解が必要で、富洲原地区民の反発と埼玉県川越市と同一地名の「川越」である問題があった。
川越町民による富洲原地区民への嫌がらせもあり、地域版の新聞記事では、[4]1993年(平成5年)に川越町民が四日市市立富洲原小学校の講堂への放火を試みて教師が出火に気づき消火する小火などもあった。
現在の駅の所在地が四日市市富洲原地区ではなく同町豊田地区である事から、川越町が駅整備事業を全額負担する事と、平成初期は『富洲原川越駅』を提案していたが、駅名を『川越富洲原駅』とする条件に代えて、近鉄と交渉を行ってきた。2008年(平成20年)11月21日には、近鉄より「翌年の2009年(平成21年)3月20日に駅名を『富洲原駅』から『川越富洲原駅』に改称する」ことが発表され、発表通り翌年3月20日に現駅名に改称された。東口広場と西口広場の駅前広場が設けられて、冬季には東口広場にイルミネーションが設置されている。四日市北警察署の四日市市内の富田地区と富洲原地区と川越町の朝明川より南部地域(豊田地区南部・天神地区)と朝明川より北部地域(豊田地区北部)を管轄とする「川越富洲原駅前交番」が設置された。なお、近鉄が所有するのは改札内のみであり、橋上のその他の施設はエレベーターも含め、川越町道となっている。
駅施設の変更
富洲原駅時代は鯉が泳ぐため池が駅舎の付近にあった。富洲原駅の西側は三重郡川越町の豊田地区であり、運河型の河川に田んぼなど広大な農地があったが現在はアパートなど住宅開発がされている。富洲原駅の東側は富洲原駅前の商店街である天神町商店街がある。富洲原駅時代は駅舎に早朝の時間帯のみ開設されるパンなどの軽食を販売する売店があった。富洲原駅の構内は踏切で1番ホームから~4番ホームまでを横断する構造で、踏切に安全性の問題があり、高齢者の女性が踏切を横断するのに時間がかかり通過列車にひかれる死亡事故が多発していた。川越富洲原駅に駅名が改称されてからは安全性の向上のための改修工事の結果橋上駅となり死亡事故が無くなり駅の安全性が向上した。富洲原駅時代は富洲原地区を中心とする案内図があり、天ヵ須賀地区の住吉町自治会・港町自治会・南町自治会・本町自治会・寺町自治会・中町自治会・江戸町自治会・岩戸町自治会・常盤町自治会・北町自治会・島崎町自治会の各自治会名の案内図があった。川越富洲原駅に駅名が変更されたからは、川越町によって設置された川越町中心の川越町案内図と川越富洲原駅周辺案内図の2つの案内図が設置されて富洲原地区関係の紹介が削除された。駅の通路には川越町の物産品紹介コーナー(朝明商工会が設置した展示品)がある。川越町が所有するインフォメーション施設として以下の川越町を紹介する展示品がある。
その他
- 東海地震の警戒宣言が発令された場合、近鉄名古屋線内では近鉄名古屋駅から当駅までが運休となる。 [5]
- 八風街道が富洲原(富田一色)が起点だった事から(三重県→岐阜県・滋賀県)の日本横断鉄道構想から設立された三岐鉄道が富田以外に富洲原を起点としようとして、1959年(昭和34年)に国鉄富田駅に到着した三岐鉄道三岐線の旅客列車をスイッチバックさせて近鉄富洲原駅に乗り換えて連絡する「富洲原新線計画」が着手されたが中止となり近鉄富田駅までの連絡線に計画が変更される。
隣の駅
- 近畿日本鉄道
- 名古屋線
- テンプレート:Color急行
- 通過
- テンプレート:Color準急・テンプレート:Color普通
- テンプレート:Color急行
脚注
- ↑ 川越駅と須賀浦海水浴場の記述。想い出の伊勢電特急「はつひ」で85分の旅
- ↑ 川越町史の523ページの22行目から~23行目の交通機関の項目
- ↑ 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌の161ページ上段16行目~下段16行目
- ↑ 1993年(平成5年)の伊勢新聞・読売新聞・中日新聞の地域記事(北勢地方版)
- ↑ 東海地震に関するお知らせ K's PLAZAより