川越富洲原駅

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川越富洲原駅を上から(2010年7月)

川越富洲原駅(かわごえとみすはらえき)は、三重県三重郡川越町大字豊田にある、近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線である。

駅構造

島式ホーム2面4線を持つ待避可能な地上駅である。ホーム長は停車目標上は5両編成だが、駅改良工事の際に延伸されて6両編成の停車に対応している。ラッシュ時を中心に準急・普通列車の乙特急、日中に名阪甲特急の待避が頻繁に行われる。橋上駅舎2010年(平成22年)4月3日より供用され、1945年(昭和20年)に建築された旧富洲原駅の駅舎は切り妻風の木造平屋建てで、面積は約150平方メートルで現存する駅舎では数少ない木造駅舎建築物であり、貴重な近代化遺産として文化財レベルの価値がある事から、文化財として移設して保存する運動もあったが、同月中に取り壊された。トイレは改札内にある。

テンプレート:要出典範囲。なお、双方共スルッとKANSAIJスルーカードはエリア外のため、使用できない。

のりば

1・2 テンプレート:Color名古屋線(下り) 四日市大阪賢島方面
3・4 テンプレート:Color名古屋線(上り) 桑名名古屋方面
特記事項
  • 内側2線(2番線と3番線)が主本線、外側2線(1番線と4番線)が待避線である。
  • 4番線は四日市方面へ発車可能で、まれに四日市方面への当駅始発の団体列車が使用する。
  • 保線車両の基地が当駅の南側に位置する。

改札口

利用状況

「三重県統計書」によると、1日の平均乗車人員は以下の通りである。

年度 一日平均
乗車人員
1997年 3,422
1998年 3,400
1999年 3,367
2000年 3,387
2001年 3,269
2002年 3,167
2003年 3,183
2004年 3,142
2005年 3,117
2006年 3,088
2007年 3,078
2008年 3,041
2009年 3,028
2010年 3,128
2011年 3,133
2012年 3,218
  • 当駅の利用状況の変遷を下表に示す。
    • 輸送実績(乗車人員)の単位は人であり、年度での総計値を示す。
    • 乗降人員調査結果は、任意の1日における値(単位:人)である。調査日の天候・行事などの要因によって変動が大きいので、年度間の比較には注意を要する。
      • 2008年(平成20年)11月18日の調査結果によると、1日の利用客は5,777人(前回2005年11月8日の調査では5,887人)。
        • 近鉄の全調査対象駅(287駅)中、107位。
        • 名古屋線の駅(44駅、他線接続駅含む)の中では、15位。
        • 三重県内の近鉄の駅(116駅、但し調査当時の数)の中では、16位。
    • 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。

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年度 当駅分輸送実績(乗車人員):人/年度 乗降人員調査結果
人/日
特記事項
通勤定期 通学定期 定期外 合 計 調査日 調査結果
1950年(昭和25年) 649,380 ←←←← 439,922 1,089,302      
1951年(昭和26年) 772,710 ←←←← 449,066 1,221,776      
1952年(昭和27年) 666,120 ←←←← 468,145 1,134,265      
1953年(昭和28年) 684,270 ←←←← 466,293 1,150,563      
1954年(昭和29年) 723,000 ←←←← 489,921 1,212,921      
1955年(昭和30年) 831,570 ←←←← 509,751 1,341,321      
1956年(昭和31年) 900,930 ←←←← 548,198 1,449,128      
1957年(昭和32年) 930,450 ←←←← 525,665 1,456,115      
1958年(昭和33年) 1,000,230 ←←←← 610,509 1,610,739      
1959年(昭和34年) 1,178,400 ←←←← 407,184 1,585,584      
1960年(昭和35年) 1,370,700 ←←←← 400,667 1,771,367      
1961年(昭和36年) 1,261,800 ←←←← 409,797 1,671,597      
1962年(昭和37年) 1,454,550 ←←←← 449,061 1,903,611      
1963年(昭和38年) 1,551,210 ←←←← 453,827 2,005,037      
1964年(昭和39年) 1,651,590 ←←←← 469,771 2,121,361      
1965年(昭和40年) 1,437,270 ←←←← 458,987 1,896,257      
1966年(昭和41年) 1,336,320 ←←←← 404,591 1,740,911      
1967年(昭和42年) 1,336,920 ←←←← 423,238 1,760,158      
1968年(昭和43年) 1,281,720 ←←←← 420,402 1,702,122      
1969年(昭和44年) 1,261,440 ←←←← 456,065 1,717,505      
1970年(昭和45年) 1,264,620 ←←←← 466,058 1,730,678      
1971年(昭和46年) 1,232,550 ←←←← 484,454 1,717,004      
1972年(昭和47年) 1,194,150 ←←←← 503,103 1,697,253      
1973年(昭和48年) 1,160,700 ←←←← 497,050 1,657,750      
1974年(昭和49年) 1,285,050 ←←←← 500,591 1,785,641      
1975年(昭和50年) 1,287,390 ←←←← 501,481 1,788,871      
1976年(昭和51年) 1,190,010 ←←←← 471,186 1,661,196      
1977年(昭和52年) 1,169,550 ←←←← 493,536 1,663,086      
1978年(昭和53年) 1,181,400 ←←←← 473,282 1,654,682      
1979年(昭和54年) 1,144,140 ←←←← 470,444 1,614,584      
1980年(昭和55年) 1,150,290 ←←←← 468,709 1,618,999      
1981年(昭和56年) 1,148,310 ←←←← 451,108 1,599,418      
1982年(昭和57年) 1,116,570 ←←←← 458,362 1,574,932 11月16日 7,829  
1983年(昭和58年) 1,106,430 ←←←← 450,704 1,557,134 11月8日 8,110  
1984年(昭和59年) 1,048,170 ←←←← 407,552 1,455,722 11月6日 7,275  
1985年(昭和60年) 1,005,000 ←←←← 400,950 1,405,950 11月12日 6,878  
1986年(昭和61年) 994,260 ←←←← 396,170 1,390,430 11月11日 6,644  
1987年(昭和62年) 977,700 ←←←← 375,614 1,353,314 11月10日 6,871  
1988年(昭和63年) 983,670 ←←←← 387,533 1,371,203 11月8日 7,040  
1989年(平成元年) 978,870 ←←←← 372,294 1,351,164 11月14日 6,558  
1990年(平成2年) 981,000 ←←←← 371,380 1,352,380 11月6日 7,272  
1991年(平成3年) 1,034,400 ←←←← 369,923 1,404,323      
1992年(平成4年) 1,025,610 ←←←← 357,300 1,382,910 11月10日 6,866  
1993年(平成5年) 1,000,980 ←←←← 369,578 1,370,558      
1994年(平成6年) 995,700 ←←←← 363,788 1,359,488      
1995年(平成7年) 989,160 ←←←← 372,800 1,361,960 12月5日 6,575  
1996年(平成8年) 971,640 ←←←← 359,163 1,330,803      
1997年(平成9年) 906,870 ←←←← 342,260 1,249,130      
1998年(平成10年) 902,400 ←←←← 338,622 1,241,022      
1999年(平成11年) 894,810 ←←←← 337,448 1,232,258      
2000年(平成12年) 891,240 ←←←← 344,900 1,236,140      
2001年(平成13年) 872,070 ←←←← 320,954 1,193,024      
2002年(平成14年) 842,130 ←←←← 313,910 1,156,040      
2003年(平成15年) 852,780 ←←←← 312,163 1,164,943      
2004年(平成16年) 849,420 ←←←← 297,265 1,146,685      
2005年(平成17年) 836,730 ←←←← 301,085 1,137,815 11月8日 5,887  
2006年(平成18年) 823,410 ←←←← 303,589 1,126,999      
2007年(平成19年) 817,260 ←←←← 309,293 1,126,553      
2008年(平成20年)   ←←←←     11月18日 5,777  
2009年(平成21年) 814,740 ←←←← 290,511 1,105,251      

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駅周辺

川越町地域内
四日市市地域内(富洲原地区・大矢知地区)

バス路線

乗り場 系統 主要経由地 行先 運行会社 備考
近鉄川越富洲原駅東口   南ルート 高松国道1号西・川越町役場 総合センター ふれあいバス 平日運転

歴史

ファイル:富洲原駅駅名票.JPG
改称前の駅名標(2009年1月3日)

年表

駅名変更

1929年(昭和4年)に伊勢電気鉄道富洲原駅(伊藤平治郎の誘致した駅)として開業した。近鉄名古屋駅名古屋市)方面から三重郡富洲原町の天ヶ須賀にあった須賀浦海水浴場に来る観光客で賑わっていた。[1]1945年(昭和20年)までは、富洲原駅の位置は現在の駅より300メートル南側に離れた四日市市平町に立地していた。同年、隣の三重郡川越村の朝明川付近にあった無人駅の「伊勢電気鉄道川越駅」が廃止されて富洲原駅と統合されて、川越駅側の中間の距離となる300m北の現在の位置の川越町の豊田地区に富洲原駅が移動した。[2]2009年(平成21年)に駅名が<川越富洲原>に改称された。富洲原は旧駅のあった四日市市の地区名である。

富洲原の駅名が使用されていた背景は東京ディズニーランド千葉県浦安市に存在するのに東京の名称となっているのと同じで東京都千葉県の力関係と同様の例であった。川越町は昭和20年代には、養殖農業水飴産業しかない発展していない三重郡の農村であった。富洲原は東洋紡績東洋紡績富田工場)が立地していた事と平田紡績本社工場が立地するなど巨大工場によって工業化されていた街であった。戦前からの急速な工業化で商店街が形成されて、上水道網や下水道網が整備された近代都市で政治的にも経済的にも富洲原地区の方が川越町より力関係が強かったから富洲原の駅名が使用されていた。しかし、1990年代には富洲原地区は紡績工場の相次ぐ閉鎖による工業生産力の低下や商店街の衰退や水害による富田一色地区の急速な人口の減少で富洲原地区は衰退していた。[3]川越町は昭和末期に中部電力川越火力発電所が誘致されて大企業の施設が建設された事や道路網の相次ぐ整備で人口が急増して、川越町は法人税固定資産税が急増して財政が豊かな地方自治体となり駅名を改名させる費用や駅前の整備をする費用の余裕ができて、富洲原と川越町の力関係が逆転していた。

川越町は富洲原を町の玄関口と位置付けていて、1983年(昭和58年)に川越町議会議員で富洲原駅付近(豊田地区)出身の飯田勝祐議員が問題提起をした。駅名問題として川越町に立地している事から、「富洲原駅」であるのが可笑しくて駅名に疑問があるから「川越町駅」に改称するように川越町議会で質問した事が発端となった。以後、川越町の議会で「富洲原駅の名称問題」が幾度も取り上げられて川越町駅に改称するように近鉄と交渉をした。竹下内閣ふるさと創生事業として、川越町の資金援助で三重県立川越高等学校付近の川越町(豊田一色地区内)に川越町駅を建設するように求めたが、近鉄が駅が新設されて駅数が増加する事によって駅間隔が短くなるダイヤ(時刻表)の都合がある事を理由に「川越町駅」の建設を断った。川越町駅への改称は近鉄及び四日市市への交渉と理解が必要で、富洲原地区民の反発と埼玉県川越市と同一地名の「川越」である問題があった。

川越町民による富洲原地区民への嫌がらせもあり、地域版の新聞記事では、[4]1993年(平成5年)に川越町民が四日市市立富洲原小学校の講堂への放火を試みて教師が出火に気づき消火する小火などもあった。

現在の駅の所在地が四日市市富洲原地区ではなく同町豊田地区である事から、川越町が駅整備事業を全額負担する事と、平成初期は『富洲原川越駅』を提案していたが、駅名を『川越富洲原駅』とする条件に代えて、近鉄と交渉を行ってきた。2008年(平成20年)11月21日には、近鉄より「翌年の2009年(平成21年)3月20日に駅名を『富洲原駅』から『川越富洲原駅』に改称する」ことが発表され、発表通り翌年3月20日に現駅名に改称された。東口広場と西口広場の駅前広場が設けられて、冬季には東口広場にイルミネーションが設置されている。四日市北警察署四日市市内の富田地区と富洲原地区と川越町朝明川より南部地域(豊田地区南部・天神地区)と朝明川より北部地域(豊田地区北部)を管轄とする「川越富洲原駅前交番」が設置された。なお、近鉄が所有するのは改札内のみであり、橋上のその他の施設はエレベーターも含め、川越町道となっている。

駅施設の変更

富洲原駅時代はが泳ぐため池が駅舎の付近にあった。富洲原駅の西側は三重郡川越町の豊田地区であり、運河型の河川田んぼなど広大な農地があったが現在はアパートなど住宅開発がされている。富洲原駅の東側は富洲原駅前の商店街である天神町商店街がある。富洲原駅時代は駅舎に早朝の時間帯のみ開設されるパンなどの軽食を販売する売店があった。富洲原駅の構内は踏切で1番ホームから~4番ホームまでを横断する構造で、踏切に安全性の問題があり、高齢者の女性が踏切を横断するのに時間がかかり通過列車にひかれる死亡事故が多発していた。川越富洲原駅に駅名が改称されてからは安全性の向上のための改修工事の結果橋上駅となり死亡事故が無くなり駅の安全性が向上した。富洲原駅時代は富洲原地区を中心とする案内図があり、天ヵ須賀地区の住吉町自治会・港町自治会・南町自治会・本町自治会・寺町自治会・中町自治会・江戸町自治会・岩戸町自治会・常盤町自治会・北町自治会・島崎町自治会の各自治会名の案内図があった。川越富洲原駅に駅名が変更されたからは、川越町によって設置された川越町中心の川越町案内図と川越富洲原駅周辺案内図の2つの案内図が設置されて富洲原地区関係の紹介が削除された。駅の通路には川越町の物産品紹介コーナー(朝明商工会が設置した展示品)がある。川越町が所有するインフォメーション施設として以下の川越町を紹介する展示品がある。

  1. 町章
  2. 町の木(クロガネモチ
  3. 町の花(水仙
  4. 町の鳥(ツバメ
  5. 川越町の地図(マップ
  6. 川越町の祭りの紹介
  7. 川越町の風景紹介
  8. 川越町の歴史紹介
  9. ふれあいコーナー

その他

隣の駅

近畿日本鉄道
名古屋線
テンプレート:Color急行
通過
テンプレート:Color準急・テンプレート:Color普通
伊勢朝日駅 - 川越富洲原駅 - 近鉄富田駅

脚注

  1. 川越駅と須賀浦海水浴場の記述。想い出の伊勢電特急「はつひ」で85分の旅
  2. 川越町史の523ページの22行目から~23行目の交通機関の項目
  3. 四日市市立富洲原小学校創立100周年記念誌の161ページ上段16行目~下段16行目
  4. 1993年(平成5年)の伊勢新聞読売新聞中日新聞の地域記事(北勢地方版)
  5. 東海地震に関するお知らせ K's PLAZAより

関連項目

外部リンク

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