川島正次郎

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川島 正次郎(かわしま しょうじろう、1890年(明治23年)7月10日 - 1970年(昭和45年)11月9日)は日本政治家千葉県東葛飾郡行徳町(現在の市川市)出身(東京府東京市日本橋区生まれ)[1]旧姓柳原。栄典従二位勲一等旭日桐花大綬章


概要

国務大臣北海道開発庁長官、国務大臣行政管理庁長官、国務大臣自治庁長官、自民党幹事長自民党副総裁を歴任。

長く自由民主党副総裁として、自民党のナンバー2に君臨した。川島派(交友クラブ)領袖。

専修大学総長千葉工業大学理事長会長成田山奉賛会初代会長を歴任。

ナポレオン時代のフランスの政治家・ジョゼフ・フーシェに例えられ「江戸前フーシェ」や、「寝業師」、「道中師」、「おとぼけの正次郎」と渾名されたりもした。

来歴・人物

生い立ち

東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区)に、父・柳原謙次郎、母・コウの三男として生まれた。母は正次郎出生後間もなく死去した。正次郎は日本橋鼈甲屋を営む川島才次郎家に養子入籍し川島姓となった。

小さな時から美少年で知られ、正次郎を養子に欲しいという芝居小屋の主人まで現われたという。

久松小学校(尋常小学校4年、尋常高等小学校4年)を卒業したところで中学への進学を希望したが父親から「鼈甲屋を手伝え」と言われ、1年間商売の見習いをした。

正則英語学校を経て、旧制専修大学経済学科に学んだ。専修大学卒業後、内務省警保局に入省し、後藤新平内務大臣の知遇をえた。ここは選挙の際に情報を集める部署であり、川島は選挙の分析から次第に選挙そのものに関心を抱くようになった。東京日日新聞政治部記者に転じ、東京市長となった後藤新平の引きで、東京市商工課長となった。

政治家へ

1928年(昭和3年)の総選挙衆議院議員に初当選し、立憲政友会に属する。苦労して学校を卒業した川島には有力なコネもなく、政治の表舞台に出る機会に恵まれなかったが、政友会の先輩の前田米蔵から「政界では欲を出さずに、ナンバー2でいるのが大切だ」とアドバイスされたことを契機に、以後ナンバー2の座を目指すようになる。

川島は政界入りした当初は森恪と、森の死後は前田と行動をともにし、1939年(昭和14年)の政友会分裂に際しては前田とともに革新派(中島知久平総裁)に属した。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で当選し、1945年(昭和20年)には大日本政治会の情報部長を務めた。占領下では院内会派の無所属倶楽部に属したがまもなく公職追放。その間公刊され間もない『原敬日記』(乾元社全9巻)を熟読、党人派としての生き方を模索した。追放解除後の1952年(昭和27年)に政界復帰。

1955年(昭和30年)、第2次鳩山内閣自治庁長官行政管理庁長官に任命され、当選9回目にしてようやく初入閣を果たす。鳩山内閣では保守合同を推進し、自民党の創設にも大きく関わった。1956年(昭和31年)には小選挙区制導入を狙う鳩山一郎首相の意を受けて、小選挙区法案(ハトマンダー)を提出するが、これは内務省時代以来、選挙制度に関する研究を続けてきた川島だからこそ出来た仕事だった。小選挙区法案は廃案となるが、川島はその仕事振りから自民党内でも一目おかれるようになった。

ナンバー2への道

鳩山内閣退陣後は岸信介政権の樹立に動き、岸内閣の下で自民党幹事長に就いている。川島は1960年(昭和35年)安保闘争を前にして動揺する党内の混乱をよく押さえて、とにかく新安保条約の成立まで岸政権を守り抜いた。当時川島幹事長は小沢佐重喜を安保特別委員会委員長として強行採決の段取りを進めた。

1960年(昭和35年)の岸内閣総辞職後、党人派から大野伴睦石井光次郎自民党総裁選に名乗りを上げ、官僚派からは池田勇人が名乗りをあげていた。その頃、川島は岸派内で一定の勢力を有し、川島系といわれる川島に同調する議員10人ほどを連れて、大野支持に向かう様子をにおわせていた。川島は大野に対して「党人派が二分されると官僚派の池田に勝てないので、党人派は石井一本にまとめたほうがいい」と進言して、大野に総裁選を辞退させた。すると、手のひらを返したように川島は「大野を支援しようと思ったが、大野が辞退したので池田を支持する」と表明して池田支持に乗り換え、その功績もあり池田政権末期に、初代自民党副総裁だった大野が亡くなったのに伴い後任に就任した。池田が病いで退陣する際には、後継者に佐藤栄作を指名させるのに功績があり、佐藤政権でも自民党副総裁に任命された、佐藤政権の下で川島は終生自民党副総裁の地位を維持し、常に与党ナンバー2の地位を保ち続けた。また1962年(昭和37年)10月岸派が解散すると、岸が派閥を福田赳夫に譲ることに反発し、翌11月川島派「交友クラブ」として分派した。

池田内閣では1964年東京オリンピック担当大臣としてオリンピック事業整備を進め、新幹線首都高速などのインフラを構築しながら高度経済成長の仕組みを作り上げ、池田の「所得倍増論」実現を推進したのも、この仕組みを作った川島の功績によるものであった。羽田空港に代わる新たな国際空港開設においては地元に近い成田への決定を積極的に推進している。また、近年機密解除されたアメリカ公文書によると1968年(昭和43年)にアメリカ政府に沖縄返還を決定させたのが川島である事が公開された[2]

経済合理性も川島の特徴である。川島は「資金集めが大変だから」という理由で加入希望者が続出したにもかかわらず、川島派を20名程度までしか増やさなかった。派閥成員17人ぐらいで大臣ポスト1つの割合で閣僚ポストを割り振るのが当時の人事慣行で、20人程度を擁していれば確実に大臣ポストを1つ確保できる上、派内の議員たちに効率よく満遍なく大臣ポストをまわせることを川島は知っていたのである。川島は自派の結束を固め、常にキャスティング・ボートを握る位置を確保することで、ナンバー2の座(自民党副総裁)を維持することが出来た。

1970年(昭和45年)秋、「佐藤栄作は次期首相の座を大蔵官僚出身の福田赳夫に譲ろうとしている」という情報をキャッチすると、川島は「岸・池田・佐藤と官僚出身者による内閣が続き、人心は官僚出身者に飽いている」として福田のライバルだった田中角栄を支持し、田中が勢力を拡大するための時間を稼ぐために、1970年の自民党総裁選では福田への禅譲[3]を考えていた佐藤を、川島副総裁、田中幹事長という立場で、総裁選に出馬させ佐藤政権の延命を図り、佐藤の機嫌を取りたい中間派を水面下で佐藤出馬支持にとりまとめた。結果として佐藤は三木武夫との、一騎打ちに勝ち4選したが、政権末期の約一年間に、求心力が急速に低下し事実上「禅譲」が不可能になった。(川島は)党人派政治家として田中に総理総裁への道を開いた[4]

総裁選から9日後の11月9日大田区山王の自宅にて、持病である気管支喘息の発作により急逝した。享年80。日本武道館にて自民党葬が行われた[5]

教育者、文化人として

川島は教育界の発展にも貢献している。母校・専修大学の総長となって、専修大学の発展に尽くしたという側面も持っている(専修大学松戸高等学校の創立は地元出身の彼の主導による)。また、千葉工業大学の理事長も務めた。さらに中央学院大学設立に当たっては、設立後学校法人中央学院理事長に就任した甥の平山善司[6]の要請により我孫子市の土地のとりまとめを行ったのも川島によるものである。また日本プロレスリングコミッショナーを始め日本学生卓球連盟会長、日本ボウリング協議会総裁、日本消防協会会長、江戸消防記念会名誉会長、江戸火消防存会会長、畠山みどりの後援会長など教育、スポーツ、文化、芸能の振興にも尽力し各分野の要職を務めた。プロレス界には今でも「川島が務めていた頃のコミッショナーはお飾りではなかった」と評価する声がある。1965年に勲一等旭日大綬章を受章、没した際に従二位に叙し勲一等旭日桐花大綬章を追贈された。

千葉県政界の重鎮

地元の千葉県では、県議会の長老で戦時中に行動をともにした川口爲之助を担いで初代民選県知事に押したてて追放中ながらもその腹心となった。後に参議院議員も務めた川口からその人脈を引き継いで地元の有力議員として千葉県選出の国会議員や地方議員のまとめ役としても辣腕をふるった。松本清県議(マツモトキヨシ創業者)の松戸市長擁立を仕掛けたのは川島であると言われている。

死後

唯一の子供であった正孝(まさたか)を11歳で亡くしているため選挙地盤を親族から継ぐものは無く、直系の県議だった染谷誠が国政転進で受け継ぐことになった。また派閥は、後藤新平を通じて盟友となった椎名悦三郎が継承した。政治的基盤は平山秀善が受け継いだ。

政治語録

  • 「政界一寸先は闇」
  • 「要は勝つこと。負けた後に文句を言っても何の解決策にもなりませんよ」(大野下ろしに成功した直後のコメント)
  • 「やはり野に置け蓮華草」
  • 「70年代は自共対決の時代になる」

脚注

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参考文献

関連項目

外部リンク


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テンプレート:S-par |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
村上勇 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院人事委員長
1953年 - 1954年 |style="width:30%"|次代:
受田新吉 テンプレート:S-ppo |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
川島正次郎
大野伴睦 |style="width:40%; text-align:center"|自由民主党副総裁
第4代:1967年 - 1970年
第3代:1964年 - 1966年 |style="width:30%"|次代:
椎名悦三郎
川島正次郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
- |style="width:40%; text-align:center"|交友クラブ会長
初代:1962年 - 1970年 |style="width:30%"|次代:
椎名悦三郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
福田赳夫
三木武夫 |style="width:40%; text-align:center"|自由民主党幹事長
第5代:1959年 - 1960年
第3代:1957年 - 1959年 |style="width:30%"|次代:
益谷秀次
福田赳夫 テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
小沢佐重喜
西田隆男 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 行政管理庁長官
第22代:1962年 - 1963年
第13代:1955年 |style="width:30%"|次代:
山村新治郎
河野一郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
小沢佐重喜 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 北海道開発庁長官
第20代:1961年 - 1962年 |style="width:30%"|次代:
佐藤栄作 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
西田隆男 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 自治庁長官
第5代:1955年 |style="width:30%"|次代:
太田正孝

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テンプレート:自由民主党副総裁
  1. 『第十六版 人事興信録 上』(昭和26年)か72頁には“千葉縣行徳町”出身とある。
  2. 最晩年に、日米関係をめぐる提言「七〇年代日本外交の展開」1969年(昭和44年)の<第2回日米関係民間会議>より(『沖縄以後の日米関係』に所収、サイマル出版会、1970年(昭和45年))、「太平洋新時代と日米関係 一九七〇年代を迎えて」(『現代日本の外交』の一章、鹿島出版会、1970年(昭和45年))、「七〇年代の展望 <安保>もう十年続く」(『毎日新聞』シリーズインタビュー「政権」より、同社で1970年(昭和45年)刊) を残している。
  3. 岸信介は弟の佐藤に4選目への不出馬を促し、福田への禅譲を提言した、福田もそれを期待していた。一方で福田は、佐藤政権延長には反対できない立場なのを(川島・田中は)見抜いていた。
  4. 余話だが評論家大宅壮一の生前最後の記事『サンデー毎日』連載の時事評論の末尾で、10月に佐藤4期目が決定した際の川島の動きを辛口批評した。奇しくも川島が没した約2週間後の11月22日に病没している。『無思想の思想』(文藝春秋)ほかに所収。なお門下生の草柳大蔵『実力者の条件』(文藝春秋)にも川島論がある。
  5. 追悼出版に『川島正次郎』(林政春、花園通信社、1971年(昭和46年))、『川島正次郎 川島正次郎先生追想録編集委員会編』(交友クラブ編・非売品、1971年(昭和46年)11月)、『政界一寸先は闇  ある川島担当記者の手記』(小畑伸一、黄帆社、1972年(昭和47年)2月)がある。
  6. 姉・千代の子息。後に我孫子市から県議選に出馬した平山秀善は、平山善司の次男である。