島野育夫

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テンプレート:Sakujo/本体 テンプレート:Ambox テンプレート:Infobox baseball player 島野 育夫(しまの いくお、1944年3月30日 - 2007年12月15日)は、栃木県宇都宮市出身のプロ野球選手外野手)、コーチ、監督野球解説者。長男は競輪選手の島野敦識日本競輪学校第74期生)。

コーチ時代は相手の癖を盗む特技を生かし、球界屈指の名参謀と言われていた。 三宅博も著書の中でセンスを持ったクセ盗みの名人と記している[1]。特に星野仙一との監督・コーチコンビでは中日ドラゴンズ阪神タイガースで優勝を経験しており、低迷期の長かった阪神にあっては島野が在籍していた時期は最下位になったことが一度もなかった。

来歴

作新学院高等学校ではテンプレート:Byに1学年下の八木沢荘六高山忠克らとともに春の選抜に出場した。社会人野球明電舎に進み、テンプレート:Byに中日ドラゴンズに入団。テンプレート:Byシーズン途中に佐藤公博とともに、堀込基明との交換トレード南海ホークスに移籍し頭角を現す。テンプレート:Byにはリードオフマンとして中堅手に定着し61盗塁を記録、またダイヤモンドグラブ賞を受賞しリーグ優勝に貢献した。テンプレート:Byテンプレート:Byもレギュラーを確保し、ダイヤモンドグラブ賞に輝いた。

テンプレート:By江夏豊望月充との交換トレードで、江本孟紀池内豊長谷川勉とともに阪神タイガースに移籍し、テンプレート:Byをもって現役引退。

テンプレート:By、阪神の守備・走塁コーチに就任。8月31日の対横浜大洋ホエールズ戦で石橋貢の捕球に対する判定を巡って柴田猛とともに審判に暴行し、無抵抗状態の審判を殴り蹴り続けた(横浜スタジアム審判集団暴行事件)。この暴行は映像がTV放送で流れ、永久追放を求める声も出た。翌9月1日、無期限出場停止の処分を受けるが、翌テンプレート:By3月に解除された。

テンプレート:Byをもって退団。テンプレート:Byサンテレビジョン野球解説者を務め、優勝した阪神のビールかけにも参加した。

テンプレート:By、中日の一軍外野守備走塁コーチに就任。翌テンプレート:By星野仙一が監督に就き、そこから星野とともに活動する機会が増える(後述)[2]。何かと星野とソリが合わなかった落合博満は「島野コーチだけは選手の不平不満をちゃんと聞いてやり、ストレス解消と緩衝材としての役割を果たしていた」と語っている[3]

テンプレート:By、星野の辞任に伴い中日を去る。翌テンプレート:By、阪神のコーチに復帰。一軍外野守備走塁コーチ(三塁ベースコーチ)を担当し、前年まで最下位争いの常連だった阪神が優勝争いを演じる一翼を担った。

テンプレート:By、中日に二軍監督として復帰。同年監督の高木守道が成績不振と健康問題で6月2日で休養、同3日からヘッドコーチの徳武定祐監督代行を務めたが、徳武代行も12勝25敗と成績が上がらずに7月23日に解任を発表、球宴明けの同29日から監督代行[4]、54試合一軍監督代行を務め最下位から5位に浮上させた[5]。星野が監督に復帰したテンプレート:Byからはヘッドコーチに就任。テンプレート:By第2次星野政権のリーグ優勝に貢献。星野がテンプレート:By5月6日の対横浜戦で球審の橘高淳に暴行で退場、出場停止になった際は監督代行を務めた。

テンプレート:Byオフ、阪神の監督に招聘された星野に従う形で阪神にコーチとして復帰する。この時すでに中日の二軍監督として残留することが発表されていたため、反故にされた中日側からは批判の声が上がった。この時星野は「オレと島ちゃんはどんな名刀でも切り裂くことができない」と言い、非はこちらにあるが勘弁してくれと中日側を説得したという。テンプレート:By、当時健康問題を抱えていた星野が試合中にベンチで休み、ヘッドコーチの島野が実質上の采配を振るなどリーグ優勝に貢献した。星野は著書の中で、「野球の原点と戦術にたけたベテランコーチ」と評価している[6]下柳剛は「島野さんという人は親父であり、上司であり、時には兄貴のような人、あるときは仲間でもあった。」と語っている[7]。翌テンプレート:By、星野の勇退とともにコーチを辞任しフロント入りしたが、テンプレート:Byにオーナーの久万俊二郎の鶴の一声で一軍総合コーチに復帰した[3]

テンプレート:By二軍監督に就任するが、4月26日から胃潰瘍により長期入院、シーズン中は二軍打撃兼守備コーチの立石充男が監督代行を務めた。

テンプレート:By、二軍監督を平田勝男に譲って現場から離れ総合特命コーチに就任。翌年からは球団アドバイザーに就く予定だったが、胃癌のため12月15日に兵庫県西宮市の病院で死去した。テンプレート:没年齢

その死は多くの阪神ファンや阪神球団関係者に悼まれ、テンプレート:By3月5日に大阪ドームにて追悼試合が行われた。

亡くなる数か月前、神戸市三宮に創作洋食の店をオープンし、オーナーとして経営していた。島野が亡くなってからは夫人が店長兼オーナーを務めた。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 中日 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
テンプレート:By2 44 28 27 8 5 1 0 0 6 3 2 1 0 0 1 0 0 11 0 .185 .214 .222 .437
テンプレート:By2 99 169 155 23 30 2 3 2 44 14 14 5 3 2 8 0 1 36 2 .194 .235 .284 .519
テンプレート:By2 104 141 126 16 30 2 1 1 37 10 7 4 5 1 7 0 2 13 0 .238 .287 .294 .580
テンプレート:By2 86 151 136 13 28 2 1 0 32 8 2 2 7 1 6 0 1 33 0 .206 .243 .235 .478
テンプレート:By2 22 20 20 2 2 1 0 0 3 0 1 1 0 0 0 0 0 6 0 .100 .100 .150 .250
南海 91 139 124 21 28 2 2 4 46 12 14 3 4 1 10 0 0 26 1 .226 .281 .371 .652
'68計 113 159 144 23 30 3 2 4 49 12 15 4 4 1 10 0 0 32 1 .208 .258 .340 .598
テンプレート:By2 119 412 380 38 101 12 2 6 135 28 21 6 6 1 23 0 2 58 11 .266 .310 .355 .666
テンプレート:By2 81 165 154 20 45 5 1 1 55 9 5 6 2 0 8 0 1 18 1 .292 .331 .357 .688
テンプレート:By2 82 89 84 17 15 0 0 0 15 3 7 1 0 0 5 0 0 19 1 .179 .225 .179 .403
テンプレート:By2 85 203 185 28 52 5 4 0 65 14 12 3 1 3 13 1 1 16 2 .281 .327 .351 .678
テンプレート:By2 130 594 559 68 141 17 2 2 168 28 61 14 8 0 27 0 0 46 10 .252 .287 .301 .587
テンプレート:By2 106 413 380 55 104 17 6 2 139 25 30 17 2 3 26 1 2 39 4 .274 .321 .366 .687
テンプレート:By2 103 402 375 44 86 11 4 2 111 30 28 7 4 2 21 1 0 34 4 .229 .269 .296 .565
テンプレート:By2 阪神 78 70 67 16 12 2 0 0 14 2 11 3 0 0 3 0 0 21 1 .179 .214 .209 .423
テンプレート:By2 68 76 65 15 17 3 0 1 23 9 7 0 5 0 6 0 0 10 0 .262 .324 .354 .678
テンプレート:By2 89 196 179 22 34 8 1 3 53 16 9 0 4 1 9 1 3 30 4 .190 .240 .296 .536
テンプレート:By2 43 14 12 10 3 0 0 0 3 0 14 2 0 0 2 0 0 3 1 .250 .357 .250 .607
テンプレート:By2 35 0 0 15 0 0 0 0 0 0 6 3 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
通算:18年 1466 3283 3029 431 733 90 27 24 949 211 251 78 51 15 175 4 13 419 42 .242 .285 .313 .598
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

背番号

  • 11 (1963年 - 1964年)
  • 33 (1965年 - 1968年途中)
  • 10 (1968年途中 - 1975年)
  • 8 (1976年 - 1980年)
  • 88 (1981年 - 1984年)
  • 76 (1986年)
  • 68 (1987年 - 1989年)
  • 81 (1990年 - 1991年)
  • 73 (1992年 - 1994年)
  • 91 (1995年、2005年 - 2007年)
  • 78 (1996年 - 2003年)

関連情報

出演

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:中日ドラゴンズ歴代監督 テンプレート:パシフィック・リーグ ゴールデングラブ (外野手)

外部リンク

テンプレート:BASEBALLstats
  1. 三宅博著、虎のスコアラーが教える「プロ」の野球観戦術、2013年、祥伝社、P26
  2. 星野の妻が病死した際は葬儀にも納骨まで出席し、晩年まで墓参りを欠かさなかった。田淵幸一山本浩二と星野の「友達」関係とはまた違う、職場関係を越えた深い仲にあった(テンプレート:いつデイリースポーツの島野コラムより)。
  3. 3.0 3.1 サンケイスポーツ内コラム「猛虎水滸伝」、2012年7月29日
  4. 監督代行の代行/メモ
  5. 日本プロ野球平成の名将―1989ー2012、2012年、ベースボール・マガジン社、P103
  6. 夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P40
  7. 本邦初公開 下柳氏が楽天入団時に背番号「91」選んだ理由 スポーツニッポン