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[[ファイル:山脇東洋3836.JPG|thumb|220px|山脇東洋解剖碑所在墓地、京都市中京区新京極通三条下る東入]] '''山脇 東洋'''(やまわき とうよう、[[宝永]]2年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]([[1706年]][[2月1日]])- [[宝暦]]12年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]([[1762年]][[9月25日]]))は、[[江戸時代]]の医学者。[[実験医学]]先駆者の一人。東洋は後の号で、はじめは移山。名は尚徳、字は玄飛、子飛。子に[[山脇東門]]、門下に[[永富独嘯庵]]らがいる。 == 略歴 == [[丹波国]]亀山に生まれる。医家清水家の生まれで、享保11年(1726年)に父が門下の[[法眼]]山脇家の養子となる。1729年には家督を相続して法眼となる。[[後藤艮山]]から、理論よりも実践を重視する[[古方派|古医方]]を学び、延享3年(1746年)には唐代の医学書『外台秘要方』を復刻。 [[カワウソ]]の解剖から[[陰陽五行説]]に基づく人体の内景に疑問を抱き、宝暦4年([[1754年]])閏2月、[[京都所司代]]の許可を得て死刑囚の[[解剖]]、観察を行う。宝暦9年([[1759年]])にはその成果を解剖図録『[[蔵志]]』として刊行。漢方医による[[五臓六腑説]]など、身体機能認識の誤謬を指摘した。 [[吉益東洞]]ら古医方においても人体解剖には抵抗が強かったため批判を浴びるが、国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな影響を与える。東洋の影響を受け、江戸では[[杉田玄白]]、[[前野良沢]]らがより正確性の高い[[オランダ]]医学書の翻訳に着手する。日本医学の近代化に大きく貢献した人物である。 == 関連項目 == * 『[[蔵志]]』 == 外部リンク == *[http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na098.html 山脇東洋観臓地](京都市) {{DEFAULTSORT:やまわき とうよう}} [[Category:江戸時代の医学者]] [[Category:18世紀の学者]] [[Category:伝統医学]] [[Category:江戸時代の医師]] [[Category:丹波国の人物]] [[Category:1706年生]] [[Category:1762年没]]
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