山口二矢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Mboxテンプレート:Infobox 犯罪者 山口 二矢(やまぐち おとや、1943年2月22日 - 1960年11月2日)は、日本右翼活動家民族主義者および反共主義者で、1960年10月12日に発生した浅沼稲次郎暗殺事件の実行犯である。

1960年10月、政党代表放送で演説中の日本社会党の党首浅沼稲次郎を小刀で殺害した。逮捕後、「後悔はしていないが償いはする」と口にして裁判を待たず、東京少年鑑別所内で「天皇陛下万歳、七生報国」との遺書を残して首吊り自殺した。

略歴

生涯前半

二矢は1943年、後の陸上自衛隊山口晋平と大衆作家村上浪六の三女の次男として東京都台東区谷で生まれた。次男として生まれたことから、父親が姓名判断をした上で、「二の字に縁が多い」ことによって彼の名前を二矢と名付けた。彼の父は東北帝国大学出身の厳格な人物で、兄も学業に秀でていた。大衆作家の村上浪六は、母方の祖父にあたり、文化史家の村上信彦は伯父にあたる。

幼年時代から、彼は新聞やニュースを読み、国体護持の闘争に身を投じて政治家たちを激烈に批判した。彼は早くから右翼思想を持った兄の影響を受けて右翼活動に参加することになった。中学から高校の初めまでは父親の勤務地の関係で、札幌で生活した。彼は1958年(昭和33)玉川学園高等部に進んだが、しかし、父親の晋平の転勤が発令されたため、彼は札幌の光星学園へ転校。しかし、再び東京へ戻って玉川学園に転入した。

民族主義運動

1959年(昭和34)5月10日、16歳で愛国党総裁赤尾敏の演説を聞いて感銘を受け、赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し、愛国党の青年本部員となった。赤尾の「日本は革命前夜にある。青年は今すぐ左翼と対決しなければならない!」という言葉に山口は感動し、赤尾が次の場所に移動しようとした時、山口はトラックに飛び乗り、「私も連れて行って欲しい」と頼み込んだ。しかし、この時には赤尾に静かに拒絶された。その後、玉川学園高等部を中退。小淵沢町嶽南義塾をしていた杉本広義のもとでしばらく厄介になり、彼の紹介で大東文化大学聴講生となった。

山口は赤尾の演説に対して野次を飛ばす者がいると、野次の者に殴りかかっていくこと等を継続した。彼は左派の集会解散と右派人士保護を率先して行った。ビラ貼りをしているときに、警察官と取っ組み合いの乱闘をしたこともあった。愛国党の入党後半年で、彼は10回も検挙された。1959年12月に保護観察4年の処分を受けた。

1960年(昭和35)5月29日、同志党員2人らとともに愛国党を脱党した。

テンプレート:Quotation

1960年6月17日右翼青年たちが社会党顧問である河上丈太郎を襲撃する事件が起こった時、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と評価した。

7月1日、同志たちと一緒に全アジア反共連盟東京都支会の結成に参加した。

10月4日、自宅でアコーディオンを探していたところ、偶然脇差を見つけた。鍔はなく、白木の鞘に収められているもので、山口は「この脇差で殺そうと決心した」という。二矢は明治神宮を参拝し、すぐに小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅にそれぞれ電話。「大学の学生委員だが教えてもらいたいことがある」と面会を申し込む計画だったが、小林委員長は転居、野坂議長は旅行中だったので、共にすぐに実行できず、失敗した。

10月12日、彼は自民、社会(現・社会民主)、民社の三党党首立会演説会において浅沼稲次郎を殺害する計画を立て、刀袋などを準備し、東京都千代田区の日比谷公会堂に向かって歩いていった。

浅沼稲次郎の暗殺事件

1960年10月12日に山口は日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺、現行犯逮捕された(浅沼稲次郎暗殺事件)。山口は当時17歳で少年法により実名非公開対象[1]であったが、事件の重大さから名前が公表されている。

浅沼殺害時に山口がポケットに入れていたとされる斬奸状の文面は以下の通りである。 テンプレート:Quotation

彼は自決を試みたが、すぐに飛びついた巡査によって逮捕された。事件直後、警察は「背後関係を徹底的に洗う」としたが、山口はあくまで単独犯行だと供述した。

一方、父の晋平が自衛官(1等陸佐)であることから、自衛隊は批判の累が及ぶことを恐れ、晋平の辞職を望んだ。晋平は親と子は別と考え当初は拒んでいたが、結局事件3日後の10月15日依願退職した。

死亡

山口は11月2日、東京少年鑑別所の東寮2階2号室で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)と記し[2]、シーツを裂いて縄状にして天井の裸電球を包む金網にかけ、首吊り自殺した。なお、辞世の句「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」も残している。

右翼団体は盛大な葬儀を行い山口を英雄視した。また沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎や野坂参三など政治家もリストに加えていた。

死後

毎年彼が死亡した11月2日右翼団体が追慕祭(山口二矢烈士墓前祭)を開催している。

家族・親族

関連作品

小説

  • 大江健三郎セブンティーン文學界1961年1月号(新潮文庫『性的人間』所収)
  • 大江健三郎『政治少年死す―セヴンティーン第二部』文學界1961年2月号(単行本未収。非公式には『スキャンダル大戦争2』(鹿砦社)

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

外部リンク

テンプレート:Asbox
  1. 少年法では家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者の実名報道を禁止しているだけで逮捕者や指名手配者の実名報道を禁止していない。山口は逮捕はされたが家裁審判に付されたり公訴提起されたりしていないため、厳密に言えば少年法の実名報道禁止規定には抵触していない。
  2. 一部で「血書」とされているが誤りである。