山内豊誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

山内 豊誠(やまうち とよしげ、1842年3月15日天保13年2月4日) - 1908年明治41年)2月19日)は、土佐国土佐新田藩の第6代(最後の)藩主。

第4代藩主・豊賢の弟・豊充の長男。正室は正親町実徳の娘。継室は妻木頼黄の姉、綾小路有長の娘。子は内藤正愨(長男、内藤正誠養子)、山内豊英(三男)。官位は従五位下、侍従。

明治元年(1868年)6月10日、先代藩主・豊福の養子となる。新政府に対して、豊福の自殺を隠し、重病のためとしていた。同年9月16日、養父豊福の死去にともない、その跡を継いで藩主となった。戊辰戦争では新政府側として武功を挙げたため、5000両の恩賞を与えられた。明治2年、版籍奉還により、藩知事となる。明治3年9月25日、廃藩置県に先立ち、土佐新田藩は本藩に編入、廃藩となる。明治3年11月10日、明治天皇の次侍従となる。明治4年7月28日、次侍従を退任する。

その後、新政府の役人となって司法省宮内省に出仕した。明治14年、判事となる。明治17年、子爵を授けられた。明治23年7月10日、貴族院議員に選ばれた。亡くなるまで在任した。明治41年(1908年)2月19日、67歳で死去した。

テンプレート:土佐新田藩主