尾上松之助

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テンプレート:ActorActress 尾上 松之助(おのえ まつのすけ、1875年9月12日 - 1926年9月11日)は、日本映画俳優歌舞伎役者、映画監督である。日本映画草創期に活躍した、日本初の映画スターであり、「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれた。本名は中村鶴三(なかむら かくぞう)。

来歴

1875年(明治9年)9月12日(一説には9月11日生まれ)、岡山県岡山市西中島町(現在の岡山市中区西中島町)に生まれる。父の幾三郎は岡山池田藩の二十一俵三人扶持の下級武士だったが、明治時代になると遊郭地であった西中島町で貸座敷業を営んでいた。その影響で幼いころから遊芸が好きになっていた[1]

歌舞伎界へ

6歳の時、実家近くの旭座で座頭を務めていた上方歌舞伎の大立者・2代目尾上多見蔵が家とは懇意であった縁で、『菅原伝授手習鑑』の菅秀才役で初舞台を踏む。それと同時に尾上多雀(または多見雀)という芸名をつけられる。

岡山環翠小学校(現在の岡山市立旭東小学校)に入学。その後、役者になることを反対していた両親により、岡山市上之町の呉服屋に奉公されたが、役者にどうしてもなりたかった松之助は15歳で家出をする。兵庫の弁天座の浅尾與作一座に加わるが、一座を尋ねてきた父により一旦岡山へ帰るも、両親を説得して、青年芝居の一座に加わって山陰巡業の旅に出、旅役者となった。

18歳の頃、尾上鶴三郎あるいは三升源五郎の名で芝居一座の座長として中国地方四国地方を巡業。1899年(明治32年)頃、神戸の朝日座の主任となる。1904年(明治37年)、神戸相生座で2代目尾上松之助を襲名した(1902年(明治35年)の説もある)。

1908年(明治41年)3月、岡山県玉島の芝居小屋へ巡業に出る。玉島には金光教の本部があり、ちょうど京都市上京区千本通一条上ル(西陣)で芝居小屋「千本座」の座主を務める牧野省三が、長男マキノ雅弘を連れて金光教の生神に名をもらいに[2]来ていた。そこで松之助の狂言『狐忠信』を観た牧野省三は、松之助の余りの身の軽さにびっくりして、即座に楽屋を訪れ、千本座への出演交渉を依頼した。しかし松之助にはまだ出演契約が残っており、2年後の千本座出演を約束し、二人は別れた。この年、牧野は活動写真本能寺合戦』の撮影に成功し、映画製作に乗り出している。

1909年(明治42年)、岡山での約束を守り、京都の牧野のもとで千本座の舞台を踏んだ松之助はたちまち西陣界隈の人気者となる。牧野は松之助に出演料月額八十円(当時)と、衣食住すべてを負担し、あらゆる犠牲を払って松之助を遇した。

松之助の演目は千本座でも『狐忠信』で、その身のこなしで大向こうを唸らせ、「トンボ松」の異名を取った。牧野は松之助の役者顔がより活動写真に適しているとの自信を深め、横田商会で松之助主演の映画製作に取り掛かる。

当時、歌舞伎役者は「河原乞食」と呼ばれ、活動役者はさらに下に見られていた。松之助は「板(舞台)の上から土の上へ降りて芝居することを「役者としての堕落である」として尻込みしたが、牧野は千本座裏の大超寺境内の「土の上」一面に茣蓙を敷いて「舞台」を作り、『碁盤忠信』(ごばんただのぶ)の撮影に入った。

映画界へ

同年10月17日、横田商会製作・牧野省三監督の『碁盤忠信・源氏礎』が公開。映画デビューを果たす。

同年、第3作『石山軍記』で、楠木正具に扮した松之助は、敵軍の乱れを見据える場面で大きな目玉をギョロリとむいてハッタと睨んだ。観客は「よう、目玉!」、「目玉の松ッチャン!」と掛け声をかけ、これを聞いた牧野は以後、松之助映画のキーポイントに「目玉」を最大限に活用。ここから「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれるようになった[3]。全盛期には、一ヶ月に9本の出演をこなしたことがあった[4]

そうして牧野省三の指導のもと、生涯に横田商会と同社が合併によって設立された日活の2社で合計1000本余りの時代劇映画に出演した。立川文庫講談でおなじみの英雄、豪傑、義人、侠客のほとんどに扮しており、歌舞伎の映画化やトリック撮影を駆使した忍術映画などでも活躍、当時の少年ファンたちのアイドル的存在となった。

1921年(大正10年)、牧野監督が独立宣言を行い、牧野教育映画製作所を設立。日活が牧野監督の「松之助映画を第一部、市川姉蔵映画を第二部とする二部製作制とし、牧野は今後姉蔵に専念して松之助映画は撮らない」という条件をのむと、今度は松之助が反発し、独立宣言。結局中村鶴蔵を副所長にして第一部(松之助映画)の実権を握らせることで落着したが、牧野と松之助のいざこざは根強く残った[5]

二部体制に分かれた日活では、姉蔵の人気が出てしまい、松之助は牧野省三に「もう一度一緒にやってくれ」と談判。同年4月、大石内蔵助役で二部構成の大作『忠臣蔵』に主演。大ヒットとなる。

日活取締役となる

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活動写真展覧会での『楠公訣別』実演の記録映像の一場面(1921年)。手前右が尾上、奥左に松之助映画の助演者・実川延一郎が写っている。

この『忠臣蔵』完成後に、牧野が期待をかけた市川姉蔵が死去したことで二部制は廃止され、牧野監督と松之助は揃って取締役に昇進したが、牧野は日活を去り、教育映画製作に専念した。

同年、独立した牧野の後任として日活大将軍撮影所の撮影所長に就任。重役スターとなり、監督も務めた。

このころ、松之助は前々から目をかけていた尾上松三郎に匿名でシナリオを書かせたところ意外な好評を呼んだ。のちに松之助は松三郎を自分の妹と結婚させた。この松三郎はのちに池田富保として日活を背負う大監督となる。

同年12月、摂政宮殿下文部省主催の活動写真展覧会で松之助一派の『楠公訣別』の実演と映画撮影の状況を観覧した。この様子を映した映像が35mmフィルムで現存しており、重要文化財に指定されている。

日活重役の松之助は歌舞伎の英雄豪傑を舞台そのままに演じた古風な映画づくりを続けるが、アメリカからの本格的な活劇やその影響を受けた阪東妻三郎の映画などに押されはじめていった。

1925年(大正14年)、主演1000本記念大作として『荒木又右衛門』を製作、従来の歌舞伎調の立ちまわりを脱しリアルな殺陣を演じて大ヒットした。

1926年(大正15年)、『侠骨三日月』の撮影中に倒れ9月11日心臓病のため死去。享年52。9月16日に日活による社葬が行われ、棺は堀川丸太町の自宅から千本座の前を通って葬儀会場の大将軍撮影所へ運び出された。その葬列の沿道には20万人にも及ぶ市民が埋め尽くしたという。京都府知事をはじめ5万人の人々が参列し、焼香には阪東妻三郎をはじめ、衣笠貞之助伊藤大輔らも参加した。尚、この時の記録映像があり、現在東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。墓所は等持院にある。

1966年(昭和41年)、京都上京区の鴨川公園(葵公園とも)に胸像が建立された。

人物・エピソード

松之助は常にスタアであり続け、生涯に1003本の映画に出演したといわれている。18年の俳優生活から計算すると、年平均60本近い作品に出ていたことになる。松之助は大正期のベストセラーである立川文庫の英雄豪傑のほとんどに扮した。映画で演じた猿飛佐助などの忍術使いも、この立川文庫の創設したキャラクターに倣っている。これまでに演じた役柄と演じた回数は大石内蔵助(20回)、水戸黄門(13回)、大久保彦左衛門(10回)、荒木又右衛門岩見重太郎(9回)、佐倉惣五郎(8回)、堀部安兵衛(7回)、三日月次郎吉(6回)、国定忠治塚原卜伝、児雷也(5回)、後藤又兵衛清水次郎長一心太助猿飛佐助柳生十兵衛幡随院長兵衛(4回)……となる。「目玉の松っちゃん」の愛称は、左右均衡を欠いた目に特徴があったため。1920年にはプロマイド第1号となった。

マキノ省三が松之助を起用した当時の映画は、歌舞伎の場面を何場面か省略してそのまま撮るものであり、「大写し」の手法はまだ無く、画面そのものに変化がなかったために役者が目立たなければどうにもならなかった。その点、松之助は背は低いがトンボを切るのがうまく、ケレンの大きな映画に映すと映える役者だった。目をぎょろりと剥いて「目玉の松っちゃん」と呼ばれるようになったのもそうした中での工夫だった。

マキノ雅弘によると松之助は立ち回りをやっても姿勢がよく、非常にちゃんとした姿勢で歌舞伎の立ち回りをしていた。また人間としても「実にいい人」だったという。当時の役者は女形などでもイレズミを入れたり、素膚を見せられないような人が多かったが、その中では非常に立派な人で、当時子役だったマキノ雅弘も「松之助の子役なら出よう、なんて思った」と語っている[6]

松之助は、たとえば荒木又右衛門を演じるとなると、その日は朝起きると又右衛門になりきっていて、よく「今日は荒木又右衛門やな、松之助はん、すっかり荒又みたいな顔して目玉剥いてはるわ」と周囲が噂を飛ばす始末だった。「背が低く顔が大きい」という、当時としては典型的な役者顔だった。活動写真ではあまり大男だとフレームからはみ出し、狭いステージでは撮影困難となってしまう。背が低ければそれだけキャメラが前に出られ、顔が大きくて立派であればそれだけで様になるということで、こういった役者が当時はもてはやされたのである。 マキノ雅弘によると「とにかくマジメな人で、他の役者と違って博打も打たなければ酒も飲まなかった」。このようにマジメで几帳面な人物だったが、金銭にも細かく、「ケチ松」の綽名があり、「出すものは何でも嫌がり、舌を出すのもケチる男だ」と陰口をたたかれたりもした。しかし後述する晩年の巨額の寄付によって、その評価を改めさせている[7]

日活では毎年、『忠臣蔵』の撮影で天龍寺の雪に覆われた境内を討入り場面に使ったが、役者の集まりを良くするために「到着順に自分の好きな衣装を着ても良い」と懸賞をかけた。義士の衣装は襟に名前が書いてあるので、役のいいものから取られていったが、幹部俳優も下っ端にいい役を持っていかれてなるものかと抜け駆けを争った。だが大石内蔵助だけは松之助に決まっていたので、衣装方が冗談に「これどうや」と差し出しても「それ着たら首になりますヮ」と言ったといい、この習慣は大正末まで続いた[8]。 松之助に次いでマキノで売れたチャンバラ・スタアに市川百々之助がいるが、マキノ雅弘によると「百々之助というのは、松之助に似てるから役者になれた」のだという。百々之助は松之助に似て鼻の下が長く、目も大きかったのだという[9]

松之助は年に一度だけ一行で上京し、浅草富士館の舞台でご機嫌伺いをしたが、そのたびに近隣から客が殺到して大騒ぎになった。場内には子供の姿が目立った。子供たちのアイドルだった松之助は「腕で墨汁をこする人ばかりに見てもらう芸人で終わった」と評された[10]

松之助には公然の愛人がおり、日活の重役を務めたころ源八千代と名乗らせ相手役をさせたが館主から反対を受け、まもなく邸宅と金品を与えて手を切った。芸者上りの彼女は松之助の死後、豪奢に遊びまくった末に邸宅も仏壇も売り払い、姿を消した。ところが、後年松之助の作った出世長屋に、孤独死した老女がおり、これがその源八千代だった。

松之助の映画の葬儀の際、柩は堀川の自宅から一条通りの日活大将軍撮影所(葬儀会場)に向かっていったが、この道筋役5キロほどは隙間のないほどの京都市民の人垣が出来、伊藤大輔監督によると、日活の幹部クラスは皆揃いの裃を着て、まるで時代祭を想わせたという。

松之助とマキノ雅弘

マキノ雅弘はほとんどに子役で共演していて、「マサぼん、マサぼん、と云って可愛がってくれた」という。松之助は雅弘が小学校三年生の時に、雅弘を連れて北野の「武徳殿」という剣道場に通い、六級の下から二人で剣道の指南を受け、最終「二段」まで取っている。

雅弘のセリフ覚えが悪い時は、父親の省三が「イロハニホヘトでやれ」と指示を出し、雅弘が「イロハニホヘト・・・」と言うと松之助がパッと動いて、すかさず「チリヌルヲワカ」と返し、「ヨタレソツネナラム」と答えると「ウイノオクヤマケフ・・・」とかぶせるといった具合に、松之助が繋いでくれた。キャメラが回ってしまうと、松之助は非常にうまくリードしてくれたという。

1921年からの日活二部体制では、松之助は第一部の主役を張ったが、雅弘を第二部の子役にとられてしまい、自分の息子を一部の子役に起用している[11]

「忍術映画」の始まり

明治から大正初期の映画の現場は照明がなく、フィルムチェンジの際は「チェンジ、待った!」と声をかけ、フィルム交換が済むまで役者はみんなそのまま動作を止めて待っていた。この「待った」の間に小便に立った役者がおり、これに気付かず撮影を再開したところ、完成フィルムで突然役者が消えうせることとなり、これがマキノ省三監督得意の忍術トリック映画の始まりとなったというのがマキノ省三の語った話である。

当時の「忍術映画」の上映風景といえば、「松之助の児雷也が印を結んで大蝦蟇に化け、捕り方を呑みこみ、元の姿に戻って大蛇丸と立ち回り」、というような場面では、ズームレンズなど無い時代であり、キャメラが寄って来るまで松之助は姿勢を止めてじっと待っていて、観客も同じくじっと待っている、というような非常に長閑なものだった。しかしこの忍術映画は、大正期の少年たちの魂をとらえて離さなかったのである。

当時、この松之助の忍術映画が社会問題となったことがあった。「目玉の松っちゃん」の映画に影響されて、上野の駅で走ってくる汽車の前に子供が立って印を結ぶという事件が起こったのである。汽車が止まると、子供は自分の忍術で止まったのだと思い込んだという。「忍術映画は世を惑わすものである」などと言われたマキノ省三監督は、仕方なく訓戒的な「マキノ教育映画」を連作することとなった。南部僑一郎は松之助について次のように語っている。

「目玉の松っちゃん、連続活劇の『ジゴマ』、子供はみんなこれの真似をしました。忍術ものが流行る、十字きって二階からパッと飛んだら、足の骨を折った、そんな話はザラにあった、大正元年です」[12]

巨額の寄付

大正末期、功名を遂げた松之助は恩返しとして、京都市へ1万円、京都府小学資金へ1万円、海員救済会に5千円、赤十字社へ3千円、二商プール建設費5千円、府営住宅13軒の建設費1万3千5百円、その他合わせて、約5万円の寄付を行った。当時の映画の製作費が一本当たり約4千円の時代であり、5万円あれば10本以上の映画が製作できた時代である。

貧しい境遇に育った松之助は映画俳優となったおかげで裕福となった。このため、貧しい人たちのためにと、府営住宅を寄贈したのである。この住宅は「出世長屋」と呼ばれ、松之助ファンたちはこの快挙に絶大な拍手を送り、松之助はこのことで藍綬勲章を受けた後、まもなく世を去った。

この出世長屋は老朽化したため、府はこれを処分しその財源で建て直したが、この取り潰しで松之助の功績が消滅するを惜しんだ当時の蜷川虎三知事が、1966年、京都河原町今出川から賀茂大橋を渡ったところにある鴨川公園に、その余財で松之助の胸像を建立している。除幕式は二月の吹雪の中で行われた[13]

主な主演作

生涯に1000本以上の作品に出演しているが、現存している作品はごく僅かに過ぎない。ちなみに現存している作品は『尾上松之助の忠臣蔵』(1910年から1917年にかけて作られたいくつかの『忠臣蔵』映画を、戦後に数本を編集し、弁士の説明と浪曲の口演を入れて作られたもの。)、『豪傑児雷也』『弥次喜多 善光寺詣りの巻』『渋川伴五郎』『実録忠臣蔵』のみである。2008年(平成20年)、『荒木又右衛門』のフィルムの一部が発見されており、復元が行われている。

  • 碁盤忠信・源氏礎(1909年)
  • 石山軍記(1910年)
  • 大石内蔵助もの - 大石内蔵助
    • 大石内蔵助一代記(1910年)
    • 義士銘々伝 大石内蔵助(1910年)
    • 大石内蔵助一代記(1913年)
    • 大石内蔵助実伝(1919年)
  • 忠臣蔵もの - 大石内蔵助、浅野内匠頭、清水一角
    • 忠臣蔵五段目(1910年)
    • 実録忠臣蔵(1910年)
    • 忠臣蔵(1910年)
    • 忠臣蔵(1912年)
    • 忠臣蔵(1913年)
    • 増補忠臣蔵(1913年)
    • 忠臣蔵(1914年)
    • 忠臣蔵(1916年)
    • 元禄快挙 十二時忠臣蔵(1917年)
    • 仮名手本忠臣蔵(1917年)
    • 実録忠臣蔵(1921年)
    • 仮名手本忠臣蔵(1921年)
    • 実録忠臣蔵 天の巻・地の巻・人の巻(1926年)
  • 水戸黄門もの
    • 水戸黄門巡遊記(1910年)
    • 水戸黄門巡遊記(1912年)
    • 水戸黄門記(1915年)
    • 水戸黄門漫遊記の一国女(1917年)
    • 水戸光圀と久五郎(1917年)
    • 水戸黄門(1919年)
    • 水戸黄門と河童の金蔵(1919年)
    • 水戸黄門(1921年)
  • 岩見重太郎もの - 岩見重太郎
    • 岩見重太郎(1911年)
    • 岩見重太郎一代記(1913年)
    • 岩見重太郎(1914年)
    • 岩見重太郎(1917年)
    • 岩見重太郎(1918年)
    • 岩見重太郎(1919年)
    • 岩見重太郎(1920年)
    • 岩見重太郎(1922年)
    • 岩見重太郎(1924年)
  • 荒木又右衛門もの - 荒木又右衛門
    • 荒木又右衛門(1911年)
    • 荒木又右衛門(1915年)
    • 荒木又右衛門(1922年)
    • 荒木又右衛門(1925年)※主演千本記念
  • 唐犬権兵衛(1913年)
  • 塙の太郎 一心太助妖怪退治(1914年)
  • 鼠小僧次郎吉(1914年)
  • 天竺徳兵衛(1914年)
  • 児雷也(1914年)
  • 怪鼠伝(1915年)- 仙人やぬいぐるみの大鼠が登場するマキノ監督の忍術活動大写真。
  • 曾呂利新左衛門(1918年)
  • 花川戸助六(1920年)
  • 国定忠治(1921年)
  • 豪傑児雷也(1921年)
  • 渋川伴五郎(1922年)
  • 落花の舞(1925年) - 清水次郎長
  • 侠骨三日月(1926年)※松之助最後の作品

著書

  • 『尾上松之助自伝』(1917年出版、活動写真雑誌社刊)

参考資料

脚注

  1. 『尾上松之助自伝』
  2. 省三の母親が金光教信者だった
  3. マキノとの出会いからここまで、『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘伝』(マキノ雅弘、平凡社)より
  4. 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
  5. ここまで、『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)より
  6. ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
  7. ここまで、『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘伝』(マキノ雅弘、平凡社)より
  8. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  9. 『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)
  10. 『あゝ活動大写真 グラフ日本映画史 戦前篇』(朝日新聞社)
  11. 『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘伝』(マキノ雅弘、平凡社)
  12. ここまで『週刊サンケイ臨時増刊 大殺陣 チャンバラ映画特集』(サンケイ出版)より
  13. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)

関連項目