小島藩

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小島藩(おじまはん)は、駿河国庵原郡有渡郡安倍郡に存在した[1]。現在の静岡県静岡市清水区小島地区が中心地にあたる。

小島藩は2万石以下であったため、城を構えることが許されず、藩主の居所は陣屋として構築された。陣屋跡の遺構があり、石垣が残っている。

なお、松會版や山泉堂、須原屋版の武鑑での在所(陣屋所在地)の記載は、立藩以降から少なくとも享保3年(1718年)までは駿州阿部入であったが、享保17年(1732年)の武鑑では駿州小島となり、以降は駿州小島や駿州庵原郡小島となる。

藩歴

元禄2年(1689年)5月、松平家滝脇、別名は世良田)の松平信孝が4000石を加増されて1万石となり、大名に列して小島藩を立藩した。しかし信孝時代からすでに財政が窮乏化しており、年貢の先取りなどが行われた。第4代藩主・松平昌信の時代には新たな人材登用、年貢増徴、賦役強化、支出の削減を中心とした藩政改革が行われたが、年貢増徴に反対した百姓によって明和2年(1765年)6月に一揆が起こり、藩政改革は失敗し、年貢軽減要求を認めざるを得なくなった。

第7代藩主・松平信友は「君臣百姓和同一致」という直印書を発行し、領民に財政窮乏化からの年貢増徴のやむなきを説明している。第9代藩主・松平信進は領内産物の紙の専売制を実施して、ある程度の財政改革成功を収めた。

幕末期は、最後の藩主・松平信敏慶応3年(1867年)に新政府側に与する。明治維新で慶応4年(1868年)5月に小島藩は廃止され、新たに設置された駿府藩の一部となる。そしてその年の7月、信敏は上総国金ヶ崎藩(のち桜井藩に改称)に移封となった。

なお、江戸時代中期に年寄倉橋格が、恋川春町の名で黄表紙の執筆に当たったことで有名である。また、歴代藩主には養子で入った者が多かった。

歴代藩主

松平(滝脇)家

1万石。譜代

  1. 松平信孝(のぶなり) 従五位下 但馬守 (元禄2年5月藩主就任-元禄3年10月死去)
  2. 松平信治(のぶはる) 従五位下 下野守 (元禄3年12月藩主就任-享保9年3月29日死去)
  3. 松平信嵩(のぶたか) 従五位下 安房守 (享保9年閏4月22日藩主就任-享保16年7月27日死去)
  4. 松平昌信(しげのぶ) 従五位下 安房守 (享保16年9月23日藩主就任-明和8年6月27日死去)
  5. 松平信義(のぶのり) 従五位下 丹波守 (明和8年8月29日藩主就任-寛政12年隠居)
  6. 松平信圭(のぶかど) 従五位下 安房守 (寛政12年藩主就任-文化12年12月隠居)
  7. 松平信友(のぶとも) 従五位下 丹後守 (文化12年12月6日藩主就任-天保7年5月隠居)
  8. 松平信賢(のぶます) 従五位下 丹後守 (天保7年5月藩主就任-嘉永4年4月隠居)
  9. 松平信進(のぶゆき) 従五位下 丹後守 (嘉永4年4月藩主就任-文久3年1月24日死去)
  10. 松平信書(のぶふみ) 従五位下 丹後守 (文久3年3月藩主就任-元治元年6月27日死去)
  11. 松平信敏(のぶとし) 従五位下 丹後守 (元治元年8月藩主就任-慶応4年7月13日移封)

小島陣屋跡

陣屋は宝永元年(1704年)に2代藩主の信治により築城され、廃藩されるまでの藩政の中心地であった。移封後に駿府藩に引き渡され、駿府藩(静岡藩)主小島役所、私塾包蒙舎教場、小学校校舎として利用されたが、昭和3年(1928年)に建物は解体され、土地は民間に払い下げられた。一般の陣屋と異なり、表門が枡形の構えであり、城郭を思わせる石垣や建物遺構等が良好に残されていることから、平成18年(2006年)に国の史跡に指定される。

解体時に御殿の書院は地元に払い下げられ、国道52号沿いの現在の場所に移築された。小島町公会堂として利用され、現在は文化財資料館になっている。

幕末の領地

外部リンク

脚注

  1. 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」(東京堂出版、2004年9月20日発行)320ページ

参考文献

  • 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行
  • 橋本博「大武鑑・上巻」名著刊行会、1965年5月10日発行

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