富永一朗

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テンプレート:Infobox 漫画家 テンプレート:Sidebar with collapsible lists 富永 一朗(とみなが いちろう、1925年4月25日 - )は、日本漫画家勲等勲四等称号岡山県高梁市(旧川上町名誉市民古舘プロジェクトに構成作家として所属している「冨永一郎」とは別人である。

来歴・人物

京都府京都市生まれ。父は大分県出身、母は福島県南会津郡田島町静川出身[1]。父は京都の大丸デパートに勤務していた[2][1]

3歳のとき肺結核で父を失い、母の郷里の田島町で2年間を過ごした後[2]幼稚園の時から父の郷里の大分県佐伯市に育つ[1]。小学校4年頃から田河水泡の真似をして漫画を描き始める[2]。大分県立佐伯中学(現在の大分県立佐伯鶴城高等学校)に2番の成績で合格[2]。同校1年生のとき、地元で小学校教員をしていた母が恋愛事件を起こして子供を産み東京に出奔[1]。このため祖母に育てられた[1]。経済的理由から大学進学を断念したこともあるが、台湾の台南師範学校(現在の国立台南大学)が無試験[2]かつ学費無料であることを知り、同校に入学[1]。在学中は学徒動員で兵隊に取られ、二等兵として半年間高射砲の訓練を受けた[1]

敗戦後、教員免状を得て台南師範学校を卒業。教員として台南郊外の学校に3ヶ月勤務したが、1945年12月に中国軍の接収で教職を追われ、台湾で半年間のルンペン生活を送り、羊羹屋の下働きを経て1946年3月に引き上げ帰国[1]。佐伯市の実家に戻り、1946年5月頃から親戚のタドン工場でタドンの製造販売を行うが、売り物のタドンを無料配布したために2年ほどで解雇される[2]。のち佐伯市立鶴岡小学校で理科と図画の教師となったが、2年ほどで人員整理に遭い、佐伯市立佐伯小学校に転じて図画を教えるようになった[1]1951年4月に教職を辞して上京し、母が洋裁の仕事をしていた代田橋の母子寮に潜り込み、帝国興信所の臨時雇いとして会社年鑑の編纂をしながら『サンデー毎日』に漫画を投稿[2]。当時、新富町の帝国興信所の向かいに新太陽社(旧・モダン日本社)があったため『モダン日本』編集部に作品を持ち込んだところ、編集者時代の吉行淳之介から才能を認められ、後に吉行が移った三世社の『講談讀切倶楽部』に作品を多数掲載された[2]

1953年頃から「赤本」と呼ばれた子供向け漫画単行本や貸本漫画を描くようになる。このころの作品に『少年姿三四郎』(きんらん社、1954年~1955年)、『夕月の母』(きんらん社、1956年)、『ルリ子の歌』(きんらん社、1956年)などがあり、これら子供向けの作品と併行して大人向けの漫画も描き続けた。1955年に母方の従姉と結婚し、世田谷区赤堤に新居を持つ。

1958年、新聞記者の紹介で近所の杉浦幸雄を訪問し、才能を認められ、『漫画サンデー』に紹介されて下積み生活から脱出[1]。35歳の時に描き始めた「チンコロ姐ちゃん」が代表作となったが、女性の裸など下ネタを堂々と扱う作風が一部で嫌悪され、新聞紙上で「日本マンガの堕落」(伊藤逸平)と批判されたこともある[2]

また1976年より1994年まで放送された長寿番組、『お笑いマンガ道場』に出演。番組中では共演者の鈴木義司に「オバケナマコ」「デブの恵まれない人」「サンショウウオ」「タラバカガニ」などとこき下ろされる一方、鈴木を「土管に住んでいる貧乏人」「ケムシ・ミノムシ」「アホウドリ」(実在のそれではない。首だけ鈴木の架空の鳥)などとこき下ろし、そのやりとりで人気を博した。[3]同番組のエンディングでほかの出演者と一緒に手を振ったときに、富永だけはいつも手を斜め前に(ナチス式敬礼の様に)上げただけで、掌を振る仕草は見られなかった。[4]

1992年紫綬褒章1998年に勲四等旭日小綬章を受章。

恰幅いい体型がトレードマークだったが、還暦を超えて糖尿病と診断され、一転生活を改めた。「健康じいさん」を自称し、模範患者として医療関係のシンポジウムや講演を通じて啓発活動を行い、闘病記も著した。近時は各種マンガ・絵画コンテストの審査員などを務めている。

歌をうたうのが大好きで、「一日うちにいるとまず30曲は歌います」という[5]

生前寿陵墓を功徳院 すがも平和霊苑内に建立している。自らのキャラクターであるチンコロ姐ちゃんが花を手向けている絵が彫刻されている。

顕彰

「マンガ文化の町づくり」を進めていた岡山県川上郡川上町(現在の高梁市)の名誉町民(名誉市民)で、1994年4月29日に開館した「吉備川上ふれあい漫画美術館」の名誉館長を務めている。

富永の業績を記念し作品を展示する施設が各地に建てられており、「ギャラリー水源の森」[6]山梨県道志村)、虹の郷「富永一朗忍者漫画館」[7]静岡県伊豆市)、かめやま美術館「富永一朗漫画館」[8]三重県亀山市)など9ヶ所に所在している[9]

佐伯市を通る国道217号線の一部は、「イチローロード」と通称され、富永の作品をモチーフとした陶板などを配した整備が行われている[10]

エピソード

熱狂的な広島東洋カープファンとして知られ、球団の応援歌「ゴーゴーカープ」「カープ音頭」を吹き込んだ。(参考記事・中国新聞「我らカープ人」)ちなみに元広島監督の阿南準郎は教員時代の教え子である。また阿南・野村謙二郎廣瀬純と、広島に所属した3選手が佐伯鶴城高の後輩である。

民社党支持者としても知られ、たびたび推薦人に名を連ねていた。

別府の鬼山地獄にいた巨大ワニ(1996年没)に「イチロウ」と名付けた。これはワニと富永の出生年が同じだったため、同い年のよしみで名づけたもの。

お笑いマンガ道場出演時に、司会者の柏村武昭が著した保育社カラーブックスの広島ガイド本の表紙カバーイラストを描いたことがある。また、国鉄時代末期に大分鉄道管理局(現JR九州大分支社)管内の普通列車「タウンシャトル」のヘッドマークをデザインした。

略歴

  • 1925年 - 誕生
  • 1986年 - 日本漫画家協会漫画賞大賞
  • 1992年 - 紫綬褒章
  • 1992年 - 川上町名誉町民
  • 1994年 - 吉備川上ふれあい漫画美術館名誉館長
  • 1994年 - かめやま美術館名誉館長
  • 1998年 - 勲四等旭日小綬章
  • 2004年 - 高梁市名誉市民

代表的な作品

ファイル:Bungo Beef signboard.jpg
豊後森駅のホームにある富永一朗作の吉四六漬イラスト

TV

脚注

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 『NHK文化講演会15』所収「人生みな恩人」(日本放送出版協会、1987年)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 『現代漫画・富永一朗集』所収「わがポンコツ人生航路」(筑摩書房、1971年)
  3. もっとも、実際は富永は鈴木とは互いに盟友と公言してはばからないほどの数十年来の友人同士であり、鈴木に誘われてマンガ道場に出演したため、鈴木が亡くなった時富永は「元気になったらまた一緒に『マンガ道場』でもやろうぜと言ってたのに…」と肩を落とした。
  4. これについて富永は、「母親から『男はいつもピシッとしてなさい』と言われていたため、いつもピシッと手を挙げている」とおまけコーナーで語っていた。
  5. 『NHK文化講演会15』所収「人生みな恩人」p.207(日本放送出版協会、1987年)
  6. 観光施設情報 | 道志村役場ホームページ』道志村役場。
  7. 園内の見どころ虹の郷
  8. 富永一朗漫画館』安全。
  9. 全国富永一朗漫画館(廊)連絡協議会』全国富永一朗漫画館(廊)連絡協議会。
  10. テンプレート:Cite web

外部リンク