富士 (列車)

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寝台特急「はやぶさ・富士」
(2005年3月8日 東海道本線 真鶴駅 - 湯河原駅間)
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「富士」ヘッドマーク
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大分駅に到着した「富士」
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客車の最後尾とテールマーク

富士(ふじ)とは、九州旅客鉄道(JR九州)、西日本旅客鉄道(JR西日本)、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東海旅客鉄道(JR東海)が東京駅 - 大分駅間を東海道本線山陽本線日豊本線経由で、2009年3月14日のダイヤ改正まで運行していた寝台特急列車ブルートレイン)である。なお、同日のダイヤ改正で併結する「はやぶさ」とともに廃止された[1][2][3]

なお本項では、「富士」としての名称の沿革と、東京九州東部を日豊本線経由で運転されていた夜行列車の沿革についても記述する。

概要

1964年10月1日に東京駅 - 大分駅間で運転を開始した。翌年10月には日豊本線経由で西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)まで延長し、東京駅 - 西鹿児島駅間1,574.2kmを24時間以上かけて運行する日本最長運転の定期旅客列車となった。 1980年10月には運転区間を宮崎駅に短縮、1990年3月には南宮崎駅までに変更されたが、利用者の減少が続き、1997年11月には大分駅まで短縮された。2005年3月には東京駅 - 門司駅間で「はやぶさ 」と併結運転を開始したが、運行後期は乗車率が低迷し[4]JR九州によると2007年度の平均乗車率は約20%(1989年時点と比べ約4分の1)[5]、1日の平均利用者は百数十人にまで減少し[6]、2009年3月14日に廃止された。

列車名の由来

列車名の由来は日本を代表する富士山からとされるが、1929年9月に鉄道省が公募により初めて列車愛称を命名したものである。

「富士」の名称は1964年10月1日以前までは東海道本線の電車特急で使用されており、また戦前に制定されている「日本最古の列車愛称」でもあった。

廃止直前の運行概況

列車番号は下りが 1 、上りが 2 として全区間運行された。

停車駅

東京駅 - 横浜駅 - 熱海駅 - 沼津駅 - 富士駅 - 静岡駅 - 浜松駅 - (豊橋駅) - 名古屋駅 - (岐阜駅) - (京都駅) - (大阪駅) - [岡山駅] - [福山駅] - [尾道駅] - 広島駅 - 岩国駅 - 柳井駅 - 下松駅 - 徳山駅 - 防府駅 - 新山口駅 - 宇部駅 - 下関駅 - 門司駅 - 小倉駅 - 行橋駅 - 中津駅 - 宇佐駅 - 別府駅 - 大分駅

  • ( )は下りのみ停車、[ ]は上りのみ停車
  • 下りの下松駅→大分駅間では、乗車券立席特急券でB寝台に乗車することが可能であった。

このほか、下り列車は米原駅姫路駅・岡山駅・杵築駅、上り列車は大阪駅・米原駅で運転停車をおこなっていた。なお、上りは中津駅で「ソニック」48号、下りは杵築駅で「ソニック」9号の待避を行っていた。

なお、大幅な遅延などで品川駅止まりとなった場合は小田原駅に臨時停車し、小田原駅 - 品川駅間は東海道貨物線経由での運転となり横浜駅は経由しなかった。

使用車両・編成

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牽引機関車は、東京駅 - 下関駅間を西日本旅客鉄道(JR西日本)の下関地域鉄道部下関車両管理室に所属していたEF66形電気機関車を使用し、下関駅 - 門司駅間ではJR九州の大分鉄道事業部大分車両センターに所属するEF81形電気機関車、門司駅 - 大分駅間は同センターに所属するED76形電気機関車が使用されていた。

担当乗務員区所

  • 運転士は各旅客会社が自社区間を担当。

沿革

テンプレート:See also

寝台特急以前の「富士」

戦前・日本初 特別急行1・2列車「富士」

  • 1912年明治45年)6月15日汐留駅(現在の新橋駅に相当) - 下関駅間に、一等車二等車のみで編成された日本初の特別急行列車として1・2列車が運行開始。最後尾には一等展望車を連結。
    運行当時より1・2列車の終着駅であった下関市から当時日本領であった朝鮮釜山鉄道省による鉄道連絡船関釜航路が運航されており、そこから先の鉄道・航路と連絡し、朝鮮・満州中国、さらにはシベリア鉄道を経由してパリフランス)・ロンドンイギリス)に至るまでの国際連絡運輸が行われていた。1・2列車はその一翼を担うことにもなるため日本の威信をかけ、当時の最高水準ともいえる設備とサービスを有していた。ソファーや書棚が置かれ、一角には貴賓・高官用の特別室を設けた展望車を連結したほか他の当時の多くの列車の食堂車が「和食堂車」であったのに対して1・2列車は高貴な「洋食堂車」を連結していたことなどがその例といえる[7]
  • 1914年大正3年)12月20日東京駅の開業に伴い、1・2列車は東京駅発着に変更。
  • 1926年(大正15年)9月23日:海田市駅付近の豪雨に伴う土砂崩壊により1列車が脱線転覆するいわゆる山陽本線特急列車脱線事故が発生。多数の死傷者を出したことから強度に優れる客車の鋼製化を促す契機となった。
  • 1927年昭和2年)8月1日:1・2列車は山陽本線内を夜間に通過する関係から一等展望車の連結区間が東京駅 - 神戸駅に短縮され、神戸駅で切り離された一等展望車は山陽本線内を昼間に通過する急行7・8列車の京都駅 - 下関駅間で使用することとなった[8]
  • 1929年(昭和4年)9月15日:特別急行列車に列車愛称鉄道省公募により初めて命名。1・2列車を「富士」とした。
    この当時も1・2列車は一等車・二等車のみの編成であった。最後尾の一等展望車には同年11月からテールマークが取り付けられている。
    また、同年から1930年にかけて、1925年の脱線事故に鑑み「富士」用の鋼製客車が製造され、順次これまで使用されてきた木造客車を置き換える。また、このとき作られた一等展望車は同時期に新築した百貨店の白木屋の内装デザインに似ていることにちなんで「白木屋式」と呼ばれるスマートな洋式内装のものと漆塗りや金メッキ金具を用いた「桃山式」と呼ばれる豪華な装飾が施されたものの2種類が存在した。
  • 1930年(昭和5年)
    • 4月:鋼製客車への置き換えに伴い客車の運用が変更され、「富士」の一等展望車は再び東京駅 - 下関駅間の全区間で連結されるようになった。
    • 10月1日:「」運転開始に伴うダイヤ改正で、「富士」も東海道本線内を中心にスピードアップが行われる。
  • 1934年(昭和9年)12月1日丹那トンネル開通に伴うダイヤ改正で、「富士」にも三等車が連結される。
  • 1935年(昭和10年)7月:「富士」に連結していた一等寝台車(現行ではA寝台車に相当する)マイネ37130号車シャワー室を設置。ただし同車のみ1両しか改造されなかったため、4日に1本のみであった。使用は一・二等客に限られ、使用する際は車掌から30銭の「浴券」を購入した。しかし4日に1本という運用頻度から利用が低迷し、同年10月頃には休止となっている[9]
  • 1939年(昭和14年)11月:大陸方面への輸送需要が増大したため「富士」は京都駅 - 下関駅間で二等寝台車・三等寝台車各1両の増結を開始。
  • 1941年(昭和16年)7月:戦時体制による輸送力増強のため三等寝台車の使用を中止。
  • 1942年(昭和17年)11月15日関門トンネル開通に伴い、「富士」の運行区間を東京駅 - 長崎駅間に拡大。また上海航路の客船が到着する日には上り列車のみ、それとの連絡を図るため港に隣接した長崎港駅を発着駅とした。
  • 1943年(昭和18年)
    • 7月1日:それまでの特急列車を「第一種急行」、急行列車を「第二種急行」とする。「特急列車」の呼称は、制度上はここで消滅している。
    • 10月1日:運転区間を、東京駅 - 博多駅間に縮小。
  • 1944年(昭和19年)4月1日太平洋戦争の激化により運行中止。

戦後における「富士」の変遷

戦後における「富士」の名称は、戦前に日本を代表する列車名称であったことから「それにふさわしい列車が出るまでは」と使用に慎重な姿勢が続いた。結局、1961年10月のダイヤ改正で列車の増発により東海道本線の電車特急に使用されたが「機会を逸した」との意見も少なからずあったとされる。

「機会を逸した」とは、例えば「九州特急」の仮称があった「あさかぜ」の設定時に「富士」の名称を用いることが検討されたが採用されず、「ビジネス特急」の仮称があった「こだま」の名称公募の際も"「富士」は将来別途使用の計画がある"という理由で温存され投票対象から除外された。

  • 1950年(昭和25年)頃:新宿駅 - 河口湖駅間で運行された行楽臨時列車に一時「富士」の名称を使用したとされる。これについては、「ホリデー快速富士山」も参照されたい。
  • 1961年(昭和36年)10月1日:東京駅 - 神戸駅宇野駅間の151系電車特別急行列車に「富士」と命名。「つばめ」「はと」こだま」と並び東海道本線の昼行特急列車群の一翼を担う。
    設定当時、「四国特急」の仮称があったとされる東京駅 - 宇野駅間を運行した「(下り)第1富士」、「(上り)第2富士」は当時夜行急行列車だった「瀬戸」と同じく四国連絡列車の1つとなり、その折り返し運用として大阪駅 - 宇野駅間を運行する特急「うずしお」が設定された。しかし、東京駅 - 神戸駅間を運行した「(下り)第2富士」、「(上り)第1富士」はそれまでの「(下り)第2こだま」、「(上り)第1こだま」を名称変更する形となった。
    なお、東京駅 - 宇野駅間の765.7kmは当時の昼行電車特急列車運行区間としては最長であった。また、「富士」で号数がつく唯一の例となった。しかし、翌1962年(昭和37年)6月10日で「(下り)第1つばめ」、「(上り)第2つばめ」が広島駅へ延伸されたのに伴い「(下り)第1富士」、「(上り)第2富士」の持っていた最長記録は同列車の894.2kmに更新された。
  • 1964年(昭和39年)

東京対日豊本線夜行列車「高千穂」「富士」

1964年(昭和39年)10月以降、「富士」は日豊本線直通の寝台特急となりそれ以前から既に運行されていた東京駅 - 西鹿児島駅間急行列車「高千穂」の上位格の列車となった。翌1965年(昭和40年)10月1日には宮崎県へ乗り入れ、初の同県対東京直通特急となった。

なお「あさかぜ」以来、東京と九州各地を結ぶ寝台特急列車に国鉄での呼称として九州特急が知られるが「富士」はそのうち愛称を個別に与えられた最後発列車となった。

東京対九州東部連絡急行「たかちほ」→「高千穂」と周辺列車群

  • 1951年(昭和26年)11月25日:東京駅 - 都城駅間を運行する夜行急行列車として501・502列車が運行を開始する。
    東京駅 - 門司駅間は、東京駅 - 熊本駅間急行31・32列車との併結。大分県・宮崎県からは初の東京直通列車でもあった。
  • 1952年(昭和27年)11月:501・502列車に「たかちほ」と命名。同時に31・32列車には「阿蘇」(あそ)の名称が与えられる。
  • 1954年(昭和29年)10月1日:「たかちほ」は併結列車を東京駅 - 博多駅間急行「玄海」(げんかい)に変更。同時に、半室合造車ながら二等寝台車を連結。
  • 1956年(昭和31年)11月19日:「高千穂」は併結を取りやめて全区間単独運転となり、運行距離を延長して東京駅 - 西鹿児島駅間の運行とする。同時に食堂車を連結。また、列車愛称も「高千穂」と漢字表記とする。
    この時から日本最長距離を走る列車となり、全区間走破には31時間28分を要した。しかし東京駅・大阪駅から西鹿児島駅へは到達時分の短い鹿児島本線経由が一般的であったため、同列車を全区間乗り通す客はそれほどいなかったといわれている。
  • 1961年(昭和36年)10月1日:夜行急行列車「ぶんご」が東京駅 - 大分駅間で運転開始。また観光団体専用列車として、東京駅 - 大分駅・長崎駅間を運行する「九州観光団体専用列車」(きゅうしゅうかんこうだんたいせんようれっしゃ)が設定される。
  • 1963年(昭和38年)6月1日:寝台特急「みずほ」に20系客車を充当。同時に大分駅発着編成を連結する。
    このとき20系客車を使用するにあたり初めての二階建て列車として運用された。

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最長九州特急「富士」と最長夜行急行「高千穂」

  • 1964年(昭和39年)10月1日:東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正により、以下のように変更。
    1. 特急「みずほ」の大分駅発着編成の乗り入れを終了。代わりに東京駅 - 大分駅間を運行する寝台特急列車として「富士」の運行を新たに開始。「富士」には20系客車を使用する。
      • このとき「富士」の一部客車は下関駅増解結を行い、大分駅乗り入れ編成は従前の「みずほ」と同じく8両であった。
    2. 「ぶんご」運転を終了する。
  • 1965年(昭和40年)10月1日:このときのダイヤ改正により、以下のように変更。
    1. 特急「富士」、運行区間を日豊本線経由で西鹿児島駅まで延長。
      東京駅 - 西鹿児島駅間1,574.2kmを実に24時間以上かけて運行することから同じ区間を走る「高千穂」とならび、日本最長運転の定期旅客列車となった。なお、この日本記録は「高千穂」が1975年(昭和50年)3月10日に廃止され、「富士」が1980年(昭和55年)10月1日に運行区間を短縮して以降破られていない。
    2. 「九州観光列車」の名称を「九州第1観光号」に変更。また、大分駅発の上りのみ運行となる。
  • 1967年(昭和42年)10月1日:「九州第1観光号」の名称を行き先毎に変更し同列車の長崎駅編成に「五島」(ごとう)、大分駅編成に「くにさき」の名称が与えられる。
  • 1968年(昭和43年)10月1日:このときのダイヤ改正により、以下のように変更。
    1. 「富士」は、下関駅発着の編成を大分駅発着に変更。
    2. 「高千穂」は、鹿児島本線経由の急行「霧島」との併結列車とし、同時に「高千穂」の編成からは寝台車・食堂車廃止。
    3. 「くにさき」運行区間を新大阪駅・大阪駅 - 大分駅間に短縮。「べっぷ(下り)3号、(上り)2号」に名称を変更する。
  • 1970年(昭和45年)10月1日:「高千穂」に併結される鹿児島本線急行列車の名称を「桜島」(さくらじま)に変更。
  • 1972年(昭和47年)3月15日:「桜島」の食堂車の連結を終了。
  • 1975年(昭和50年)3月10日山陽新幹線博多駅乗り入れに伴うダイヤ改正により、以下のように変更。
    1. 「富士」、使用車両を24系24形客車に変更。このときの編成図はこちらを参照されたいが「はやぶさ」「出雲」と運用上も同じとした。
    2. 急行「高千穂」を名古屋駅 - 宮崎駅間の臨時列車に格下げ。

九州特急凋落の時代と「富士」

  • 1976年(昭和51年)10月1日:このときのダイヤ改正により「富士」の使用車両を24系24形客車から24系25形客車に置き換え。「はやぶさ」「出雲」とともに東京発着の定期寝台特急初の2段B寝台車を投入。同時に新形の1人用個室A寝台、「オロネ25形車両」も連結される。[10]
  • 1978年(昭和53年)2月1日:「あさかぜ」1・4号(いわゆる博多「あさかぜ」)の24系25形化に伴い食堂車の運用を捻出するため、食堂車は大分回転の付属編成となる。同様の措置は共通運用だった「はやぶさ」「出雲」でも行われた。→当時の編成図はこちらを参照されたい。
    当時の国鉄では需要減が続いていた在来線の食堂車を新製しない方針であったため、運用が丸一日となる「富士」「はやぶさ」の食堂車を途中駅折り返しとすることで終着駅での滞泊を無くし車両基地であった東京・品川運転所に戻る日を一日早めることで必要車両数を削減し、「あさかぜ」へ振り向けることが可能となった。
この年、東京駅 - 下関駅間の牽引機関車をEF65形の500番台(P形)から1000番台7次車に変更。
  • 1979年(昭和54年)9月25日 :日豊本線全線電化により宮崎駅 - 西鹿児島駅間の牽引機であるDF50形ディーゼル機関車による牽引を廃止。ED76による牽引は終点の西鹿児島駅まで延長された。
  • 1980年(昭和55年)10月1日:このときのダイヤ改正で、利用者の減少により運行区間を宮崎駅までに短縮。これにより、日本最長距離特急の座を「はやぶさ」に譲る。
宮崎 - 西鹿児島間廃止時の停車駅
宮崎駅 - 都城駅 - 霧島神宮駅 - 隼人駅 - 鹿児島駅 - 西鹿児島駅。

民営化以降の展開

  • 1989年(平成元年)3月11日:「富士」に1人用B個室寝台「ソロ」(オハネ25形1000番台)を連結。編成図はこちらを参照されたい。
  • 1990年(平成2年)3月10日:「富士」の運転区間を南宮崎駅まで1駅延長。
  • 1991年(平成3年)3月16日東日本旅客鉄道(JR東日本)東京車掌区が「成田エクスプレス」運行開始に伴う人員確保のため「富士」からの乗務を降り、JR九州大分車掌区(現在の大分鉄道事業部大分車掌センター)が全区間を担当することになる。
  • 1993年(平成5年)3月18日:「富士」食堂車が営業を売店営業に差し替え。また、下り列車の東京 - 小倉間のダイヤが「はやぶさ」と差し替えられて「富士」の南宮崎駅到着が1時間9分繰り上がった。
  • 1997年(平成9年)11月29日:「富士」運行区間を大分駅までに短縮。また、食堂車であったオシ24形の連結終了。最終的な24系25形のみで運行された編成図はこちらを参照されたい。
    終点大分駅到着後編成を2分割にする作業を実施していた。これは、折返しの清掃等を行う大分運転所がフル編成で入区できないためであり、上りの東京行きでも大分駅でフル編成にする作業を実施していた。
大分 - 南宮崎間廃止時の停車駅
大分駅 - 臼杵駅 - 津久見駅 - 佐伯駅 - 延岡駅 - 日向市駅 - 高鍋駅 - 宮崎駅 - 南宮崎駅

九州特急の終焉

  • 1999年(平成11年)12月4日:寝台特急列車の系統整理により、東京駅よりJR九州管内を結ぶ寝台特急列車は「さくら」「はやぶさ」と「富士」の2往復のみとなった。また、「富士」の担当車掌区がJR西日本下関乗務員センターに変更。ただし、上りの広島 → 東京間のみ広島車掌区が担当した。

テンプレート:Kyushu Limited From Tokyo 1999-2002 テンプレート:- テンプレート:Kyushu Limited From Tokyo 2002-2005

  • 2002年(平成14年)3月23日:「さくら」の開放式B寝台を1両、「はやぶさ」は2両減車。「さくら」は5両編成とし「はやぶさ」は7両編成となり、「富士」は12両編成での運行となる。
  • 2004年(平成16年)2月:九州新幹線開業に伴い西鹿児島駅が鹿児島中央駅に改称するのを記念し、東京駅(品川駅)→西鹿児島駅間を下り列車のみ団体専用列車「懐かしの富士号」として復活運転。なお、通常通りのダイヤで定期列車も運行されていた。
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単独運転時代の「富士」
  • 2005年(平成17年)3月1日:この時のダイヤ改正で「はやぶさ」に併結していた「さくら」が廃止、同時に「富士」は「はやぶさ」との併結列車となり使用車両は全車14系客車となった。これに伴い「ロビーカー」と荷物車の連結が無くなり、小荷物輸送の「ブルートレイン便」の取扱いも終了した。
    改正に先立ち、オロネ25形をオロネ15形3000番台に改造するため下りは1月12日から2月22日まで、上りは1月13日から2月23日までの間、個室A寝台「シングルデラックス」の連結を中止していた。
  • 2009年(平成21年)
    • 2月1日 - 2月28日:列車廃止間近の特需への対応策として、上り列車に限り大分駅→小倉駅間では乗車券指定席特急券でB寝台に乗車することを可能にした[11]
    • 3月13日:この日に始発駅を発車する列車をもって「富士」「はやぶさ」ともに廃止。これにより、関門トンネルを越えて運行する定期旅客優等列車自体が運行されなくなった。なお、ラストラン上り下りともに大幅に遅れてしまった。[12]

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脚注

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関連項目

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  • ブルトレ、東京駅から消える 3月に富士・はやぶさ廃止 - 朝日新聞 2008年12月19日
  • テンプレート:PDFlink - 東日本旅客鉄道プレスリリース 2008年12月19日
  • テンプレート:PDFlink - 東海旅客鉄道プレスリリース 2008年12月19日
  • さらば九州ブルトレ 「はやぶさ」と「富士」最終便 - 西日本新聞朝刊 2009年3月14日付・西日本新聞公式ウェブサイト 2009年3月15日
  • 東京発ブルートレイン「はやぶさ・富士」最終日 - Response. 2009年3月13日
  • 寝台特急九州に別れ 大分・熊本―東京「富士」「はやぶさ」来春廃止 - 西日本新聞朝刊 2008年12月20日付・西日本新聞公式ウェブサイト 2009年3月15日
  • 洋食堂車と和食堂車の違いは、前者はあくまでも洋食専門で予約制のコース料理を提供していたのに対し、和食堂車は和食だけでなく、様々なアラカルト料理を大衆的な価格で提供していた点が異なる。和食堂車だからといって洋食を提供していなかったわけではなかった。
  • プレス・アイゼンバーン『レイル』No.13 1984年10月 P.69 - P.76 古山善之助『蒸機全盛時代の国鉄の特急・急行列車』
  • なお戦前のシャワー室休止の時期に関しては諸説あり、マイネ37130号車の項目では1938年5月とされている。
  • 実際にはダイヤ改正に先行して9月25日東京発より24系25形に置き換えられた。:ブルトレ興亡録、イカロス出版より
  • 平成21年2月限定 寝台特急「富士」「はやぶさ」に寝台券なしでご乗車になれます! - 九州旅客鉄道プレスリリース 2008年12月25日
  • 鉄道ファン交友社、2009年6月号