宋靄齢
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テンプレート:中華圏の人物 宋 靄齢(そう あいれい、1889年7月15日 - 1973年10月19日)は、財閥で国民政府財政部長を務めた孔祥熙の夫人。父は孫文の支援者であった浙江財閥の宋嘉樹。「宋氏(家)三姉妹」の長女で、妹は宋慶齢(孫文夫人)、宋美齢(蒋介石夫人)。また、弟に中華民国の政治家・実業家となった宋子文がいる。
略歴
1889年に上海で生まれた。英文名はナンシー。父の宋嘉樹はメソジスト教会の宣教師であり、後に布教活動を辞めて商売の道に進んだ。母は倪桂珍。1904年5月28日、14歳だった宋靄齢はアメリカに渡り、ジョージア州メイコンのウェスレイアン大学に留学した。1905年にはおじに付き添って、ホワイトハウスで行われたセオドア・ルーズベルトのパーティーに出席した。
1910年にアメリカから帰国した後、孫文の秘書となった。孫文とともに全国各地を調査し、総延長約10万キロメートルの鉄道建設計画策定に関わった。1913年に孫文の二次革命(第二革命)が失敗すると、父とともに渡日し孫文の秘書を続けた。1914年、横浜で孔祥熙と結婚し、翌年に帰国すると山西省で銘賢学堂の事務を務めた。
日中戦争が始まると、妹の宋慶齢、宋美齢とともに抗日運動に参加した。中国工業合作協会の支持に加わり、婦女指導委員会を組織し、全国児童福利会を創設したほか、香港の負傷兵の友協会の会長に就任した。戦後は1947年に渡米。1973年10月20日、ニューヨークの病院でがんのため亡くなり、現地に埋葬された。
人物評価
- 中国では宋家の三姉妹について、映画『宋家の三姉妹』の影響から「宋靄齢は金を愛し、宋美齢は権力を愛し、宋慶齢は国を愛した」と評されることがある。
- 蒋介石の姪孫にあたる蒋孝鎮は、戴笠に対して「委座(蒋介石)の病気は、宋(宋美齢)だけが治せる。夫人(宋美齢)の病気は孔(宋靄齢)だけが治せる。しかし孔の病気(孔家の腐敗体質)は誰にも治せない」と語ったとされる。