姜成山

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テンプレート:政治家 テンプレート:北朝鮮の人物 姜 成山(カン・ソンサン、1931年3月3日 - 2007年[1])は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。第4代・第7代政務院総理首相)を務めた。

経歴

北朝鮮を建国した金日成の母方の親戚であり、父が金日成の側近であったこともあって、早くからエリート・コースを歩む。万景台革命学院金日成総合大学で学び、モスクワ大学にも留学した。大学卒業後、1955年朝鮮労働党中央委員会組織指導部の指導員となって以来、党務および国政の要職を歴任していく。

1973年に党政治委員会委員候補(政治局員候補)となる。1977年12月15日李鐘玉内閣発足により、政務院副総理に任命される。その後、鉄道部長(大臣)の兼務などを経て、1980年10月14日の第6回党大会で党政治局員に昇格。さらに1982年8月31日、政務院第一副総理に任命された。

1984年1月27日、政務院総理に就任。当時の北朝鮮は社会主義政策が行き詰まり、経済状況の悪化は深刻なものであった。姜成山は総理に就任すると、西側諸国との積極的な交流を主張し、経済再建に取り組んだ。総理に就任した1984年、外国企業の誘致などを目指して合営法(合弁法)を制定するなど、姜成山は経済の部分的開放を模索した。しかし、この改革は必ずしも成功せず、1986年12月29日に総理を退任。その際に党中央委員会書記局書記に任命されたが、1987年3月に党書記を解任されて咸鏡北道党委員会責任書記兼人民委員会委員長(道知事)に転出した。1990年5月、中央人民委員会委員を兼務。1991年末には管轄下の咸鏡北道羅津・先鋒地区が自由経済貿易地帯に指定されるなど、姜成山は地方に在って経済開放の先導役としての役割を果たした。咸鏡北道での実績が金日成に高く評価された姜成山は、1992年12月11日、政務院総理に復帰した。

「改革的な経済官僚」[2]として金日成の信任を受け、政務にあたっていた姜成山であったが、金正日時代になると、表立った政務を行うことは無くなり、党内序列も降下していった。金日成が死去する前は首相として重要行事で基調演説などを行ったが、金日成の死後は重要演説を行うことはほとんど無くなった[3]。党内序列は、1994年7月8日に金日成が死去した直後は序列第3位(1995年2月27日呉振宇が死去した後は第2位)であったが、1995年10月10日に開催された朝鮮労働党創建50周年の記念行事では序列第5位に下降した。以後、1996年7月8日に開催された「金日成主席死去2周年中央追慕大会」などの重要行事を欠席するようになった。姜の動静報道は1996年1月1日以降途絶え[4]1997年2月には洪成南が総理代理となり、姜は事実上失脚したものと見られた。しかし、同年4月25日の朝鮮人民軍創建65周年閲兵式に姜は序列第8位として出席し、1年4か月ぶりに公式の場に姿を現した。さらに同年7月8日に開催された「金日成主席死去3周年中央追慕大会」に序列第6位として出席した。その後、姜成山は政務院総理の地位を保ったものの、総理代理となった洪成南が事実上政務院を取り仕切った。

1998年7月26日に実施された最高人民会議第10期代議員選挙で姜成山は代議員に選出されず[5]、引退が確実となった。同年9月5日の最高人民会議第10期第1回会議で憲法が改正されて政務院が内閣に改組されると、正式に政務院総理を退く。その後も党政治局員の地位を保ったが、政治に影響を与えることは無かった。

2007年、死去。

脚注

  1. 平井(2011年)、16 - 17ページ。
  2. 平井(2011年)、161ページ。
  3. 平井(2011年)、151ページ。
  4. 平井(2011年)、157ページ。
  5. 平井(2011年)、161ページ。

参考文献

  • 平井久志『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波書店〈岩波現代文庫〉、2011年)
 テンプレート:PRK2
先代:
延亨黙
政務院総理
1992年 - 1998年
次代:
洪成南
(内閣総理)
先代:
李鐘玉
政務院総理
1984年 - 1986年
次代:
李根模

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