地動説

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地動説(ちどうせつ)とは、地球が動いている、という学説のこと。天動説に対義する学説であり、ニコラウス・コペルニクスが唱えた。太陽中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと太陽が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、地動説は「Heliocentrism」の訳語として不適切だとの指摘もある。

歴史

古代の地動説

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地動説(下部の図)、天動説(上部の図)の二つの模型の比較。

古くアリストテレスの時代からコペルニクスの登場する16世紀まで、地球は宇宙の中心にあり、まわりの天体が動いているという天動説が信じられてきた。

しかし、コペルニクス以前にも、地球が動いていると考えた者はいた。有名なところではピロラオスで、彼は宇宙の中心に中心火があり、地球や太陽を含めてすべての天体がその周りを公転すると考えた。また、プラトンも善のイデアである太陽宇宙の中心にあると考えていた。加えてレオナルド・ダ・ヴィンチもまた地動説に関する内容をレスター手稿に記している。

特に傑出していたのは、イオニア時代の最後のアリスタルコスである。彼は、地球は自転しており、太陽が中心にあり、5つの惑星がその周りを公転するという説を唱えた。彼の説が優れているのは、太陽を中心として、惑星の配置をはっきりと完全に示したことである。これは単なる「太陽中心説」という思いつきを越えたものである。ほとんど「科学」と呼ぶ水準に達している。紀元前280年にこの説が唱えられて以来、コペルニクスが登場するまで、1800年もの間、人類はアリスタルコスの水準に達することはなかった[1]

広い意味ではこれらも地動説(太陽中心説)に入る。

天動説の優勢

2世紀にはクラウディオス・プトレマイオスが天動説を体系化し、以後コペルニクスが登場する16世紀までこれが支持された。プトレマイオスの体系ならば、多少の誤差はあっても惑星の動きを計算することができたし、地球は止まっているのだから、鳥が取り残されることも考えずに済んだ。こうして日常的な生活に関する限り、天動説があれば特に不自由はなくなった。

とはいえ、おかしなところは存在した。例えば

  • 5つの惑星のすべての軌道計算に、必ず「1年」という単位が出てくる[2]
  • 惑星の順序が何故その順であるかという根拠の提示が不明瞭
  • 地球から見た時、火星の奇妙な動きを説明しづらい
  • 惑星の位置予報にも誤差がある

などが挙げられる。しかし、これらの現象を説明し、精密な惑星の位置予報を出来る新説はなかなか現れなかった。

また、ヨーロッパでは古代ギリシア時代以降科学は停滞し、西ローマ帝国滅亡後は暗黒時代を迎えることになる。後述するようにヨーロッパにおいて科学が再び隆盛するのはルネッサンス以降である。

こうした理由で、科学的な難点を含みながらも、16世紀に至るまでずっと、天動説は支持された。

大航海時代

天動説の体系は長らく信じられてきたが、やがてそのさまざまなほころびが明確化してきた。

大航海時代以前、航海は沿岸航海であり陸地が見える場所しか船を運航しなかった。何も目印のない大海原では行き先が分からず、航行できなかった。羅針盤の登場がこれを可能にし、方位磁石と正確な星図があれば遠洋でも自分の緯度が正確に把握できるようになったのである。しかし当時の星表には問題がかなりあった[3]。特に惑星の位置は数度単位での誤差が常にあった。

さらにもう1つ問題が生じつつあった。1年の長さが、当時使用されていたユリウス暦の1年よりわずかに短かったのである。この結果、暦の上の季節と実際の季節に約10日のずれが生じていた。キリスト教では春分の日が移動祝祭日の計算基準日になっており、10日もずれているのは問題があった。この問題はロジャー・ベーコンによって提起されていたが、1年の正確な長さが分からず約300年間放置されていた。

当時使われていた(そして、メソポタミア時代から現代に至るまでも根本的には変わらない)1年(回帰年)の定義は、分点または至点から次の同じ分点または至点までの時間である。しかし、16世紀当時に信じられていたプトレマイオスの体系では、1年という値は他の天文学的な値からは孤立した独立の量で[4]、太陽の位置を数十年から数百年以上かけて測定する以外に、1年の値を決定する方法がなかった。クーンによれば、この観測には大変な困難が伴い、改暦問題は16世紀以前の天文学者たちを常に悩ませることになった。

コペルニクスの登場

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ニコラウス・コペルニクス。16世紀に地動説を唱え、星の軌道計算を行った。

カトリック教会司祭であったコペルニクスは、この誤差に着目した。彼は地動説を新プラトン主義の太陽信仰として捉えていたと言われ、そのような宗教的理由から、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることは重大な問題だった。コペルニクスはアリスタルコスの研究を知っており、太陽を中心に置き、地球がその周りを1年かけて公転するものとして、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した。1年の値が2種類あるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる。

コペルニクスは1543年の没する直前、思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定しなおせるようにした。コペルニクスが地動説の創始者とされるのは、このように検証を行なったためである[5]

またこの業績について、ガリレオ・ガリレイから「太陽中心説を復活させた」と評された[1]

コペルニクス以降の学説

その後、ローマ教皇グレゴリウス13世によって1582年グレゴリオ暦が作成されるが、改暦の理論にはコペルニクスの地動説は利用されなかった(ただしプトレマイオスの天動説も使われてはいない)。

しかし、コペルニクスが著書で初めてラテン語で紹介したアラビア天文学の月の運行の理論や算出した1年の値は、改暦の際に参考にされた(コペルニクスの月の運行理論は、アラビアとは独立に再発見したという説もある)。

コペルニクスの地動説

理論

コペルニクスの地動説は、単に天動説の中心を地球から太陽に位置的な変換をしただけのものではない。地動説では、1つの惑星の軌道が他の惑星の軌道を固定している。また、全惑星(地球を含む)の公転半径と公転周期の値が互いに関連しあっている。各惑星の公転半径は、地球の公転半径との比で決定される(実際の距離は、この時代にはまだ分からない)。同様に、地球と各惑星の距離も算出できる。これが、プトレマイオスの天動説との大きな違いである。プトレマイオスの天動説では、どんな形でも、惑星間の距離を測定することはできなかった。また、地動説では各惑星の公転半径、公転周期は、全惑星の値がそれぞれの値と関連しているため、どこかの値が少しでも変わると、全体の体系がすべて崩れてしまう[6]。これも、プトレマイオスの天動説にはない大きな特徴である。この、一部分でもわずかな変更を認めない体系ができあがったことが、コペルニクスにこの説が真実だと確信させた理由だと考える研究者も多い。

コペルニクスの地動説では、惑星は、太陽を中心とする円軌道上を公転する。惑星は太陽から近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星の順である(この時代、天王星や海王星、小惑星はまだ発見されていない)。公転周期の短い惑星は太陽から近くなっている。ただし、実際には、単純な円軌道だけでは各惑星の細かい動きの説明がつかず、コペルニクスの著書では、プトレマイオス説でも使われていた離心円が運動の説明に使われた。実際には惑星の軌道が真円ではなく楕円であるため、単純な円では運動の説明がつかなかったためだが、コペルニクスは惑星の運動がいくつかの円運動の合成で説明できると信じていたため、楕円軌道に気付くことはなかった(実際にはコペルニクスの使った値の精度は悪く、どちらにしても楕円軌道を発見することは困難だった)。

コペルニクス後の地動説

コペルニクスの後、地動説に同意する天文学者はなかなか現れなかった。しかし、当時の学者がより古いものを正しいものと考え、新しいものを排除しようとした、というのは若干史実とは異なる。支持者が多く現れなかったのには明確な理由があった。コペルニクスの著書は、どちらかというと理論書に近く、1年の長さは算出することはできても、5つの惑星の動きを完全に計算する方法は記されていなかったからである。計算に必要な値も、著書のあちこちに散らばって記されており、その著書だけで惑星の位置予報を行うのは困難であった。当時の多くの天文学者が欲していたのは、理論書ではなく、表にある数値をあてはめて計算すれば惑星や月齢が計算できるより簡便な星表であった。

その後、1551年に、エラスムス・ラインホルトが、コペルニクス説を取り入れた『プロイセン星表』を作成した。しかし、プトレマイオスの天動説よりも周転円の数が多いために計算が煩雑であり、誤差はプトレマイオス説と大して変わらなかった(実際には、わずかだがプロイセン星表のほうが誤差が小さい)。惑星の位置計算にはそれ以降も天動説に基づいて作られたアルフォンソ星表が並行して使われ続けた。ただし、オーウェン・ギンガリッチは、アルフォンソ星表はこの時代にプロイセン星表に取って代わられたと主張している。

それまで、惑星の位置予報はプトレマイオス説を使用しなければ行えなかった。似た他の方法が考案されたこともあったが、プトレマイオス説をしのぐ精度で予報ができるものは存在しなかった。しかし、コペルニクス説を使用しても、同等以上の精度で惑星の位置予報が行えることが分かったこの時代に、唯一絶対であったプトレマイオス説の絶対性は大きく揺らいだ。

ティコ・ブラーエは、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているものとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを公転するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けばヨハネス・ケプラーだった。ケプラーはブラーエの共同研究者であり(助手という記述もあるが、ケプラー自身は共同研究者として迎えられた、と主張しており、また、ブラーエ自身がケプラーに送って残っている書簡にも、助手として迎えるという文言はない)、ブラーエの膨大な観測記録から1597年、「宇宙の神秘」を公刊。コペルニクス説に完全に賛同すると主張してコペルニクスを擁護した。これらに追随する形で、ガリレオ・ガリレイもまた地動説を唱えた。

古代中国の「地動説」

古代中国においても、独特な「地動説」が存在した。『列子』の「杞憂」の故事の原文には「われらがいる天地も、無限の宇宙空間のなかで見れば、ちっぽけな物にすぎない」(夫天地、空中一細物)とあり、当時すでに、宇宙的スケールの中では「天地」でさえ微小な存在だという認識があったことがわかる(ただし、古代中国人は「天地」が実は「地球」であることを知らなかった)。漢代に流行した「緯書」でも、素朴な地動説が散見される。例えば『春秋』にこじつけた緯書には「天は左旋し、地は右動す」(天左旋、地右動)、「地動けば則ち天象に見(あら)わる」(地動則見於天象)とある。『尚書』(書経)の緯書に載せる「四遊説」は、大地は毎年、東西南北および上下に動いている、という奇怪な地動説であるが、「大地は常に移動しているのだが、人間は感知できない(原文「地恒動不止、人不知」)。それはちょうど、窓を閉じた大船に乗っている人には、船が動いていることが知覚できないようなものだ」とあわせて説いている点が注目される。柳宗元も、こうした中国独特の地動説をふまえて漢詩を詠んでいる(「天対」)[7]。上述のとおり、西洋のHeliocentrism(太陽中心説。現代中国語では「日心説」)の訳語として「地動説」は不適切であるとする意見もある。古代中国の「地動説」は、Heliocentrismとは異質の宇宙観ではあるものの、「地右動」「地動則見於天象」「地恒動不止」など明確に「地動」を説く、文字通りの地動説であった。

中世イスラム世界の地動説

ウマル・ハイヤームの時代のイスラムの天文学者は、すでに「太陽中心説」(地動説)を知っていたが、それを公言することはイスラム教の正統主義から攻撃される危険があったので黙っていた、と推測する説がある[8]。その根拠の一つは、ウマル・ハイヤームの四行詩(ルバイヤート)の中の次の一首である[9]

廻るこの世にわれらまどいて
思えらく そは廻転提灯の如しと
太陽は灯にして世界は提灯の骨
われらその内に影絵の如く右往左往す

この他、コペルニクスの地動説も、実はイスラム世界の天文学にその原型があったと推測する学説すらある[10]

一方、アブー・ライハーン・アル・ビールーニー(973年 - 1048年)は、その著書「マスウード宝典」にて地動説を記載している。また、(地動説かどうかは不明だが)アッバース朝マアムーンの時代に、アル=フワーリズミーがユーフラテス川の北、シンジャール平原やパルミラ付近で地球が球体であるとの前提で経緯度及び子午線弧長の測量を行っている(その測量結果からすると、地球の周長は39000キロメートル、直径は10500キロメートルとなる)。

地動説と日本

徳川吉宗の時代にキリスト教以外の漢訳洋書の輸入を許可したときに、通詞の本木良永が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初にコペルニクスの地動説を紹介した。本木良永の弟子の志筑忠雄が『暦象新書』の中でケプラーの法則やニュートン力学を紹介した。画家の司馬江漢が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。医者の麻田剛立1763年に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての日食の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように高橋至時間重富らに命じ、1797年に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した寛政暦を完成させた。渋川景佑らが、西洋天文学の成果を取り入れて、天保暦を完成させ、1844年に寛政暦から改暦され、明治時代に太陽暦が導入されるまで使われた。

地動説のもたらしたもの

地動説は単なる惑星の軌道計算上の問題のみならず、世の哲学者、科学者らに大きな影響を与えた。地動説の生まれた時代を科学革命の時代とも言うのは、それほどまでに科学全体に与えた、そして、科学が人間の生活に影響を与え始めた時代であることをも反映している。

“常識をひっくり返す(証明されている)新説”を「コペルニクス的転回」などと呼ぶのは、その名残である。

ガリレオ裁判

テンプレート:Main ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。代表的なものは木星衛星で、この発見はもし地球が動くなら、は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にするものだった。また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測。これは、地球金星の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは太陽黒点も観測。太陽もまた自転していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された。

ローマ教皇庁は1616年に、コペルニクス説を禁ずる布告を出した。地動説を唱えたガリレイは、1616年と1633年の2度、ローマの異端審問所に呼び出され、地動説を唱えないことを宣誓させられた。この時の「それでも地球は回っている」の呟きは、実際にそう呟いたという確固たる証拠は存在しないが、伝説として現在に至るまで語り継がれている。

ガリレオ裁判以降

たとえガリレオが異端の判決を受けたとしても、当時のローマ教皇にはイタリア国外での権力は事実上なかった。ヨハネス・ケプラーは、神聖ローマ帝国皇室付数学官(宮廷付占星術師)でありながら、平然と地動説を唱え続け、著書がローマ教皇庁から禁書に指定されても、それを理由に迫害を受けることはなかった。コペルニクスの説はその主張に反して周転円を含む不完全なものであったので、ケプラーは観測記録などからこれを楕円軌道に修正した。さらに『ルドルフ表』(ルドルフ星表)を作り、1627年、公刊した。それ以前の星表の30倍の精度を持つルドルフ星表は急速に普及し、教皇庁が何と言おうと、惑星の位置は地動説を基にしなければ計算できない時代が始まりつつあった。

しかし、ケプラーもガリレオも、まだ、鳥が何故取り残されないのか、地球が何故止まらないで動き続けているのか、という疑問には正確な答えが出せないままでいた。これを完成させるのは、アイザック・ニュートンの登場を待つ必要があった。ニュートンが慣性を定式化することにより、地動説はすべての疑問に答え、かつ、惑星の位置の計算によってもその正しさを証明できる学説となったのである。

ただ、その証明を確固とするには、ジェームズ・ブラッドリー光行差の発見も必要となる。

蛇足ではあるが、ローマ教皇庁ならびにカトリックが正式に天動説を放棄し、地動説を承認したのは、1992年の事である。しかも、それはガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオの異端決議を解く際の補則、という形での表明であった。ガリレオの死から359年が経過していた。

2014年、アメリカ科学振興協会は、アメリカ人の約4人に1人は、いまだ地球が太陽の周りを公転していることを知らないという結果を公表している[11]

地動説と宗教

地動説の解説の際、必ずといっていいほど、地動説がキリスト教の宗教家によって迫害された、という主張がされるが、これには異議をとなえる意見もある。このため、両論を併記する。

迫害されたとされる理由

以上の諸点では、二つの論旨が入り交じっている。「地動説が教会から禁止された」ということと、「教会が実際に地動説を信じる者を迫害した」ということだ。前者は正しいが、後者は必ずしも正しくない。教会は地動説を蹴落とそうとしたが、実際に蹴落とすためには蹴落とすための権力を要する。以上の諸点では、この二つのことが混同されている。そのせいで、論旨としては、必ずしも正しいものではない。

反論

これに対し、地動説への迫害と思えるものは、単にガリレオがイタリア内での権力闘争に巻き込まれたためで、ガリレオを迫害するために地動説が理由に使われただけだという主張もされる。この理論の根拠は次のとおり。

  • コペルニクスが自説の発表をためらったのは、万一、誤りであった場合、自分やカトリック教会の名誉や権威が失墜するのを恐れたためである。
  • コペルニクスの地動説は、写本の形で1514年ごろから流布しており、もしそれを迫害・禁止するのなら、刊行以前に発禁・焚書になるはずである。
  • コペルニクスは、死期が近づく前に、自説の解説本をプロテスタントであった弟子のレティクスの名で刊行しているが、両者ともに迫害を受けていない。
  • 『天体の回転について』には、ローマ教皇への献辞がある。当時、献辞を書くには相手の許可が必要だったはずであり、このことからも当時カトリック教会が地動説を迫害しなかったのは明らかである。
  • グレゴリオ暦への改暦に際して、ローマ教皇グレゴリオ13世が直々に設置した改暦委員会は、改暦に必要な1年の長さの算出に、コペルニクスの『天体の回転について』の数値も使用した(もちろん、他の学者の数値も使用した)。
  • プロテスタントであったマルティン・ルターが批判したのは、カトリック教会そのものである。ルターが地動説を批判した理由は、たんに地動説を唱えたコペルニクスがカトリック教会の司祭だったからである。またルターは総じて人文主義などの古典や自然学の研究には批判的であった。
  • 『天体の回転について』(1543年公刊)の印刷担当者はプロテスタントである。プロテスタントは前述のルターの例で分かるとおり、地動説には当初から批判的であった。これが影響して無断で前文が書き足されたと考えられる。
  • 地動説にすぐに賛同する天文学者があまり出なかったのは、コペルニクスの値の精度が悪く、天動説で計算したときと比べ、惑星の位置があまり正確に算出できなかったためである。その証拠に、ヨハネス・ケプラーがもっと精度のよい『ルドルフ星表』を出すと、瞬く間に全ヨーロッパの天文学者がこれを使いはじめた。
  • ジョルダーノ・ブルーノが火炙りになったのは、太陽が中心だと言ったからではなく、同時にカトリック教会を激しく批判したためである。また、ブルーノは天文学を教えた形跡はあるが、天文学者ではない(天体計算などを行っていない)。ブルーノの説の中の天文学に関する部分で、教会を最も怒らせた部分は、太陽はその他の恒星と同じ種類の星で、特別な星ではない、また宇宙には特定の中心はなく、その意味で地球も特別な星でないと述べた部分である。もちろんブルーノのこの説は正しいし、当時同じように考えていた天文学者もいたと考えられているが、そう主張する者は当時はまだいなかった。
  • ガリレオ裁判は、地動説を裁いたものではなく、当時、出世しはじめていたガリレオの出世の道を閉ざすために、政敵がしくんだ罠であり、地動説はそのための理由に使われただけである。その証拠に、地動説を唱えて異端とされた人物は、ガリレオ以後、誰もいない。またガリレオ以前にもいない。(ブルーノの有罪容疑にははっきり地動説とは書いてない)この時代、ローマ教皇庁が地動説を禁じたのは事実であるが、これはガリレオを有罪にするために、先に理由をつける必要があったためである。
  • ガリレオは敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学の問題については教会の権威やアリストテレス哲学に盲目的に従う事を拒絶し、哲学や宗教から科学を分離する事を提唱した。この事がガリレオ裁判に於いて、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果につながったと言われる。実際、時の教皇ウルバヌス8世は当初はガリレオを支持していたが、その後は掌を返したようにガリレオを非難する声明を何度も発した。
  • 『天体の回転について』は、1616年ガリレオ裁判の始まる直前に、禁書リストに挙げられたが、十ヶ所の修正を行うまでという条件付きである[13]。1620年には削除すべきとされた箇所が設けられた[14]

地動説が批判された理由と考えられているもの

  • 聖書には、神のおかげで大地が動かなくなったと記述されており、キリスト教の聖職者は、大地が動くことが可能だと主張するのはの偉大さを証明できるので、問題がないが、大地が動いていると主張するのは、の偉大さを否定することになると考えたとされる。
  • 1539年にマルティン・ルターが、最初に宗教的な問題として地動説を批判した。ルターは旧約聖書ヨシュア記でのイスラエル人とアモリ人が戦ったときに神が太陽の動きを止めたという奇跡の記述と矛盾すると指摘した。
  • ガリレオ裁判の最高責任者だったロベルト・ベラルミーノ枢機卿は、大地の可動性を立証できると信じるが、大地の運動を証明できるかは疑問に思うと述べた。
  • アリストテレスの流れをくむスコラ学の学者は、天動説を唱えたアリストテレスの理論が否定されるのを問題視したとされる。
  • カトリック教会が、ガリレオの『天体対話』の中で、地動説を唱える貴族に言い負されるアリストテレス派の学者はローマ教皇ウルバヌス8世をあてこすったものだと考えたとされる。
  • カトリック教会太陽教皇の象徴だと考えていたので、太陽が中心にあるという考えについては問題視しなかったとされる。教皇庁が1620年にコペルニクスの『天体の回転について』に対して訂正を求めたときには、宇宙の中心に関する記述より地球の運動に関する記述が問題視されたと言われている。

出典

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参考文献

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  • 渡辺正雄『科学者とキリスト教 ガリレイから現代まで』講談社〈講談社ブルーバックス〉
  • D・C・リンドバーグ&R・L・ナンバーズ 著&編『神と自然 歴史における科学とキリスト教』みすず書房
  • 1.0 1.1 カール・セーガン著 木村繁訳『コスモス 下』 P.49 史上初の地動説 ISBN 4-02-260270-8
  • アルマゲスト
  • 高橋訳『天球回転論、誰も読まなかったコペルニクス』
  • アルマゲスト
  • 世界大百科事典
  • 『コペルニクス革命』
  • 加藤徹著『怪力乱神』pp.274-280
  • 陳舜臣著『オマル・ハイヤーム ルバイヤート』(2004年,集英社)pp.126-127
  • 陳舜臣
  • ハワード・R・ターナー著, 久保儀明訳『図説 科学で読むイスラム文化』pp.138-140, ISBN-10: 4791758641
  • テンプレート:Cite news
  • オーウェン・ギンガリッチ「誰も読まなかったコペルニクス」早川書房 ISBN4-15-208673-4
  • オーウェン・ギンガリッチ「誰も読まなかったコペルニクス」早川書房 ISBN4-15-208673-4
  • ヤン・アダムチェフスキ「ニコラウス・コペルニクス」日本放送出版協会