天山ウイグル王国

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テンプレート:脚注の不足 テンプレート:基礎情報 過去の国 天山ウイグル王国(てんざんウイグルおうこく)とは、11世紀から13世紀に現在の新疆ウイグル自治区に存在したウイグルのつくった王国である。西ウイグル王国高昌回鶻西州回鶻とも称される。都はビシュバリク。主に東西の中継交易で栄えた。

歴史

天山ウイグル王国の成立

回鶻可汗国が崩壊した後、西に逃れた15部のうち、河西(南流する黄河中流の西。現在の甘粛省付近)より西へ移動して天山山脈の北東麓に落ち着いた一部が興した王国である。なお、別の一部は河西に入り甘州回鶻と呼ばれるようになり、更に一部は西へ移動してベラサグンに至り、カルルクと合流して後にカラ・ハン朝を作った。

テンプレート:要出典範囲、さらに連年の天候不順による飢饉に加え、翌840年には雪害による家畜・遊牧民の大量斃死(いわゆるチャガン・ゾド)のためにキルギスの反乱に抗しきれず、ウイグル王国は遊牧政権として完全に崩壊してしまった。このためウイグル人たちはゴビ砂漠以南の華北や甘粛方面、天山山脈方面のオアシス都市地域へ大量に流出することになった。この混乱期に、九姓鉄勒(トクズ・オグズ:Toquz Oγuz)の一翼であった僕固(ボクトゥ:Boqut)氏の首長テンプレート:仮リンクに率いられた一団が当時、可汗浮図城と呼ばれていたビシュバリク地方へ進出し、これを拠点としておさえた。これが西ウイグル王国の直接の基盤である。

程なく9世紀中頃、擬ヤグラカル王朝(エディズ氏:Ädiz)による回鶻可汗国の最後の可汗である㕎馺可汗の外甥であったテンプレート:仮リンク(ほうテギン)が、ビシュバリクの西部にあった天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とした。ユルドゥズ地方は夏季の放牧地として豊潤であったが、同時に焉耆などがあったタリム盆地と東の高昌などがあったトルファン盆地とを結ぶ街道の要衝でもあった。龐テギンは焉耆を獲得して可汗(カガン)を名乗り、この都市を最初の首都とした。856年にはから「テンプレート:仮リンク」の称号を受けて嗢禄登里邏泪没蜜施合倶録毘伽懐建可汗(uluγ täŋridä qut bolmïš alp külüg bilgä 懐建 qaγan)と名乗った。

天山ウイグル王国の「イディクト」

以降、ウイグルのカガンに即位した人物は数名判明しているが、西方のイスラーム政権でも東方の宋、遼、金の諸王朝でも断片的な情報のみが伝わる程度で、ウイグル王国の王統すら判明していない。このため、王国の具体的な記録はモンゴル帝国時代まで待たねばならない。ウイグル西遷の後、何時からかは判然としないが、後期には天山ウイグル王国の君主は伝統的な「カガン(Qaγan)」から「イディクト(Ïduq qut > Ïdï qut > Ī dī qūt)」(「神から授かった吉祥」の意味)という称号を用いるようになった。初期にはカガン Qaγan、ハン χan やイリグ Ilig (il+lig:「国持てる」の意味)といった称号を用いていたが、本来はバシュキル族などの君主号だったものを使用するようになったようである。これにはマニ教からの影響とみる説も有る。

元は遊牧民であるウイグルは、この地のオアシス都市国家の影響を受けて定住化するようになり、東西交易、いわゆるシルクロードの中継地点として大いに栄えた。

元来ウイグル族は突厥など同じくシャーマニズム信仰を有していたが、『カラ・バルガスン碑文』によるとウイグル可汗国時代の初期、牟羽可汗洛陽滞在時の763年頃にマニ教の僧侶の感化を受けて僧侶4名を伴って帰国して以来、ウイグル王侯にマニ教が広く普及した。マニ教をもたらしたのはソグド人であったと見られている。この地に来てからは仏教・景教(ネストリウス派)なども信仰するようになり、在来の定住民(印欧語族イラン系言語の話者)と融和した。このことにより中央アジアのテュルク化が進み、後にトルキスタンという言葉が生まれることになる。

モンゴル帝国時代―ウイグル駙馬王家―

12世紀に入り、東から耶律大石がこの地へを征服して西遼を建て、ウイグル族はこれに服属するようになるが、13世紀モンゴルチンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル国王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンがこれに帰順した。『元朝秘史』によるとチンギスは彼の帰順を大変に歓迎して息女の一人アル・アルトン(『集史』ではイル・アルタイ Īl-Altaī)を娶らせ駙馬(キュレゲン)とした。さらにバルチュク国王は『世界征服者の歴史』などではジョチなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された。以後モンゴル帝国ではウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る事となる。モンゴル帝国および大元朝ではウイグル出身官僚がモンゴル宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになった。この時代『世界征服者の歴史』や『集史』などではウイグル王国方面を指して「ウイグリスターン(Ūyghristān)」と呼んでいる。

モンゴル帝国以後はイスラーム化した。

現代のウイグル・ウイグル人への民族的連続性については、必ずしも一致をみないとする捉え方が存在する。

文化

文字ソグド文字から借用したウイグル文字が使用された。これは後にも述べるように、モンゴル文字満州文字として受け継がれることになる。

宗教については、ウイグル王国治下のオアシス都市の定住民は漢人やトカラ人などに加えソグド人など多民族がおのおのコミュニティーを形成していた。主にソグド人が信仰していたマニ教ゾロアスター教ネストリウス派キリスト教なども行われたが、仏教が最も盛んであった。9世紀頃まではトルファン盆地一帯の仏教徒はおもに漢人やトカラ人であったようである。ベゼクリク千仏洞は、トルファン出土文書によると唐代前期には麴氏高昌国時代創建と思われる「寧戎窟寺」ないし「寧戎寺」と呼ばれた仏教寺院であった。ウイグル王国の重要な特徴として宮廷内外で勢力のあったソグド人の影響もあって、天山ウイグル王国時代初期にはウイグル王侯の庇護のもとマニ教が隆盛し「国教」的地位にまでなっていたことがあげられる。しかし、マニ教の勢力は11世紀には急速に衰微し仏教勢力に「国教」の地位をとって代わられたようである。

上述の通り、元来ウイグル族は突厥など同じくシャーマニズム信仰を有していたが、回鶻可汗国の第8代保義可汗(在位808年 - 821年)が建立した『カラ・バルガスン碑文』によると、第3代牟羽可汗(在位759年 - 779年)が洛陽滞在時の762年ないし763年にマニ僧に会って感化を受け、帰国するにあたってマニ僧4名を連れ帰り、以降回鶻可汗国ではマニ教が盛んに信仰されるようになった。これ以降マニ教はウイグルのいわば「国教」的宗教となった。9世紀後半、天山ウイグル王国が成立し、ウイグル王侯がビシュバリクなどオアシス都市を直接支配するようになると、それまで漢人やトカラ人が信仰していた仏教勢力を圧し、マニ教の宗教施設や文書類を大量に作成するようになる。一部では仏教寺院をマニ教寺院へ改修する場合も見られ、ベゼクリク千仏洞などは新規のマニ教窟に加え、仏教僧侶による僧坊をマニ教窟に改装した例などが見られる。


天山ウイグル王国が、どのような経過でマニ教から仏教へ移行したのかはまだよく分かっていないが、10世紀後半までのアラビア語・ペルシア語資料ではトグズグズ(Taghzghuz/Toquz Oγuz)、つまりウイグル勢力のの宗教はマニ教であったことが記されている。敦煌やトルファン発掘のウイグル語文書などからは10世紀後半にマニ教寺院の破壊とその再建、ウイグル王族による仏教寺院の建立の記事が見られ、この頃にはマニ教の勢力が衰退に向かっていたことが分かる。11世紀後半の『テュルク語辞典(Dīwān Lughāt al-Turk:1072-1077年作成)』の著者マフムード・カーシュガリーの述べるところによれば、この頃には天山ウイグル王国は完全に仏教国になっていたようである。ソグド人の伝えたマニ教がウイグル王侯の西遷によってトルファン盆地一帯にもたらされたが、元来この地域は漢人やトカラ人によって仏教が隆盛していた。彼ら仏教徒は支配層のウイグル語を修得し、ウイグル語による仏教典を大量に制作してウイグル人への布教に努めていたようである。マニ教側も千仏洞や文書類から仏教側の攻勢に対抗すべく仏教徒側をとりこむ教論を展開するなどしていたようだが、ウイグル王侯の仏教への改宗などによって勢力は大きく衰微し、ついに王国内部から駆逐されたと見られている。モンゴル帝国時代前後の千仏洞の壁画にはソグド系と思われる寄進者が多数描かれており、ソグド系の人々の多くも仏教に改宗していたものと思われる。この頃から仏教勢力よる新来のマニ教寺院などの破壊や仏教寺院への改修が勧められ、ベゼクリク千仏洞などの現在の姿に至っている。これ以降モンゴル帝国時代を経てチャガタイ・ウルスのもとで15世紀頃からイスラーム化が進展するまで、ウイグル王国は仏教を信奉する事になる。

19-20世紀に各国の探検隊が敦煌トゥルファンから持ち帰った出土文書の中には、ウイグル文字やウイグル語で書かれた仏典も多数含まれている。これらの研究より、天山ウイグル王国で信仰された仏教は、マニ教の強い影響を受けつつ、トカラ仏教・敦煌仏教・ソグド仏教など東西の諸要素を混在させた独特のものであったことが分かってきている。天山ウイグル王国はマニ教文献の宝庫であり、マニ教国教時代にはソグド文字テンプレート:仮リンクウイグル文字漢文などで書かれたソグド語パフラヴィー語テンプレート:仮リンクウイグル語漢語の資料が多数発掘されている。これらの資料は宗教学としてマニ教そのものの究明だけでなく中期イラン語諸語の重要な資料として言語学的にも貴重である。

ギャラリー


歴代君主

前半期の王称号

在位 王名 即位前の名前 ラテン字表記
?-856-? ウルグ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・懐建・カガン 龐特勤 uluγ tängridä qut bulmïš alp külüg bilgä 懐建 qaγan
?-954-? トルテュンチュ・イル・ビルゲ・テングリ・イリグ ? törtünč il bilgä tängri ilig
?-983-? トルテュンチュ・アルスラン・ビルゲ・テングリ・イリグ・シュンギュリュグ・カガン ? törtünč arslan bilgä tängri ilig süngülüg qaγan
996-? ボギュ・ビルゲ・テングリ・イリグ ? bögü bilgä tängri ilig
1007-? キュン・アイ・テングリテグ・キュセンチグ・コルトゥレ・ヤルク・テングリ・ボギュ・テングリ・ケニミズ ? kün ay tängritäg küsänčig körtlä yaruq tängri bögü tängrikänimiz
?-1019-? キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・ウルグ・クトゥ・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトゥミシュ・アルプ・アルスラン・クトゥルグ・キョル・ビルゲ・テングリ・ハン ? kün ay tängridä qut bulmïš uluγ qut ornanmïš alpïn ärdämin il tutmïš alp arslan qutluγ köl bilgä tängri χan
? キュン・アイ・テングリレルテ・クトゥ・ボルミシュ・ブヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトゥミシュ・ウチュンチ・アルスラン・ビルゲ・ハン ? kün ay tängrilärtä qut bulmïš buyan ornanmïš alpïn ärdämin il tutmïš üčünč arslan bilgä χan
?-1067-? テングリ・ボギュ・イル・ビルゲ・アルスラン・テングリ・ウイグル・テルケニミズ ? tängri bögü il bilgä arslan tängri uyγur tärkänimiz

[1]

モンゴル帝国時代前後のイディクト

  • ヨスン・テムル(月仙帖木児)[2](? - ?)
  • バルチュク・アルト・テギン(巴而朮阿而忒的斤)(? - 1209年 - ?)…ヨスン・テムルの子
    • キシュマイン(怯石迈因)(? - ?)…バルジャク(バルチュク)の子
    • サランディ(萨仑的斤)(? - 1252年)…キシュマインの弟
  • オギュリュンチ・テギン(玉古倫赤的斤、ウグンチュ)(1252年 - ?)…バルチュクの次男
  • マムラク・テギン(馬木剌的斤)(? - 1265年)…オギュリュンチの子
  • コチガル・テギン(火赤哈兒的斤)(1266年 - 1283年)…マムラクの子
  • ニギュリン・テギン(紐林的斤)(1308年 - 1318年)…コチガルの子
  • テムル・ブカ(帖木兒補化)(1318年 - 1329年)…ニギュリンの子
  • センギ(籛吉)(1329年 - 1332年)…テムル・ブカの弟
  • タイピヌ(太平奴)(1331年 - ?)…センギの弟
  • ヨル・テムル(月鲁帖木儿)(? - ?)…タイピヌの子
  • サンガ(桑哥)(? - ?)…月鲁帖木儿の子
  • スス・テギン(雪雪的斤)(? - ?)…ニギュリン・テギンの弟、駙馬都尉
  • ノル・テギン(朵儿的斤)(? - ?)…雪雪的斤の子、駙馬都尉
  • バヤン・ブカ・テギン(伯颜不花的斤)(? - 1359年)…朵儿的斤の子
  • イェセン・ブカ(也先不花)…伯颜不花的斤の子

※漢字名は『高昌王世勲碑』[3]、『元史』列伝第九より。キシュマイン、サランディ、ウグンチュは『集史』、『世界征服者の歴史』より[4]。月鲁帖木儿以下は『新元史』列伝第十三より。

脚注

  1. 『世界の歴史⑦ 宋と中央ユーラシア』p337
  2. 『モンゴル秘史3』p84
  3. 『世界の歴史⑦ 宋と中央ユーラシア』p445-452
  4. 『モンゴル帝国史2』p291-294

参考文献

  • 安部健夫 『西ウイグル國史の研究』 彙文堂書店 1950年
  • 森安孝夫 『ウイグル=マニ教史の研究』 大阪大学文学部紀要 第31巻・第32巻合併号 1991年8月
  • 伊原弘・梅村坦 『宋と中央ユーラシア 世界の歴史7』 中央公論社 1997年
  • 高橋通浩 『民族対立の世界地図 アジア/中東篇』 中央公論新社(中公新書クラレ) 2002年 293頁

関連項目