大野城 (筑前国)

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大石垣(高さ約6m・長さ約60m)
ファイル:Ko-ishigaki Stonewall(one of the Onojo-Castle-Ruins).jpg
小石垣(上端幅5m・高さ10m・両岸間30m〔推定〕の一部)

大野城おおのじょう又はおおののき)は、飛鳥時代に築城された筑前四王寺山にある日本の城古代山城)である。所在地は福岡県大野城市宇美町1952年3月31日特別史跡に指定された。また、2006年4月6日日本100名城(86番)に選定されている。

概要

大野城の築城箇所は大宰府北方、大宰府の真北標高約410メートルを最高峰とする四王寺山一帯に比定されている。四王寺山には、尾根をつたって延々8200メートル以上に及ぶ土塁が山腹をめぐり、土塁が谷にかかるところでは、石垣が築かれ、北方に1箇所、西南に1箇所、南部に2箇所の城門を開いている。

城内の高く平たいところには数棟ずつ7箇所ほどに、都合70棟ほど礎石群が残っている。なかには望楼あるいは屯所的なものもみられるが、大多数は梁間三間、桁行五間という規格に統一され、礎石を用いた総柱の建物である。これらは高床式の倉庫であり、武具の他、炭化した米粒などが検出されている事から穀物なども貯蔵していたことが分かる。

大宰府北方という立地から、大宰府防衛を目的とした城であると考えられている。

山頂の西に張り出した尾根を火ノ尾崎といい、烽火台跡、鼓峰は今で言う軍団駐屯地跡とされ、毘沙門天の遺構がある。付近では経筒などの遺物も出土している。

なお、大野城市の名称はこの大野城に由来する。

歴史・沿革

飛鳥時代

663年白村江の戦いにおいて、百済復興を目指す倭国(後の日本)は新羅連合軍に敗れた。そこで倭国は防備を固めるため、様々な防衛施設を建設したことが『日本書紀』に記されている。

664年対馬壱岐筑紫防人とのろし台を設置、大宰府の西方に水城を築造。翌665年(天智4)8月、長門に城を築き、同年同月に亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)を筑紫へ派遣し、大野と椽(き)に城を築かせた。このうち、筑紫の大野に築かれた城が大野城である。椽に築かれた城は基肄城と比定されている。

四王寺山

山名を四王寺山とも呼ぶが、これは光仁天皇宝亀5年(774年)に、外敵駆逐を祈願して山頂に円満山四王院が建立された経緯からと云う。そのの跡と思われる礎石周辺からは炭化した焼米も発見されている。

参考事項

関連項目

参考文献

  • 太宰府市 編『太宰府市史』
  • 森弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
  • 筑紫豊『さいふまいり』西日本新聞社、1976年
  • 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6

外部リンク

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