大木戸森右エ門

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大木戸 森右エ門(おおきど もりえもん、1876年5月13日 - 1930年11月7日)は、元大相撲力士(大坂相撲)。本名は内田 光蔵(うちだ みつぞう)。

生年月日は「1878年11月2日」とする説があり、こちらが有力だったが、大木戸の後に湊を襲名した呼出・滝三の生年月日であることが判明した。

来歴

大坂相撲で唯一、若島権四郎に太刀打ちできる力士(大坂相撲の本場所で若嶌に2回勝利したのは大木戸のみ)とされていた。その若嶌が負傷によって現役引退を余儀なくされた後の大坂相撲では最強を誇り、両手突きの威力は「2発で相手は土俵の外」とまで言われ、太刀山峯右エ門を彷彿とさせた。大関だった大木戸は1908年6月場所から1909年5月場所まで3場所連続の全勝優勝も記録した[1][2]

この成績を見た大坂相撲は、1909年吉田司家へ横綱免許の授与を申請したが、吉田司家は横綱免許をすぐに授与せず「博多で開催予定の合併興行の結果で昇進か否か判断したい」と回答してきた。大木戸は博多での合併興行で不本意な成績を残したことで横綱昇進が遠退いたと思われた矢先、仲介者の後押しで大坂相撲は吉田司家へ横綱免許の授与を再申請するが、今度は吉田司家から申請書に「東京相撲の横綱による加判」を求めた。当時、大坂相撲は常陸山谷右エ門によって有力力士を次から次へと東京相撲へ引き抜かれており、大木戸自身も一度は引き抜かれそうになったが、若島の引退直後だったこともあって「大木戸まで引き抜かれてはさすがに困る」と拒否していた。常陸山の強引とも取れるやり方を理由に大坂相撲は東京相撲を毛嫌いしていたために加判に難色を示し、引退したばかりの若島の加判だけで申請を行おうとしたことで、大坂相撲と吉田司家の交渉は決裂した。

その後、大坂相撲は吉田司家を無視して住吉神社と共謀し、1910年に大木戸に対する横綱免許を授与、大木戸は奉納横綱土俵入りを行った。これを知った吉田司家は無断で授与した大坂相撲に激怒して破門を宣告したほか、東京相撲も大坂相撲に対して絶縁宣言を叩きつける大事件へ発展した。このままでは大木戸は非公認横綱とされるままだったが、1912年に大坂相撲は東京相撲・吉田司家両者へ正式に謝罪し、大木戸への横綱免許の授与を改めて申請した。吉田司家は「大木戸の横綱撤回(ただし、大阪・熊本以外での地方巡業では横綱を黙認)」「今後、大坂相撲が横綱免許を申請する際は、東京相撲の横綱は加判を止めて口添えを行うこと」を条件とした。大坂相撲はこれを承認したことで東京相撲も絶縁宣言を撤回、大木戸の横綱免許が改めて申請され、既に36歳で全盛期を過ぎたとはいえ、1912年に公認横綱となった。

しかし、公認横綱として最初の本場所である1913年は5勝3敗2休と振るわず、で開催された東京大坂合併興行では、東京相撲の伊勢ノ濱慶太郎との取組中にめまいがしたという。さらに明るい場所で電気を付けようとしたために眼科へ担ぎ込まれ、さらに呉海軍病院で検査を受けたところ、脳溢血と判明した。すぐに手術を行って一命は取り留めたが半身不随になってしまい、このような状態では現役続行など出来る筈が無いため、同年5月場所と1914年1月場所を全休したのを最後に現役を引退した。

引退後は頭取(年寄)・を襲名したが、病身で引退相撲も横綱らしからぬものになってしまい、健康面の改善も見られないことで親方としての職務にも支障があったため、1916年に廃業した。晩年は煙草の売店を営み細々と生活していたと伝わっており、1930年11月7日に脳卒中で死去、テンプレート:没年齢。死の直前には自身の解剖を申し出たと伝わる。大木戸には最期まで身寄りが存在せず、の場所は現在でも判明していない。

人物

大坂相撲での幕内最高優勝が10回、うち5回が全勝だった。

現存する大坂相撲時代の写真で、写っている大木戸が締めている横綱は縒り方が逆になっている(上記の写真は縒り方が現在の綱とは逆である。第29代横綱宮城山の大坂横綱時代の写真にも締めている横綱の縒り方が逆のものがある)。

脚注

  1. 3場所連続全勝優勝は東京相撲・大坂相撲を通して史上初で、2012年現在でも大木戸のほか、双葉山定次(5場所連続で最多記録)・白鵬翔(4場所連続)しか記録していない。
  2. 当時の大坂相撲は、幕内力士は千秋楽を休場する慣習があったため、1場所10日間の興行でいずれも9戦全勝だった。

関連項目

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