大三島

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大三島の位置とアクセス。緑線がしまなみ海道、青線が主要な航路
本州(中国地方西部除く)や四国から上陸する場合、瀬戸内しまなみ海道を使うのが最も早い。広島市方面からアクセスする場合、竹原市から大三島フェリーを使うのも便利である。また、呉市から安芸灘とびしま海道岡村島まで渡り、大三島ブルーライン今治市営渡船を使って来ることもできる。

テンプレート:Infobox 大三島(おおみしま)は、愛媛県今治市に属する芸予諸島の中の1つの有人島。愛媛県の最北に位置し、同県に属する島の中では最大である。大山祇神社がある「の島」として知られている。

大三島は島とついているが、地理上の島に由来するわけではなく、各地にある「三島」と由来を同じくする。かつて、三島神社の総本社である大山祇神社のことを「大三島」と呼んでおり、後にそれが島全体を指す様になった。

自然

  • 愛媛県に属する面積64.54km²(国土地理院のデータによる)の
  • 気候 - 温暖寡雨
  • 山 - 鷲ヶ頭山(わしがとうさん) 437m
  • 川 - 河川はいずれも小規模である。水資源に恵まれないことから島嶼部としては珍しく台(うてな)川にダム(台ダム)が整備され、大三島だけでなく隣の伯方島および大島西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の橋に併設された導水管を通じて給水されている。
  • 植生 - 島内は元々ハゲ山が多く植生は乏しかった。現在ある森林の殆どは明治以降の人工林である。有史以前は、ウバメガシトベラクスノキを中心とした植生が広がっていたものと考えられている。現在でも神社にはクスノキやウバメガシの古木が残っており、特に「大山祇神社のクスノキ群」は原始林社叢の楠群として、国の天然記念物に指定されている。

歴史

国宝の島として知られる。神の島として魚類を採ることは長らく禁忌とされていたことから、漁業は盛んではない。

中世以前

古くは入り江の一帯に大山祇神社の社殿が営まれていた。

近世

松山藩領となっていた。また、大山祇神社の門前町として宮浦が発展していた。

  • 安永4年 - 宮浦本川の河道付け替え工事を開始。
生じた土砂により肥海新田の開発(安永7年完成)が行われ、宮浦発展の基礎が築かれた。このほか、宮浦新田の開発が始まる(安永5年完成)。
  • 安永9年 - 松山藩が御垂金(今日でいう補助金)を支給し、宮浦本川の改良によって生じた新しい参道への町家の進出を奨励する(安永9年には38軒に達した)。
近代

行政

愛媛県今治市に所属する。2005年1月16日に今治市などとの平成の大合併による新設合併により新・今治市の一部となった。それまでは島の西半分が大三島町、東半分が上浦町の2町に行政区分が分かれていた。

経済・産業

第一次産業
ミカンを中心とした農業が主たる産業だがオレンジ輸入自由化等により不振となり、近年ではイチゴ等の栽培も小規模ながら行われている。かつては除虫菊の栽培が盛んであった。瀬戸内の島嶼であることから平地が乏しく、また水資源にも恵まれず米作条件には恵まれず、盛んではない。
製造業
小規模ながら造船所、船体ブロック工場、縫製工場などがある。
「伯方の塩」のブランド名で知られる伯方塩業(本社・松山市)の製塩工場が近年立地している。なお、戦中までは島の東岸に石油備蓄基地があった。
商業
大山祇神社の参道である宮浦商店街があるものの、しまなみ海道の開通などもあり、参拝客の多くが宮浦港を利用する船客から自動車での来訪に移行したため沈滞している。また、島内の過疎化もこれに拍車をかけている。

観光

大山祇神社のある宮浦地区が島の観光の中心となっている。付近には旅館や土産物店、飲食店も数軒ずつ立地し、芸予諸島の中では生口島瀬戸田と並ぶ一大観光拠点となっている。国の名勝に指定されている。

しまなみ海道の開通とともに島の東部にインターチェンジができたことから、インターチェンジのある多々羅(たたら)地区に多々羅しまなみ公園、芸術会館、多々羅温泉、しまなみドームなどの観光関連施設が旧・上浦町により整備されている。

リゾート開発構想が華やかなりし頃(総合保養地域整備法など参照)は「えひめ瀬戸内リゾート開発構想」の一つの重点整備地区として大手企業によるリゾート開発構想も打ち上げられたが、バブル崩壊とともに大手企業は用地取得、開発着手の前に事実上開発構想を断念・撤退し地道な取組みに戻った。

1999年5月のしまなみ海道の開通は大三島にとっても最大の飛躍のチャンスであった。開通後多くの観光客が訪れ入込客数はピークを記録し、特にしまなみ海道沿線では瀬戸田(生口島)とともに知名度の高い大山祇神社周辺には観光バスやマイカーでごったがえしたテンプレート:要出典が、観光ブームは秋の行楽シーズンの終わりとともに終息し開通前の状態に戻ってしまった。しかしながら、ブームに過度に踊らされず民間企業ベースでは架橋による観光ブームをあてこんだ過大な投資は行われなかったため、傷も浅くすんだ。むしろ、国策であった農業補助金等を活用した地域振興の流れにそって小規模な自治体が競って同様なコンセプト、施設内容の物産販売施設等を整備したため、その後処理がかえって重荷となっているテンプレート:要出典 

今日では、地域資源を生かしたグリーンツーリズムや修学旅行・合宿の誘致など地道な観光振興が行われている。

社会

小学校
  • 今治市立大三島小学校
  • 今治市立上浦小学校
市の統廃合の検討対象に挙がっているが、島で1校と、通学区域範囲が広範囲となり、また旧大三島町の区域では2004年度に1校に統合後、間もないこともあり、懸念が広がっている。
中学校
  • 今治市立大三島中学校
  • 今治市立上浦中学校
同様に、島で1校とする方向での検討対象となっている。
高等学校
かつて存在した学校
  • 上浦町立盛小学校
  • 上浦町立井口小学校
  • 上浦町立瀬戸崎小学校
  • 大三島町立大三島北小学校
    • 大三島町立鏡小学校(大三島北小学校へ統合)
    • 大三島町立宮浦小学校(大三島北小学校へ統合)
  • 大三島町立大三島南小学校
    • 大三島町立岡山小学校(大三島南小学校へ統合)
    • 大三島町立口総小学校(大三島南小学校へ統合)
    • 大三島町立宗方小学校(大三島南小学校へ統合)

文化

水軍にちなむ伝説・遺跡

大三島の東岸の沖合いにある水軍の出城跡。天智天皇の頃、の侵攻に備えて造られた日本最古の水軍城と伝えられる。近世には、藤堂高虎の弟が居留したといわれている。居館のものとみられる柱跡が見られる。戦後すぐの頃までは周辺ではアサリがたくさん採れ、今日でも干潮時には大三島から砂州を伝って歩いていくことができる。

いも地蔵

下見吉十郎を参照。

名所・名産

交通

道路

本州四国連絡道路の1つである、西瀬戸自動車道が通る。大三島橋伯方島と、多々羅大橋生口島と結ばれている。

バス

  • しまなみ海道の開通とともに大三島BSから福山今治方面へのバスが運行されている。また、宮浦からは今治行きのバスも運行されている。
  • 島内の路線は瀬戸内運輸と地元自治体の出資による瀬戸内海交通が運行しており、後者の車体カラーなどは瀬戸内運輸と似通ったデザインである。便数は多くない。

船舶

  • 今治港 - 宗方港 - 木江港
  • 宗方港 - 岡村港
  • 今治港 - 宗方港 - 大下港 - 小大下港 - 岡村港(旅客のみ)
岡村港の属する岡村島は広島県側のとびしま海道の起点であり、この航路はしまなみ海道とびしま海道を接続している
この航路は愛媛県島しょ部から本州への最短ルート。
  • 井口港
大三島の東岸にある井ノ口港は、古くから漁業と海運業を中心とした海上交通基地や荒天時における一時避難港の役割を担ってきた。1999年のしまなみ海道の開通までは対岸の垂水地区(生口島、広島県瀬戸田町)と結ぶフェリー便や盛港(大三島の北端)を経由して忠海港(広島県竹原市)への航路があったが、しまなみ海道の開通により廃止された。かつてフェリー航路があった関係で井ノ口港には待合所のほかフェリー乗船車用の待機レーンがあり、かつての名残りを留めている。
2008年10月15日を以って、三原観光汽船とほうらい汽船が共同運航していた三原港-瀬戸田港-井口港の航路のうち、瀬戸田港-井口港間は廃止された。
しまなみ海道をはさんで南側に多々羅しまなみ公園(特産品販売施設・飲食店を含む)が整備されたほか北側には運動公園も整備され、観光クルーズ船や遊漁船の運航等の観光・レクリエーション拠点施設としての役割も担いつつある。ただ島には大きな産業もないため物流港湾としての利用が減少しているほか、設備の老朽化や船舶大型化への対応などの問題がある。
なお港のある地区は「井口」(いのくち)であるが、正式な港湾の名前としては「井ノ口港」と「ノ」が間に入る。ただ、土木行政関係者以外は地元では一般に「井口港」と呼び、表記される(港の看板もそうなっている)。

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 神社博物館事典(國學院大學サイト)
  • 神社博物館事典(國學院大學サイト)