壱岐島

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テンプレート:Redirect テンプレート:Infobox 壱岐島(いきのしま)は、九州北方の玄界灘にある南北17km・東西14kmのである。九州と対馬の中間に位置する。

周囲には23の属島(有人島4・無人島19)が存在し、まとめて壱岐諸島と呼ぶ。ただし、俗にこの属島をも含めて壱岐島と呼び、壱岐島を壱岐本島と呼ぶこともある。官公庁の定義では「壱岐島」と呼ぶ場合、周囲の属島は含めない。

現在は長崎県壱岐市の1市体制で、長崎県では島内に壱岐振興局(旧・壱岐支庁、壱岐地方局)を置いている。また、全域が壱岐対馬国定公園に指定されている。

地理

佐賀県北端部の東松浦半島から北北西に約20kmの玄界灘上に位置する。対馬海峡を隔てた北西海上に対馬がある。航路の距離は福岡市博多港から島の南西部の郷ノ浦港まで約67km、東松浦半島の呼子港(唐津市)から島の南東部の印通寺(いんどうじ)港まで約26kmである。

属島は原島長島大島若宮島の4つの有人島と、19の無人島がある。[1][2]

集落の形成

島内は大きく農業集落と漁業集落に分かれる。農業集落は「」(ざい)と呼ばれ散村の形態をとるのに対し、漁業集落は「」(うら)と呼ばれ集村の形態をとる[3]。そして、それぞれ農村集落には「-触」(ふれ)、漁業集落には「-浦」の町名がつく。「」(ふれ)の語源には、江戸時代の村方三役のうち扨頭(さすがしら)が藩命を触れ回った範囲の呼称に由来するとする説と朝鮮語のプル(村の意)に由来するとする説がある[4]

気候・自然

島の大部分は玄武岩に覆われた溶岩台地で、高低差が小さい。最高峰「岳ノ辻」は標高212.8mで、島の8割は標高100m以下である。岳ノ辻は約170万-140万年前(第4期)、100万-60万年前(第5期)に火山活動をしていた。溶岩台地以外では、北部に古第三紀始新世の堆積岩である「勝本層」、中部と南部に新第三紀中新世の「壱岐層群」が見られる。また、約1万年前までは九州と陸続きだったと考えられている。川は中部の幡鉾川と北部の谷江川があり、両方とも東向きへ流れるが、他は小河川である。

暖流対馬海流が対馬海峡を流れる影響もあり、気候は比較的温暖である。天気予報では「壱岐対馬」と一括して表示されることが多いが、自然環境の特殊性は対馬ほど強くなく、九州北部に近い。また、平坦な地形は田畑として利用されやすく、古来より自然環境への人的な影響が強かった。照葉樹林は島の各地に残るが、大規模な原始林は無い。

渡良のアコウが自生北限地であることと、陸続きだった九州北部と共通した淡水魚相が残ることが特徴である。ただし淡水魚は河川改修が相次ぎ、オオクチバスブルーギルが放流された現在は数種が絶滅したと考えられている。

なお、春先に吹く強い南風のことで、今では気象用語となっている「春一番」の発祥の地は壱岐である。1859年安政6年)、「春一番」と呼ばれていた季節性の強い南風により地元の漁師が大勢遭難した海難事故によって広まったもので、1987年昭和62年)には、郷ノ浦港入口の元居公園に船の帆をイメージした「春一番の塔」が建立された。

歴史

対馬とともに、古くから朝鮮半島九州を結ぶ海上交通の中継点となっている。なお、15世紀の朝鮮王朝との通交を記述した「海東諸国紀」(ヘドンチェグッキ)[5]のなかにも壱岐島・対馬島についての記事がみられる。

原始・古代

縄文時代

縄文時代の遺跡としては、後期と推定される郷ノ浦町片原触吉ヶ崎遺跡がある。弥生時代には、ほぼ全島に人々が住んだと思われる。中でも河川流域に遺跡が濃密に分布している。下流域の原の辻やミヤクリ、上流域の柳田田原地域の物部、戸田遺跡などは、その域内も広く遺物も豊富である[6]

弥生時代

中国史書である『三国志』魏書の魏書東夷伝倭人条、いわゆる『魏志倭人伝』においては、邪馬台国の支配のもと、「一大國」が存在したと記されている。『魏略』の逸文、『梁書』、『隋書』では一支國が存在したと記されている。1993年12月に長崎県教育委員会が島内にある原の辻遺跡を一支国の中心集落と発表し、話題となった。魏書の魏書東夷伝倭人条では「有三千許家(三千ばかりの家有り)」と有り、1家5人と仮定しても当時既に15,000人もの人口が在ったことなり、当時の日本の中では人口が多い地域だった(2012年12月1日の壱岐市の推計人口28,290人)。

古墳時代

河川の流域や島の中部、各地に横穴式石室墳群が分布している。前方後円墳は、長崎県内最大の勝本町百合畑触の双六古墳古墳を初め数基存在する。後期(6世紀)になると島の中央部に鬼の岩屋古墳・笹塚古墳などの巨石石室墳が築造される。鬼の岩屋古墳の近くには島分寺があり、壱岐の住居を寺としたとの伝承がある。これらの巨石石室墳を壱岐直の墓との推定も可能である。郷ノ浦町鬼屋久保古墳の横穴式石室の奥壁に線刻で帆船とクジラと認められる画が描かれている。回遊するクジラを集落で浦に追い込んだ様子を描いた画と考えられる[6]

律令制

令制国としては、壱岐国となった。『和名抄』には壱岐郡と石田郡の2郡と11郷が伝えられる。原方と山方に相当する。壱岐値は壱岐県主で、中央に出仕した伊吉や雪連は一族であると考えられる[6]

平安時代1019年(寛仁3年)には、女真族(満州族)と見られる賊徒が高麗沿岸を襲い、さらに対馬・壱岐にも現れた。この時、壱岐国国司藤原理忠は、賊徒と戦い討ち死にしている。一通り略奪を繰り返した後北九州に移り、そこで藤原隆家によって鎮圧された。(刀伊の入寇

中世・近世

中世には松浦党の勢力下に置かれた。鎌倉時代中期、モンゴル帝国大元ウルス)とその属国・高麗により二度に亘り侵攻を受ける。一度目の文永の役の際には、壱岐守護代平景隆ら百余騎が応戦するが、圧倒的な兵力差の前に壊滅し、壱岐は占領され島民が虐殺を受けるなど大きな被害を被った。

続く弘安の役でも元軍の上陸を受け、大きな損害を受けたが、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、苦戦を強いられた元軍は壱岐島から撤退した(壱岐島の戦い)。江戸時代には松浦党の流れを汲む平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となった。

近現代

1871年(明治4年)廃藩置県の際には平戸県に属し、その年には再編により長崎県の一部となった。島内にあった2つの郡は1896年郡区町村編制法で統合され、壱岐郡1郡となった。自治体としては、1889年(明治22年)の町村制度施行当初は壱岐郡に7村、石田郡に5村の計12村が発足したが、町制施行や合併を繰り返し、昭和の大合併を経て1970年(昭和45年)までに郷ノ浦町勝本町芦辺町石田町の4町に再編された。2004年3月1日、平成の大合併によりこれら4町が合併し市制施行、壱岐市が誕生した。

行政区域の変遷については、壱岐市#歴史を参照のこと。

産業

農業・漁業といった第一次産業が中心である。戦後に葉タバコの栽培と肉用の生産が盛んになった。

特産品としては焼酎が有名である。麦焼酎発祥の地で、世界貿易機関から壱岐焼酎として保護産地指定を受けている。肉用牛も壱岐牛として特産品化している。また海産物の特産品も多い。

レオタードを着ての漁

壱岐島の東部・八幡(やはた)地区では、今も海女が古(いにしえ)の海人族からの伝統の潜水漁を営んでいるが、ウェットスーツではなく、レオタードを着て海に潜っている。なぜかと言うと、八幡では昔から乱獲を防ぐため、ウェットスーツの着用を禁止しているからである。

伝統漁の「海女」と「レオタード」を組み合わせて「レオタード漁」と呼ばれることがある。

八幡の海女の仕事は5月1日から9月末までとなっている。

文化

祭事

催事

  • 壱岐の島新春マラソン大会(1月)
  • 壱岐綱引大会(2月)
  • 壱岐オープンテニス大会(5月)
  • 壱岐サイクルフェスティバル(6月)
  • 辰の島フェスティバル(7月)
  • 壱岐の島 夜空の祭典(8月)
  • 湯本温泉港まつり(10月)

交通

国道382号が島の北西部から南西部へそして南西部から南東部へ"L"字型に貫き、主要県道が国道と各地域を繋ぐ。鉄道はなく、壱岐交通路線バスを運行している。

島外との連絡

南西部に郷ノ浦港、南東部に印通寺港、東部に芦辺港、北部に勝本港が設置されている。町の南東端には壱岐空港がある。

郷ノ浦港
九州郵船により、博多港福岡市)および対馬との間を結ぶフェリージェットフォイルが運航されている。車両航送を伴わない旅客は高速のジェットフォイルを主に利用する。また、壱岐市により、壱岐島の属島である原島長島大島への航路も運航されている。
印通寺港
九州郵船により、唐津東港佐賀県唐津市)との間を結ぶフェリーが運航されている。かつてこのフェリーは長崎市と唐津東港を結ぶ高速バス「レインボー壱岐号」と連絡し、長崎市と壱岐を結んでいた(2012年3月31日を以って「レインボー壱岐号」廃止)。
芦辺港
九州郵船、壱岐・対馬フェリーにより、博多港および対馬との間を結ぶフェリーと、九州郵船によるジェットフォイルが運航されている(法的には港湾ではなく漁港である)。
勝本港
勝本町漁協と辰の島観光の2社が夏場のみ定期航路として壱岐北部の辰の島とを結んでいる。オフシーズンは予約制の不定期航路となっている。
壱岐空港
オリエンタルエアブリッジにより、長崎空港への航空便が運航されている。

脚注

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参考文献

  • 財団法人日本離島センター編『日本の島ガイド SHIMADAS』ISBN 4931230229
  • 長崎県環境部自然環境課編『ながさきの希少な野生動植物』(該当部執筆者 : 鎌田泰彦・邑上益朗・松尾公則・鴨川誠・東幹夫・池崎善博)2001年発行

関連項目

外部リンク

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  • 『日本地名大百科 ランドジャポニカ』 小学館、1996年、p.77。ISBN 4-09-523101-7
  • 『日本地名大百科 ランドジャポニカ』 小学館、1996年、p.77。ISBN 4-09-523101-7
  • 申 叔舟『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』田中健夫訳注 , 岩波文庫、1991年、ISBN 4-00-334581-9
  • 6.0 6.1 6.2 岡崎敬『魏志倭人伝の考古学』第一書房 2003年