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'''土方 為次郎'''(ひじかた ためじろう、[[文化 (元号)|文化]]9年([[1812年]]) - [[明治]]16年([[1883年]])[[3月29日]])は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])から明治にかけての人物。末弟に[[新選組]]副長[[土方歳三]]。'''為二郎'''とも。[[諱]]は義盛。[[雅号]]は閑山亭石翠(かんざんてい せきすい)。 == 生涯 == 文化9年(1812年)、[[武蔵国]][[多摩郡]][[石田村]]の[[豪農]][[土方義諄]](隼人)の長男として生まれる。 盲目だったため、家督は次男の[[土方喜六|喜六]]が継いだ。[[万延]]元年([[1860年]])に喜六が急死すると、為次郎が中継ぎをし、喜六の長男・作助(当時16歳)を結婚させて家督を継がせた。三味線[[浄瑠璃]]や[[俳句]]を嗜み、[[佐藤彦五郎]]とは同じ趣味同士仲が良く、妹・[[佐藤のぶ|のぶ]]が嫁いだこともあって、佐藤家にはよく出入りしていたという。 明治16年(1883年)、死去。享年72。生涯独身だった。墓所は[[石田寺]]で、墓石に刻まれた戒名の隣には、歳三の戒名が刻まれていた(現在は改修)。 == 備考 == * 「目が自由だったなら決して畳の上では死なない」と常々言ったほどの豪快な性格で、嵐の日に川を泳いで渡ったりするかと思えば、大の雷嫌いだったため、雷が鳴るとすぐに布団に入って寝てしまったりしていた。 * [[三味線]]屋の娘で[[長唄]]上手のお琴を大いに気に入り、歳三の嫁にと斡旋したが、歳三は「まだ早い」として結婚を断った。それで為次郎は、お琴を歳三の許嫁とした。 * 新選組を結成した歳三から、彦五郎と連名で為次郎へ宛てた手紙も現存する。 *「おとゝ(弟・歳三)にひかれて」と題された3つの句が残る。「春の旅 人の言ふなり 行くなりに」「葉柳や 誰か置捨てし 檜笠」「二人して 提げけり浜の あやめ草」。 {{DEFAULTSORT:ひしかた ためしろう}} [[Category:1812年生]] [[Category:1883年没]] [[Category:武蔵国の人物]] [[Category:視覚障害を持つ人物]]
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