国鉄EF62形電気機関車

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テンプレート:鉄道車両 EF62形は、日本国有鉄道(国鉄)が設計した直流電気機関車である。

概要

国鉄の最急勾配路線であった信越本線碓氷峠越え区間に直通する列車の牽引用に開発され、急勾配での運用に対応した特殊設計がなされている。

1962年昭和37年)に先行試作車の1が完成し、その後1963年から1969年にかけて量産車53両の合計54両が製造されたが、すでに全車が廃車された。

開発の経緯

信越本線横川 - 軽井沢間の碓氷峠区間は、最大66.7という並外れた急勾配を控える難所であった。通常の機関車では登坂では空転、降坂では暴走の恐れから官設鉄道として開業した明治時代から、補助レール(ラックレール)に機関車の歯車を噛み合わせて昇降するアプト式とされた[* 1]。このため同区間はいち早く電化されて1912年明治45年)には電気機関車が導入されたが、長らく単線のまま過密ダイヤを強いられてきた。

  • 1960年代初頭の時点で、同区間はアプト式電気機関車ED42形(1933年 - 1947年製造)を投入していたが、アプト式時代の電気設備(第三軌条式・直流600V)の制約で1両僅か510kWの低出力だったED42形を合計4両連ねても、通過できる列車の重量は360t止まりな上に、極めて速度が遅いために単線の過密ダイヤの中でこれ以上の増発は困難であった。

日本の経済成長が進展する中で、東京長野県東信北信を結ぶメインルートである信越本線の輸送力不足は非常に深刻な問題になっていた。

粘着運転への移行

碓氷峠区間を管轄する高崎鉄道管理局(現・JR東日本高崎支社)は、1956年にレポート「碓氷白書」を作成した。この白書では同区間が輸送のボトルネックとなっており、アプト式鉄道の施設旧式化・老朽化も著しい実態が指摘され、アプト式の解消や複線化などの抜本的な対策が早急に必要であることが訴えられた。

国鉄本社はこれに対応し、翌1957年から同区間の改良策検討に取りかかり以下の2案の比較検討を行った。

  • 急勾配の現在線に並行した「腹付け線増」で複線化
  • 緩勾配 (25‰) の迂回線建設

結果は費用や工事期間の制約から現在線案が選択され、アプト式を廃止して通常レール摩擦力のみによって走行する「粘着運転」化の上で牽引機関車を前後の区間から直通させる方針を計画した。

粘着運転化にあたり、特殊装備を多数搭載したEF63形が開発されたが、同形式はあくまでも碓氷峠区間専用の補助機関車で牽引力・ブレーキ力に重点を置いた特殊形式であり、信越本線の前後区間を直通できる本務機関車として開発されたのがEF62形である。碓氷峠ではEF63形の補助を受けて通過することを前提とした上で、降坂時にはEF63形と直接連結されて協調運転[* 2]を可能な構造とした。

開発は1960年から開始され、1962年5月に本形式ならびにEF63形各1両の先行試作車が完成した。

構造

外観

重連運転も考慮した結果F級の新系列電気機関車としては初めての貫通式運転台を採用した。運転台窓はパノラミックウィンドウであり、先行するEF60形EF61形同様にやや傾斜しているが、正面貫通扉を垂直に配置する関係で、幕板が庇状にやや突き出した体裁であり、窓回りに凹みが生じている。運転席正面ガラスにはデフロスタが取り付けられる[1]。幕板両側に2灯のシールドビーム前照灯が設置された。

軽量化のため、側梁を強化することで中梁を廃止し[2]、側面裾部が車体両端部分より一段下がった形態である。

塗色は当初、茶色(ぶどう色2号)一色であったが、のち青15号を基調に前面腰部をクリーム1号とする直流機標準塗色となった。

走行機器・性能

碓氷峠区間は特殊機関車であるEF63形の大重量(軸重18t[* 3]・総重量108t)に耐えられる規格に強化されているが、それ以外の信越本線は通常の幹線規格であり、通常運用される全動軸のF形機関車は軸重16t・総重量96t以内に制約される。また、本形式の開発において、各種粘着試験の結果から総重量を92tとすることを目標としたため[3]、各部分の軽量化に特段の配慮がなされた。

機器は協調運転を考慮し、EF63と共通のものとなっている。電動カム軸制御の自動進段式抵抗制御器 (CS16) による抵抗制御方式でバーニア制御器 (CS17) も装備している[4]。ノッチを細分化することでトルク変動を小さくし、空転防止に寄与している。また下り坂での安定したブレーキ力確保のため発電ブレーキも装備した。また、転換制御器も電動カム軸制御方式 (CS18) となっている[5]

本形式は、国鉄の電気機関車としては初めて電動カム軸制御器を本格採用したといえる存在である。

  • 国鉄は1920年代に、イギリスのイングリッシュ・エレクトリック(デッカー)製電気機関車を多数輸入し、その搭載する電動カム軸制御器のトラブル多発に悩まされた経験から、電気機関車の制御器は、アメリカのウェスティングハウス・エレクトリックの流れを汲む、シンプルな「単位スイッチ制御器」に徹してきた。しかし、単位スイッチ式は大きなスペースを必要とすること、カム軸制御の方がコンパクトで、多段化や自動加速化に適していること、機器の信頼性が向上したことなどから、本形式でついにカム軸制御へと回帰したものである。
  • 自動進段の電動カム軸制御器でバーニア制御付の仕様は、その後のEF64形EF65形にも引き継がれ、国鉄直流機関車における一般的な技術となった。

主抵抗器は、66.7‰もの急勾配における起動抵抗や制動中の負荷抵抗が膨大なものであることから、冷却効果の高い専用のものを開発している[6]。さらに、強制通風式とすることで小型化を図っている[6]

重連運転時の総括制御ならびにEF63形との協調運転に対応するため先行試作車ならびに1次量産車ではKE63形、2次量産車ではKE77A形[* 4]ジャンパ連結器2基ならびに元空気ダメ管・釣り合い管を装備する。

興味深い点として、搭載されたMT52系直流直巻電動機 (425kW) 、歯車比1:4.44としたスペックは、EF63形と共通である。これは協調運転を考慮した結果であり、両形式は重量と機器類の差によって全く異なった性能の機関車となった。駆動装置は吊り掛け式である。

3軸台車

ファイル:Truck (JNR DT124).jpg
DT124形台車
車体側面の裾下がり

国鉄の1960年代以降の電気機関車としては異例な3軸ボギー台車 (DT124) を採用し、Co - Co軸配置とした[7]。軽量化と輪重移動の抑制に重点が置かれ[7]、台車を軽量化するために3軸台車を採用し、軸重16tに対応させた[8]。横圧を軽減させるために輪軸を6 - 25mm横動できるようになっている[7]

  • 国鉄は1923年大正12年) - 1926年(大正15年)にイギリスアメリカ合衆国から輸入したEF50形EF51形機関車に倣って、1928年(昭和3年)開発のEF52形以来、F形(動軸6軸)の大型電気機関車については、長大な台車枠に動軸3軸ずつをセットにして配置していた[* 5]。しかしこの構造は重量増加や構造の複雑化など難点も多く、戦後になって国鉄は抜本的な改良を図った。
  • 機関車用の大型2軸ボギー台車が1954年EH10形で実用化され、続いて1957年に製造されたDF50形電気式ディーゼル機関車では、重量の大きい発電機の搭載と亜幹線の軌道条件との狭間で中間台車の横動を許容する構造の採用により、2軸ボギー台車3組を用いた軽軸重のF形機関車が実現した。この「2軸ボギー台車3組のF形機関車」(Bo - Bo - Bo軸配置)という手法は、曲線通過性能を十分に満足する構造であったことから、1960年のEF60形で電気機関車の分野にも応用され、以後F級機関車および中間台車付のD級(4動軸)機関車も含め、国鉄ではスタンダードな手法となった。
  • このような大勢にあってEF62形が敢えてCo - Co軸配置を採用したのは、トータルの重量ではこちらの方が軽量に仕上がったからである。とはいえ、中間軸の横圧が大きく、曲線部で軌道への負担が大きくなる弊害は否定できず、EF60形以降の「近代化型電気機関車」としては唯一の例となった[* 6]

DT124形台車は、通常のセンターピンでは台車回転中心にある第2軸と干渉するという構造的な問題をクリアするため、台車回転中心部分の車体両側に設けられた車体足[2]と台車を結ぶ引張棒ならびに台車第1軸と第2軸との間に置かれたリンク機構によって台車の回転許容と位置決めを行う仮想心皿方式を採用している[7]。また、牽引力については、この引張棒と車体足[2]を介して台車から車体に伝えられている[7][* 7]

また、軽量化と構造簡素化のために揺れ枕がないボルスタレス構造を採用すると共に従来の台車では台車枠に外付けされている砂箱が台車枠内に組み込まれるなど、各所に軽量化に対する様々な努力が払われているのが特徴である。

軸重移動補償

EF63の特殊な台車構造による機械的軸重移動補償に対して、EF62では電気的軸重移動補償が採用された。

力行中の軸重のアンバランスによる空転の発生を抑えるために、進行方向前方から見て

  • 第1軸・第4軸:61%
  • 第2軸・第5軸:78%
  • 第3軸・第6軸:100%

となるように電流を制限している[9]

電動発電機

出力320kVA電動発電機 (MG) を搭載し、これによって客車電気暖房を可能とした。MGの電源は、直流1,500Vを単相交流1,440Vに変換して用いている[7]。使用停止中の軸受け損傷防止の観点から、平軸受が採用されている[7]

  • かつて、客車の暖房は機関車から供給される高温の蒸気によって行われる蒸気暖房が主流であった。蒸気機関車では走行用蒸気の一部を暖房に振り分け、電気機関車やディーゼル機関車では、機関車内に搭載した重油軽油燃焼の暖房用ボイラーによる蒸気発生装置 (SG) の搭載、もしくは機関車直後に連結した車内に石炭焚きの暖房用ボイラーを搭載する「暖房車」から供給していた。
  • しかし、電気機関車の場合は架線電源を利用できることから客車に電熱装置による暖房を装備し、機関車から交流電源を供給する電気暖房が用いられるようになった。蒸気暖房に比較すると取り扱い容易であり、軽量化やスペース節減の効果もあったからである。

交流機関車では1950年代末から用いられ始めていたが、直流用電気機関車で交流電源式の電気暖房仕様となったのは本形式が最初である。これもまた軽量化に伴う重量制限を理由とした措置である。なお同時に碓氷峠を通過する旧型客車についても原則電気暖房追設の工事が施工された。

FRPの多用

屋根部分には広範囲にFRPが採用された。

  • それ以前にも屋根上の一部にFRPを用いた例はあったが、本形式ではほぼ屋根全域にわたってさらなる軽量化のためFRPが採用されている。また、成型色を明灰色として外光を透過させ、代わりに明かり窓の省略を狙ったともいわれる[* 8]。一方、FRP製の屋根板では重量物であるパンタグラフを支えることができないため、左右の側板の間を鋼製の梁でつなぎ、その梁にパンタグラフを搭載する構造としていた。

列車無線

ファイル:EF6254.JPG
EF62 54
運転席側の白い棒状の物がコーリニアアレイアンテナ

EF63形と協調運転を行う関係上本形式には当初から150kHz帯の誘導無線が装備されていたが、この方式はトンネル区間を中心に雑音が問題となり、横川機関区や駅との連絡をも可能とするため本形式とEF63形には1975年から沿線に敷設した専用の漏洩同軸ケーブルを使うUHF400MHz帯の列車無線を装備、第2エンド運転室側面と屋上にアンテナを設置した。この無線には1980年代に入り異常時に他列車への連絡を可能とする防護無線の機能を追加、1990年以降は山岳区間での通信を確実にするため、第1・第2エンド側双方の運転席前[* 9]に通称C'アンテナと呼ばれる八木アンテナ製のコーリニアアレイアンテナが取り付けられた。また、碓氷峠以外の区間で用いる列車無線も1986年以降順次取り付けられ、アンテナを運転室屋上に設置した。

派生形

本形式は勾配線区に適した設計ではあったが、碓氷峠通過に最適化された主電動機特性と歯数比ゆえに高速性能などに難があった。また、3軸ボギー台車も軌道への影響や特に曲線走行時に生じる横圧などの面からは決して好ましいレイアウトではなかった。

そのため1964年(昭和39年)に開発され奥羽本線板谷峠に投入されたEF64形は、勾配線用機関車として発電ブレーキを搭載することなどは本形式を踏襲したものの碓氷峠用の特殊装備を省略し、2軸ボギー台車装備として軸配置を標準の「Bo-Bo-Bo」に変更、歯数比も高速寄りに変更 (1:4.44 → 1:3.83) している。こちらは汎用性のある設計ゆえ多くの線区に適応し大量に増備された結果、2012年現在0番は減少傾向ではあるものの、1000番台については多くが運用されている。

製造年次別概説

メーカーは川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)+川崎電機(現・富士電機ホールディングス)・汽車製造+東洋電機製造東芝の5社3グループである。

先行試作車

ファイル:EF62-1.JPG
EF62 1
先行試作車

1962年に川崎車輛・川崎電気で製造された1が該当する。

  • 側面の屋根肩部に明かり取りの窓が開いておらず、また側面エアーフィルターのルーバーは2枚1組・計8枚の横型で目が粗い。
  • 徹底した軽量化対策の結果、重量は92.0tに抑えられていた。

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第1次量産グループ

1963年に製造された2 - 24が該当する。先行試作車から以下に示す変更点がある。

  • 車内や屋上では一部機器の変更。
  • 車体形状も前面窓上に水切り(ツララ切りを兼ねる)の追加。
  • 車体側面ルーバーを2枚1組から1枚ずつ独立したタイプに変更。
  • 屋根肩部には明かり取りの小窓を設置。
  • 改良による装備追加や粘着特性改善のため重量が96.0tに増加。

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第2次量産グループ

1964年から1969年までに数回に分けて製造された25 - 54が該当する。1次量産グループから以下に示す変更点がある。

  • 避雷器取り付け位置・運転台側面窓・車体裾形状を変更。
  • 側面のルーバー形状がプレス成形による目の細かいタイプに変更。
  • 27以降は塗色を青15号に変更。
  • 29以降は尾灯の形状ならびに制御機器類を変更。

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運用

信越本線

碓氷峠の粘着運転移行に先立ち、本形式およびEF63形各1両ずつが1962年に試作された。横川側の丸山信号場付近を複線化し1年間近くをかけて試験を行い、その結果は量産型にフィードバックされた。

1963年初めから第1次量産型の製造が開始され、1963年7月 - 10月の碓氷峠粘着運転切り替えに伴って営業運転に投入された。

横川から軽井沢までの登坂はアプト式時代には42分を要したが、新線切り替えならびに1966年の複線化後は旅客列車で軽井沢方面行きの登坂列車が17分、横川方面行きの降坂列車が24分に短縮された。輸送定数も増加し、本形式1両で牽引する列車にEF63形2両で推進運転を行った場合で貨物列車なら400tまで牽引可能となった。

なお、当初は本形式とEF63形を1両ずつ使用することで定数320tの貨物列車または最大実荷重360tの旅客列車を、EF63形を2両と本形式を1両使用する場合は定数500tの貨物列車または最大実荷重550tの旅客列車を牽引する予定であった。[3]

高崎第二機関区(現・高崎機関区)・篠ノ井機関区(現・塩尻機関区篠ノ井派出)に配置され、急行列車を含む旅客列車・貨物列車で上野 - 長野間が直通運転可能な運用がされた。1966年の信越本線直江津電化では同駅まで、さらに1969年の宮内電化では、新潟までの広域運用も行われた。

しかし1970年代に入ると、客車急行「白山」の489系電車特急格上げや、客車普通列車80系電車への置き換えが進展し、碓氷峠越えの客車列車の本数は大きく減少した。このため本形式の運用は貨物列車牽引が主となった。

1975年(昭和50年)10月28日、碓氷峠の下り坂でEF63形2両と本形式2両の回送列車が速度超過により暴走し、脱線転覆事故を起こした(詳細は「日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#信越線軽井沢 - 横川間回送機関車脱線転落事故 」を参照)。この結果、本形式は12・35が大破し初の廃車となった。原因はブレーキ故障と推測され、これ以降はさらなる安全設備の強化が図られることになる。

碓氷峠の貨物廃止

碓氷峠越えは、粘着運転への切り替えが行われても相変わらず信越本線最大のボトルネックであった。貨物列車重量は400tに制限され、横川や軽井沢では編成の組み替えが必要なほどであった。このため、関東北陸間の貨物列車については、非効率な信越本線経由が避けられ、遠回りだが緩勾配で格段に輸送条件の良い上越線経由ルートが一般化した。

1984年2月のダイヤ改正では対長野県向けの貨物列車も中央本線篠ノ井線経由に統一されることとなり、碓氷峠越え区間を含む信越本線安中 - 小諸間の貨物輸送は廃止された。碓氷峠通過がなければ、信越本線での貨物列車牽引にはEF65形やEF64形などの一般的な構造で速度も高い機関車を用いることができるため、特殊機の本形式は余剰化した。

国鉄末期の荷物列車運用

テンプレート:Vertical images list 1980年代前半、東海道山陽本線荷物列車牽引に運用されていたEF58形は老朽化が進み故障も多発し、代替機関車が必要となった。

荷物列車は乗務員用の暖房熱源供給が必要で、暖房用ボイラーか電気暖房用交流電源を必要とする。当時の国鉄直流機関車では、SG搭載のEF61形は絶対数が不足する上に駆動系統のトラブルも多く、東海道・山陽線主力車のEF65形は暖房供給装置を搭載していないため冬期の運用に難があった。一部に電気暖房電源搭載車のあるEF64形は運用線区の関係から転用できる余剰車がなかった。

当時の国鉄の財政状況では新造機関車などおよびもつかず、EF81形の進出で多数が休車となっていた交流機EF70形を直流化改造し代替車に充てる計画も浮上したが、上述の碓氷峠での貨物列車廃止に伴い、電気暖房用電源を搭載した本形式に余剰車が発生することが判明したため、費用節約の観点から転用されることになった。

この結果、本形式は1984年に4・13 - 34・36 - 38の計26両が下関運転所(現・下関総合車両所運用検修センター)に転属し、汐留 - 下関間の荷物列車運用に投入された。この際、荷物車の入換を行う際に邪魔になる電気暖房用KE3形ジャンパ連結器の移設などの小改造が行われている。

しかし、本形式は諸元上の最高速度こそ100km/hであるものの、現実には山岳路線での牽引力重視設計で、定格速度が39.0km/hに設定された低速機であり、平坦区間主体の東海道・山陽本線汐留 - 下関間1,000km超の長距離で連続高速運転を行うことは、本来想定外であった。

この性能特性で、従来、定格速度68.0km/hの高速機関車EF58形で運行していたダイヤを代替するのは無理があり、過負荷を強いられた荷物列車牽引充当機は主電動機フラッシュオーバーなどの故障が続発、暖房供給装置類を持たないEF65形を代走させる事態にまで陥った。

この不適合問題に歯車比変更や車両置き換えなどの抜本的対策がなされることもなく、転用からわずか3年も経過しない1986年11月のダイヤ改正で国鉄の荷物列車自体が廃止されることになったため、東海道・山陽本線に転じた本形式は余剰となり、1987年4月の国鉄分割民営化までにすべて廃車された[* 10]。また、篠ノ井機関区に所属する本形式も同時期に廃車となっている。

分割民営化後

テンプレート:Vertical images list 国鉄分割民営化時には、本来の信越本線で運用される41・43・46・49・53・54の6両が東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承され田端運転所配置とされた。

唯一の定期運用は夜行急行「能登」と間合い運用となる黒井 - 二本木間の貨物列車牽引であり、その他は波動輸送に伴う碓氷峠を通過する臨時客車列車の牽引であった。

「能登」と貨物列車の定期運用は1993年3月18日ダイヤ改正で489系に置換えられたことで消滅し49・53が廃車になった。以後は波動輸送対応のみとなるが、長野新幹線の建設工事では軽井沢へのレール輸送列車を牽引した記録がある。

最終的に稼働状態で残っていたのは43・46・54の3両で、横川 - 軽井沢間廃止直前には同線の廃線を記念した臨時快速「さよなら碓氷峠号」「さよなら碓氷峠レインボー号(スーパーエクスプレスレインボー」で運転)」「浪漫」「江戸」といったジョイフルトレインや旧型客車などの牽引に投入された。

1997年の碓氷峠区間廃止後にはEF63形廃車回送や年末には上越線でのイベント列車の牽引に投入されたが、1998年8月から順次廃車となり1999年1月4日付の54廃車により本形式は廃形式となった[10]

保存車

いずれも静態保存

脚注

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出典

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参考文献

関連項目

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  1. テンプレート:Cite book
  2. 2.0 2.1 2.2 『鉄道ファン』(交友社)、1996年12月号、P.23
  3. 3.0 3.1 テンプレート:Cite book
  4. テンプレート:Cite book
  5. テンプレート:Cite book
  6. 6.0 6.1 テンプレート:Cite book
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 テンプレート:Cite book
  8. 日本の鉄道史セミナー』(p199)
  9. 『鉄道ファン』(交友社)、1996年12月号、P.24
  10. 『鉄道ファン』1999年7月号、交友社、1999年p.71