名鉄羽島線
|} 羽島線(はしません)は、江吉良駅から新羽島駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。全線が岐阜県羽島市内を走行する。開通当初は、羽島新線(はしましんせん)と称していた。
概要
岐阜市から東海道新幹線岐阜羽島駅へのアクセス路線として、竹鼻線江吉良駅から分岐する形で建設されたが、新幹線アクセスより沿線住民の通勤利用が多い。その背景には、岐阜駅付近から新幹線を利用する場合、羽島線経由よりも名古屋駅に出た方が速く、列車本数が多いという事情がある(特に対東京方面)。東海道本線を利用すると岐阜駅 - 名古屋駅間所要20 - 25分・毎時8 - 9本に対して、羽島線経由は所要32分・毎時4本である。また、新幹線も岐阜羽島駅停車列車が毎時2本程度に対して、名古屋駅は全列車停車駅なので停車列車は毎時10本前後あり、利便性に差がある。
運賃計算区分はC(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.25倍)。全駅でmanacaなどの交通系ICカード全国相互利用サービス対応カードの利用ができる。
なお、『鉄道要覧』による起点は江吉良駅だが、列車運行および旅客案内、列車番号の設定においては、新羽島駅から江吉良駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。
路線データ
運行形態
すべて竹鼻線と直通し、15分間隔で運行されている。一部の列車は、名古屋本線名鉄岐阜駅と直通しており、名鉄岐阜駅 - 笠松駅間が急行(途中無停車)で、竹鼻線・羽島線内では普通列車となり各駅に停車する。
江吉良駅・新羽島駅とも交換設備のない無人駅であり、竹鼻線の羽島市役所前駅まで1閉塞で1本の列車しか入線できない。2001年までは、朝ラッシュ時に新羽島発羽島市役所前行の急行(江吉良駅は通過)が走っていたことがあった。新羽島駅での夜間滞泊はなく、始発列車の送り込みは羽島市役所前駅からの回送列車で行われる。
江吉良駅を出るとすぐに高架に上がり、終点の新羽島駅まで高架区間となっているため、踏切は江吉良駅付近にしか存在しない。
加算額
新線であるため、キロ程で算出された運賃に加えて、別途30円(大人の普通運賃に対する)の加算運賃が徴収される。
歴史
新幹線駅(岐阜羽島駅)と岐阜市内とを連絡する目的で建設された羽島線だが、元は近鉄の羽島・岐阜進出に対抗するためでもあった。
近鉄は養老線(当時)から岐阜への延伸計画を応用した大垣市と岐阜羽島駅を結ぶ新線を1961年(昭和36年)に発表、将来的には岐阜市内への延伸を視野に入れていた[1]。一方、名鉄は岐阜市内と羽島(新幹線駅)・大垣・養老を結ぶモノレールを構想しており、近鉄の動きを察知して計画の具体化を進めた[2]。モノレール構想では長良橋駅から新岐阜、宇佐と至り、宇佐から分岐して羽島および大垣・養老へと伸ばすルートが考えられていたが、これとは別に普通鉄道で連絡する竹鼻線江吉良駅(休止中)から岐阜羽島に至るルートが羽島新線として計画され、1963年(昭和38年)5月に免許を取得した。
他方、近鉄の計画は羽島新線の認可によって申請見送りとなった[1]。モノレール構想も1970年代までは養老長良線[3]の名称で羽島新線と並存していたが未成に終わり、岐阜羽島駅と岐阜市内を結ぶ路線は羽島新線一本に絞られた。
当初は1964年(昭和39年)の岐阜羽島駅開業に合わせて建設される予定だったが、新駅開業に伴って沿線の開発が計画されていたため、名鉄の用地買収と自治体の開発(土地区画整理事業)が競合して交渉に難航した。また、名鉄自身も豊田新線、知多新線、瀬戸線改良といった計画を同時進行させており、それらと比べて優先度が低かった羽島新線の建設は遅延する一方だった[4]。結果、羽島新線は免許取得から12年後に着工、建設に7年の歳月を要し、1982年(昭和57年)12月11日になってようやく開業した。
- 1962年(昭和37年)1月:羽島新線の建設計画指示[2]。
- 1963年(昭和38年)5月:免許取得[1]。
- 1975年(昭和50年)12月:着工[4](用地買収が難航し、本格的な工事が始まるのは1978年(昭和53年)3月30日から[5])。
- 1982年(昭和57年)
- 2002年(平成14年)1月3日:名鉄新羽島駅電車衝突事故発生。
- 2005年(平成17年)1月29日:毎時2本から毎時4本に増発。
- 2007年(平成19年)12月14日:トランパス導入。
駅一覧
駅名 | 営業キロ | 接続路線 |
---|---|---|
江吉良駅 | 0.0 | 名古屋鉄道:竹鼻線 |
新羽島駅 | 1.3 | 東海旅客鉄道:東海道新幹線(岐阜羽島駅) |
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 森口 2001, p.97
- ↑ 2.0 2.1 中村 1995, p.267
- ↑ テンプレート:Cite journal
- ↑ 4.0 4.1 4.2 中村 1995, p.268
- ↑ 清水 2009, p.114