吉永小百合

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テンプレート:Mboxテンプレート:ActorActress 吉永 小百合(よしなが さゆり、1945年3月13日 - )は、日本女優歌手である。本名、岡田 小百合(おかだ さゆり)。東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。そのファンは、「サユリスト」と呼称される。吉田正(作曲家)の門下生として、数多くのレコードを世に送り出している。早稲田大学第二文学部西洋史学専修卒業、学位は文学士早稲田大学)。夫はフジテレビディレクター、共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任した岡田太郎。

経歴

人物

  • 父の吉永芳之(鹿児島県出身)は、九州耐火煉瓦、外務省嘱託を経て、出版社「シネ・ロマンス社」を経営。飯島正双葉十三郎らと映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行するも、事業に失敗している。
  • 母方の祖父に、英文出版社の大観社社長の川田友之。叔母に『婦人画報』編集長、「アムネスティ・インターナショナル日本支部」の創設メンバーの川田泰代が名前を連ねるなど、執筆の世界とも所縁が深い。
  • 遠縁に歌手の佐良直美がいる(佐良直美の母方の大伯父である山口彰夫の妻と、吉永小百合の母が姉妹同士)[2]。また山本直純の妻の山本正美も遠縁にあたる(山本正美の妹の夫の母が、吉永小百合の母のいとこの妻と姉妹同士)[2]
  • 日活の看板女優」として、浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。従来の男性アクション映画路線がマンネリ化していた当時の日活にとって、吉永・浜田コンビの純愛&青春映画路線は、新たな日活映画ファンの獲得と支持を集めた。特に、『キューポラのある街』、ベストセラーを映画化した『愛と死をみつめて』などは世間から熱い注目を集めた。ブロマイドがあまりの売れ行きに店頭から姿を消すなど、爆発的に売り上げを伸ばした。1964年(昭和39年)、1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)と、年間売上実績で女性部門1位に光輝いた。清純派として世間に認知されていくが、一方で中尾彬渡哲也と付き合い[3]、渡とは結婚する寸前までいったが両親から猛烈に反対され、泣く泣く別れた[4]。その後は石坂浩二に恋焦がれるが、28歳の時に15歳上のテレビプロデューサー・岡田太郎と電撃結婚した[5]冨士眞奈美吉行和子ら女優や文士も参加した句会では、吉永がまだ20代の頃であるが、「今日はバレ句(色っぽい句)を詠みましょう」というテーマが出され、優等生・清純というイメージとは裏腹に「松茸は舐めてくわえてまたしゃぶり」と詠み、秀逸作品(天・地・人、の天)に選出されている[6]
  • 吉永主演映画の原作者でもある川端康成石坂洋次郎といった作家にも寵愛され、川端は吉永に会いたいために山奥の伊豆の踊子のロケ現場を突然訪ね、石坂は吉永が演じることを想定して作品を綴り上げた。
  • 日本映画の衰退期と重なったこともあるが、岡田との結婚により役柄のイメージに合わず、結婚に反対する両親との仲違いも報道されたりもした[5]1973年当時の邦画界には、ヌードも辞さず大胆に現代女性を演じる若手女優が多数登場しており、吉永が1960年代に演じ続けた「清純なお嬢さん」像は類型的で過去の遺物のような印象になってしまっていた。子役出身の俳優にしばしば見られるように、娘役から大人の女性への脱皮がスムーズに行かなかったともいえる。1975年(昭和50年)、『青春の門』を皮切りに「清純なお嬢さん」を脱する演技を披露した。映画『天国の駅 HEAVEN STATION』(1984年、東映)ではオナニーをみせ[7]三浦友和に押し倒され着物の胸に手を差し入れられるシーンでは三浦が「小百合さんは物凄い積極的で、『もっと大胆にやってよ』と何度もダメ出しをしたんです。僕はもうタジタジになって、20回以上NGが出ました」と語る程、濡れ場でもビックリする程の積極性を見せているが、ヌードになることには抵抗があったようで「胸が小さいから、出してもしょうがない」と斎藤光正に言っていた[6]
  • デビュー時代以外はテレビドラマには縁の無い印象であるが、映画出演の減り始めた時期に、「東芝日曜劇場」やNHK大河ドラマにも出演している。1981年(昭和56年)の『夢千代日記』(NHK)では、大人の女性としての内的情感を豊かに表現し、この時期から、評論家に演技力に難をつけられながらも、大女優の風格をもつ女優という好意的な評価を受け始めた。「サユリスト」復権も同時期であり、邦画冬の時代にも定期的に出演作が製作されている。
  • 沖縄戦を扱った映画『あゝひめゆりの塔』の共演者らと共にもんぺ姿で靖国神社に参拝している[8]
  • 広島を舞台にした『愛と死の記録』の出演や、『夢千代日記』(NHK)で原爆症に苦しむ主人公を演じたことをきっかけに、1986年(昭和61年)からボランティアで原爆詩の朗読会をスタートさせている。以後女優としての活動のほか、反戦・反核運動をライフワークとして力点を置いている。
  • 以前から脱原発を求めていたが[9]福島第一原子力発電所事故後はその姿勢を一層強めている。2011年7月31日に広島市内で行われた日本母親大会では、自身による原爆詩の朗読に先立ち、「日本のような地震の多い国で原子力発電所がなくなってほしい」と述べ、「脱原発」社会の実現を願う考えを示した[10]
  • 現在のテレビ出演はほぼCMのみであり、映画を中心に活動している。
  • 確定申告手続で各社の取材を受けた際、同席していた当時の大蔵大臣に「この税金は戦闘機を買う費用に使ったりせず、もっと国民のためになることに使って欲しい」と釘を刺した。
  • 西武ライオンズ早稲田大学ラグビー部のファンとして有名である。前者については、元々読売ジャイアンツ(特に長嶋茂雄)のファンだったのが、江川事件をきっかけに転向したものだった。また、1996年オフの清原和博の読売ジャイアンツへの移籍について、「あの時(1987年の対ジャイアンツ戦で日本一を決めた、日本シリーズ第6戦のこと)の涙は何だったの」とコメントしていた。この結果、清原ファンをやめている(西武ファンは継続)。また、清原も吉永のファンである。なお、父・英之は前身球団である西鉄ライオンズのファンだった、
  • 夫から教わった将棋も趣味の一つとしており、将棋棋士の大内延介と交遊があった。また、1976年の「将棋会館」建設にあたって多額の寄付をしている。
  • 吉永小百合 街ものがたり』(TBSラジオ)の中で、鉄道ファンであることも告白しており、JR東日本大人の休日倶楽部」のポスター・CMのイメージキャラクターも務めている。
  • 2005年、西武鉄道グループ(西武ライオンズを含む)の当時のオーナーであり、吉永のファンでもあった堤義明から軽井沢の別荘を格安で買ったと報じられた(週刊文春2005年3月10日号)。吉永は「通常の売買契約に基づき行っております」と弁明している。
  • 健康維持のために水泳を長年に渡り、継続している。また、常に水着を持ち歩き、プールがあればどこでも泳いでいる。
  • ガラスの中の少女」の水中に浮かぶ遺体のシーンでは、実際に失神している。
  • 天国の駅 HEAVEN STATION』(1984年、東映)では主題歌の『夢さぐり -天国の駅-』を担当し、「ザ・ベストテン」のスポットライトのコーナーに出演したことがある。
  • 東映の撮影所にある控室には、ベテラン・主演俳優クラスのみが通行できる階段と、一般役者用の階段(スタジオには少し遠回りになる)と、2ヶ所の階段があるが、とある映画の撮影中に哀川翔がベテラン・主演俳優クラスのみが通行できる階段を利用していたことを、とある俳優に咎められ、共演者の小沢仁志を含め騒動になりかけたが、通りかかった吉永に「あなた達何しているの?」と仲裁され、即座に「すいませんでした」と謝ったという。

特記事項

  • 吉永が歌い上げた『奈良の春日野』(「♪フンフンフーン 黒豆よ♪」の歌詞が特徴的)は、元々1965年(昭和40年)に発売されたシングル『天満橋から』(『第16回NHK紅白歌合戦』出場曲)のB面曲であったが、1987年(昭和62年)に明石家さんまがギャグとして取り上げたことから、レコードも再発売(A面を『奈良の春日野』に変更)されヒットした。
  • 15歳時、映画撮影の際に三木のり平とキスをした。これが自身のファーストキスとなった[11]
  • 1963年にはナイフとピストルを持った男に自宅の自室内で襲撃されている(犯人は吉永の熱狂的なファンだった)[12]。また、同年には合計7通の脅迫状が吉永の自宅に届いている(吉永小百合脅迫事件)。
  • 1969年には年2本以上の日活作品に出演する代わりに他社の作品や自主制作映画は日活側の諒解[13]を得れば自由に出演が出来る条件で再契約する、しかし当時はヤクザ映画が全盛で吉永向けの作品を制作するのは既に困難であった[14]
  • 三波春夫の曲と思われがちの『世界の国からこんにちは』のレコードを、日本万国博覧会当時に出している(全部で7種類の歌い手による競作であった)。同博覧会開催の数年前に、この歌が初めてマスコミに発表された時も三波春夫ではなく吉永がその場で歌っている。また、松下電器産業が博覧会を記念して制作したタイムカプセルには、吉永が歌い上げたレコードが納められた。
  • 早稲田大学第二文学部での卒業論文のテーマは「アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』におけるアテネ(アテナイ)の民主制について」であった。
  • 和田アキ子と旅行した時に互いに写真を写し合いした際、和田の顔を眺めて吉永は「和田さんって、私と似てますね」と言ったという。和田はそのことを他人に自慢しても信じてくれないと自虐ネタにすることがある。
  • 水島新司の漫画『あぶさん』にも、1993年シーズンの開幕戦に西武球場に観戦に来るなど登場する。
  • 実現には至らなかったものの、1960年末期 - 1980年代前半に幾度も『NHK紅白歌合戦』の紅組司会の候補に挙がった。

サユリスト

  • 吉永とともに青春時代を歩んだ世代に「サユリスト」(『小百合』に『…主義者』や『人』を意味する英語の接尾辞『-ist』をつけた造語)と言われ、特に団塊~70歳代にかけての世代に多く見られるが、「サユリスト」を自認する者は邦画ファンや一般大衆はもとより、芸能人や著名人にも幅広く存在している。内藤陳は、呼び捨てをふくむこと自体がとんでもないとして「サユリサマスト」と呼ぶよう提唱しているが、ほとんど世間には浸透していない。
  • 「サユリスト」を自認するタモリは、同じく「サユリスト」として知られる野坂昭如を指して「あの人は一時、山口百恵に走ったが、俺は小百合サマ一筋」と述べたことがある。タモリと吉永は早稲田大学第二文学部に在学していた時期が重なっており、学生食堂で吉永が食事しているのを偶然に発見した際、吉永の食べ残しを食べようか迷った末、思い留まったというエピソードがある。
  • 早稲田大学の女子学生をさす、バンカラで、男まさりで、活動的な「早稲女(わせじょ)」の代表的O.G.としてしばしば名があげられる。
  • やはり、早稲田大学の後輩である小宮山悟も「サユリスト」の一人である。
  • 漫談家の綾小路きみまろも「サユリスト」を自認する人物の一人。また、吉永も綾小路のファンであり、吉永の主演映画『まぼろしの邪馬台国』では、吉永の希望によって綾小路に出演依頼を行い、綾小路は「サユリストの1人として是非」と快諾。なお、綾小路にとってはこれが実質的な俳優としてのデビュー作である。
  • 対して、栗原小巻(誕生日は吉永の翌日である)のファンは、「コマキスト」と呼ばれた。

出演作品

映画

※太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品

テレビ

ドラマ

アニメ

その他

  • NHK紅白歌合戦(※下記参照)
  • 日本レコード大賞10周年記念音楽会(1968年12月28日、TBS)
  • 夜のヒットスタジオ(フジテレビ) - 1969年3月31日放送(同番組のカラー放送開始初回)で歌手として初出演、当時の新譜「愛ある限り」を披露。以降、同年8月4日放送・1970年4月20日放送の計3回に歌手として出演。また、1984年10月1日放送では、当時の自身の主演映画「おはん」の同名主題歌を歌う五木ひろしの応援ゲストとして、同作品の原作者である宇野千代とともに特別出演している。
  • スター千一夜(1972年-1976年、フジテレビ) - 司会、ゲスト
  • 日本歌謡大賞(フジテレビ) -1972年度司会
  • FNS歌謡祭(フジテレビ) - 第1-4回司会
  • 吉永小百合ショー(1966年、日本テレビ)
  • きみはヒロシマを見たか~広島原爆資料館(1982年8月6日、NHK総合)- 語り
  • この人・吉永小百合ショー(1985年6月6日、NHK)
  • 夢を駈ける女~馬のない名騎手・井上喜久子 (1987年1月2日、NTV)- 語り
  • ミツコ 二つの世紀末(1987年、NHK)
  • 未来からの贈りもの~この星を旅する物語 (1995年3月`日、TBS)- 語り
  • ヒロシマ・ガールズ・50年目の夏 (1995年8月7日、フジテレビ)- 語り
  • 祈るように語り続けたい(1997年・1999年・2000年、NHK-BS2
  • NNNドキュメント「チンチン電車と女学生 2003・夏・ヒロシマ」(2003年、広島テレビ) - 語り
  • 特別対談番組「吉永小百合 石井ふく子 34年の絆」〜山本周五郎生誕100年記念によせて〜(2003年、TBSチャンネル
  • 森光子「放浪記」大いなる旅路(2005年5月22日、NHK総合)- 語り
  • 戦後60年特別企画「ヒロシマ」(2005年8月5日、TBS) - 朗読
  • 吉永小百合 言葉で平和を紡ぎたい(2007年8月9日、NHK総合)
  • 絶景・人情列島”寅さん”が旅したニッポン(2008年8月13日、テレビ東京) - 語り
  • 吉永小百合 被爆65年の広島長崎(2010年8月6日、NHK総合)
  • 証言 八十年目の真実 ~長島 そして ノルウェー~(2010年11月28日、山陽放送) - 語り
  • NHKスペシャル「復活~山田洋次SLを撮る~」(2011年7月16日、NHK総合)- 語り

ラジオ

ドラマ

その他

CM

音楽CD

  • 吉永小百合ヒットソング(1962年)
  • 小百合ちゃんの夢のピアノ・アルバム(1965年)
  • 吉永小百合リサイタル〜詩人〜(1966年)
  • 吉永小百合ベストヒット 愛の世界(1967年)
  • 吉永小百合とともに(1967年)※ライブ・アルバム
  • ふるさとのおもちゃの唄(2007年)
  • 吉永小百合映画歌謡曲(日活編)(2008年)※日活映画に残した歌声を映画音源から収録(全67曲)。
  • 吉永小百合ベスト100~いつでも夢を、いつまでも夢を~(2012年)

NHK紅白歌合戦出場歴(歌手として)

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1962年(昭和37年)/第13回 寒い朝 12/25 坂本九
1963年(昭和38年)/第14回 2 伊豆の踊子 11/25 北原謙二
1964年(昭和39年)/第15回 3 瀬戸のうず潮 23/25 橋幸夫
1965年(昭和40年)/第16回 4 天満橋から 15/25 森繁久彌
1966年(昭和41年)/第17回 5 勇気あるもの 15/25 加山雄三
  • 第14回、第16回、第17回は吉永の歌の映像が現存する(第16回はカラー映像)。
  • 第13回、第15回は吉永の歌のラジオ中継の音声が現存する。

(注意点)

  • 対戦相手の歌手名の( )内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
  • 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。
  • 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

朗読CD

  • 第二楽章(1997年) - 広島の原爆詩を朗読
  • 第二楽章・長崎から(1999年)
  • 第二楽章・沖縄から「ウミガメと少年」(2006年) - 野坂昭如の戦争童話集を朗読
    • 『第二楽章 : ヒロシマの風』(男鹿和雄画、角川文庫、2000年)
    • 『第二楽章長崎から : 画文集』(男鹿和雄画、講談社、2000年)がある。

書籍

著書

  • 『夢の続き』(世界文化社、2007年)
  • 『Sayuri 吉永小百合アルバム』(マガジンハウス、2004年)
  • 『吉永小百合街ものがたり』(講談社、1999年 / 講談社+α文庫、2003年)
  • 『旅に夢みる』(講談社、2003年)※紀行エッセイ
  • 『夢一途』(主婦と生活社、1988年 / 集英社文庫、1993年)※自伝
    新版「人間の記録122」(日本図書センター、2000年)

共著

伝記ほか

脚注

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外部リンク

テンプレート:- テンプレート:日本レコード大賞受賞 テンプレート:FNS歌謡祭司会 テンプレート:日本アカデミー賞最優秀主演女優賞 テンプレート:キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞 テンプレート:ブルーリボン賞主演女優賞 テンプレート:毎日映画コンクール女優主演賞

テンプレート:毎日芸術賞
  1. asahi.com2011年7月31日
  2. 2.0 2.1 『女性自身』1981年5月14日・21日合併号。
  3. テンプレート:Cite journal
  4. テンプレート:Cite journal
  5. 5.0 5.1 テンプレート:Cite journal
  6. 6.0 6.1 テンプレート:Cite journal
  7. テンプレート:Cite journal
  8. 『あゝひめゆりの塔』DVD特典映像
  9. 1990年に出版された本において放送作家の永六輔は、「原爆は勿論、原発もいりません 吉永小百合」という署名を見て、ファンでよかったと嬉しく思ったと書いている。文藝春秋編『女優ベスト150 わが青春のアイドル』文春文庫、1990年、69頁。
  10. テンプレート:Cite web
  11. 『完璧版 テレビバラエティ大笑辞典』
  12. 吉永小百合『夢一途』(主婦と生活社
  13. この漢字で記されていました。
  14. 近代映画 近代映画社 1970年2月号 84頁。
  15. テンプレート:Cite web