台湾国民政府

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テンプレート:台湾の歴史 台湾国民政府(たいわんこくみんせいふ)は、1949年10月1日中華人民共和国成立によって崩壊状態に陥った南京国民政府を、蒋介石台湾に移転して再編成したことによって成立した中華民国政府を指す呼称である。正式な名称ではない。

この記事では、1945年10月25日から1996年3月23日までの、台湾における中国国民党について述べる。

変遷

大戦の終結と台湾の返還

1945年9月9日、中華民国政府は南京にて日本による降伏文書を受領[1]10月25日陳儀連合国代表者として台北市公会堂現在の台北中山堂)にて台湾総督安藤利吉からの降伏を受領した。同日、中華民国政府は台湾澎湖諸島に対する主権が回復されたことを宣布した[1]。これにより、中華民国は台湾における領土の主権を回復した[1]

しかし国民党政府は、台湾地元民の政治参加を拒否した。政治参加を拒否されたことに不満を持った民衆が、国民党政府と衝突した事件が、1947年二・二八事件である。

国共内戦と大陸反攻

二・二八事件が起こった1947年には、中国大陸で国共内戦が起こっていた。1949年になると、毛沢東率いる中国共産党軍が中華民国の首都・南京を制圧し、南京国民政府は崩壊状態に陥った。しかし、その際に南京国民政府の前総統蒋介石が崩壊状態にある南京国民政府を指導した為、国民政府は広州重慶成都を経た上で台湾に移転することに成功した。その後、蒋介石は南京国民政府を再組織した上で、翌1950年1月に総統職に復職し、台湾国民政府の活動が本格的に開始された。この過程で、台湾は全域が戒厳状態とされ(1948年の「動員戡乱時期臨時条款」)、台湾住民は国民党による政治的抑圧を1987年まで受け続けることとなった。

台湾国民政府は、中華人民共和国の成立を共産党の「反乱」と定義し、武力による大陸部の領土奪還(大陸反攻)を目指した。そのために蒋介石は政府の統治が及ぶ範囲で戒厳令を敷き、政府・中国国民党に反対する人々を投獄するなどの人権侵害を行なう一方で、国内の計画的な経済建設に着手して国力を蓄積していった。同時に、台湾国民政府は「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」としての国際的地位を主張し、中華人民共和国と「中国を統治する国家」という国際的地位を巡って対立し続けた。その際に、台湾国民政府と中華人民共和国政府は、「中国を統治する国家」としての観点から、相手国が支配している領土の領有権を互いに主張しあったため、両国の間では台湾海峡を挟んだ軍事的緊張が今なお続いている(台湾問題)。

蒋介石は、国際社会における「中国を統治する唯一の合法(正統)な国家」としての地位を維持することに腐心しており、大幅に譲歩をした上で日本国と中華民国の平和条約を締結する一方で、中華人民共和国と国交を締結した国とは即座に国交を断絶するという「漢賊不両立」の政策を採ってきた。だが、1971年国連総会で決議された2758号決議(「国府追放・北京政府招請」のアルバニア案が基)によって、国際連合での「中国」の代表権が中華民国から中華人民共和国へと移った。この事に伴い、日本国やアメリカ合衆国などは台湾国民政府に対し、「台湾」の名で国連に留まるよう説得したが、例に漏れず「漢賊不両立」の言い分の元に拒否し、台湾国民政府は国連から脱退する事を宣言した。その事から、台湾国民政府は「中国を統治する国家」として国際的に承認されなくなり、1972年9月の日中国交正常化に伴う日華平和条約の破棄によって、日本との外交関係を失うなど、国際的な孤立状況に次第に陥ることとなった。

また、蒋介石は「大陸反攻」と共に「反共」を国是とし、東アジアにおける「反共の砦」としての地位をアメリカに認めてもらうことで、台湾国民政府の「中国を統治する国家」としての存在を持続させようとした。だが、アメリカは「反共の砦」としての存在の重要性を認識して軍事・経済的支援は行なっていたものの、東アジアの地域情勢を混乱させる「大陸反攻」の実施には断じて反対していた。そのために、蒋介石は、「大陸反攻」を実施する好機をうかがっていたものの、国際環境の影響からそれを実施することなく1975年4月5日に死去した。

アジア四昇龍

蒋介石の死後、彼の長男である蒋経国総統の地位を世襲したが、台湾国民政府は1979年のアメリカとの外交関係の喪失によって一層国際的な孤立を深めていた。そのため、台湾国民政府は経済的な実利を得ることで国際的に生存していく道を選択し、日本やアメリカなどとの経済交易をさせることで外貨の獲得に力を入れるようになった。台湾が「アジア四昇龍」という新興経済国家に伸し上がった時期が、この蒋経国政権の時期である。

戒厳令解除と台湾総統選挙

一方、国内では国民党による一党独裁に対する反発が徐々に強まり、盟邦であるアメリカ合衆国ロナルド・レーガン政権からの圧力や、ソビエト連邦ミハイル・ゴルバチョフ政権の「ペレストロイカ」と呼ばれる緊張緩和政策の影響からテンプレート:要出典、1987年7月15日、戒厳令が解除された[2]。それに伴う動員戡乱時期臨時条款(国安法)の成立により、新党結成も解禁された[2]。その結果、国内は言論・結社・言語の自由が保障され、国民党以外の政党が合法的に誕生するようになった。

1988年の蒋経国の死後、副総統であった李登輝(後の中国国民党主席)が総統に就任し、台湾国民政府の民主化を本格的に推し進めていった。その帰結が1996年3月23日に実施された中華民国史上初めての国民の直接選挙による正副総統の選出である。これにより、中華民国の政府が「中国全土を統治する政府」から「実効支配地域を代表する政府」へと事実上変化し、同時に1928年から続いてきた国民党の一党独裁による国民政府が消滅した。これにより、台湾では複数政党による政治が確立し、台湾国民政府は台湾住民の民意に基づいた政府へと変化することとなる。

台湾国民政府への台湾住民の抵抗

二・二八事件事件を契機に台湾で行なわれていた恐怖政治南京国民政府統治時代参照)は台湾国民政府にも引き継がれ、外省人に圧迫された本省人による政治活動はなおも展開されていたものの、戒厳令下の台湾では知識人が投獄・暗殺される時代が続いた。例えば、元中華民国総統陳水扁は反政府的な政治活動を理由に6年間投獄されていたことがあり、陳の妻は政府の白色テロによって足の自由を奪われたと見られている。そのために、日本アメリカ合衆国中華人民共和国に逃れた活動家が多数いた。初期の活動家としては、日本で台湾共和国臨時政府を樹立した廖文毅が著名である。他には、日本へ移住した親日台湾独立運動家として、黄文雄金美齢史明がおり、日本人に対して台湾への支援を訴えている。

弾圧を受けた知識人層、活動家層の多くはアメリカへ逃亡し、ロサンゼルスを中心に独立運動を繰り広げ、アメリカ社会への啓蒙や、米政府へのロビイスト運動を続けた。一方で国民党もアメリカ工作を重視し、主要都市に出先機関を設け、同様の反独立運動を展開した。しかし、1984年に江南事件(米国籍の台湾人作家の暗殺事件)が起こると、アメリカ政府も国民党政府に対し民主化圧力を加え、国民党は野党の存在、総統民選を認めざるをえなくなる。

また、一方では国民党内部に入り込んで政府内からの改革を目指そうとした一派も存在し、かつて総統職を務めた李登輝はその代表格である。李登輝は蒋経国総統が急死すると、副総統職から代理総統職(後に正式な総統職に就任)へと昇格して政権を掌握し、国民党への忠実を装いながら徐々に政治の本省人化を進めていった。その結果が1996年3月23日総統選挙の実施であり、これは中華民国の政治が本省人を含む台湾住民の民意を反映する体制へと移行したことを意味していた。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite web

関連項目