台湾出兵

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 台湾出兵・牡丹社事件・征台の役・台湾事件
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台湾出兵
戦争:台湾出兵
年月日:1874年5月6日-6月
場所台湾南部
結果から日本への賠償金支払い。
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1868 パイワン人
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 25px 西郷従道
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 3,600人
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 戦死 6人
病死 531人
負傷 30人
戦死 30人
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台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への軍事出兵である。明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵である。牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)、台湾事件(たいわんじけん)とも呼ばれる。

経過と概要

原因・背景

琉球王国江戸時代には日本(薩摩藩)と中国大陸の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると、帰属をめぐる政治問題が起こっていた。

1871年(明治4年)10月、宮古島から首里年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日、遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年(明治5年)琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ

宮古島民台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。

ファイル:Japanese Ironclad warship Ryujo.jpg
初代龍驤は台湾出兵の旗艦であり副島種臣と大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。
ファイル:Mousyun.jpg
孟春(砲艦)は三本マスト・スクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドルと会談、内務卿大久保利通もルジャンドルの意見に注目し、ルジャンドルは顧問として外務省に雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島民台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任を回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府は国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年(明治7年)4月、参議大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]

明治六年政変における明治天皇の勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変で下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的に企画したのである。

台湾での戦闘

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガムJohn Bingham)などからは反対意見もあった。特に、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日、木戸は参議の辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

ファイル:Battle of Stonegate.jpg
水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

しかし、西郷従道は独断での出兵を強行し、長崎に待機していた征討軍約3,000名を出動させた。征討軍は、二個大隊であり、うち鎮台兵は一個大隊で残りは「植民兵」として薩摩など九州各地の士族で占領地永住を前提に募集・編成されたものであった[4]

5月2日には西郷の命を受けた谷干城赤松則良が率いる主力軍が、江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦3隻で長崎を出航すると政府もやむなくこれを追認した[注釈 2]。5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日、台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリアは猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。また、清国は日本の行動に抗議し、撤兵を要求した。

収拾への交渉

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは当初は日本の軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。大久保は、ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉し[5]、主たる交渉相手は総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][5]。それによれば、清が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、 遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)、戦費賠償金40万両[注釈 3]の計50万両を日本側に支払い、生蕃取締を保証するということになり、それと引き換えに、日本は1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。また、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった[1]

帰結

日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球にたいし清との冊封朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年(明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年(明治13年)の北京での交渉において、日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。琉球の帰属問題が日清間で最終的に解決するのは、日清戦争における日本の勝利を待たなければならなかった。

台湾出兵と熱帯病

被害

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状態に落ちた。

軍医部の対応

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医(大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からはだけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省からは外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部の前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[6]

脚注

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注釈

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参照

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参考文献

  • 原口清『日本近代国家の形成』岩波書店、1968年。ASIN B000JA626M
  • 遠山茂樹「征台の役」日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典第6巻 す-ち』河出書房新社、1979年11月。
  • 平尾道雄『子爵谷干城伝』象山社、1981年9月。ASIN B000J7V65M
  • 鈴木淳『日本の歴史20 維新の構想と展開』講談社、2002年7月。ISBN 4062689200
  • 毛利敏彦「台湾出兵」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459

関連文献

  • 劉傑/三谷博/揚大慶 編著『国境を超える歴史認識』 東京大学出版会 ISBN 4-13-023053-0
  • 安岡昭男『明治維新と領土問題』 教育社歴史新書「日本史144」
  • 吉村正彦「台湾出兵--明治海軍建設過程とのかかわりにおいて」防衛学研究24、2000年11月
  • 徳富猪一郎 『近世日本国民史 台湾役始末編』 第90巻 時事通信社 1961年
  • 平尾道雄 『子爵谷干城傳』  象山社 1935年(復刻版 1981年)

関連項目

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  • 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 毛利(2004)
  • 原口(1968)p.173
  • "A Yankee in Meiji Japan" The Crusading Journalist Edward H. House By James L. Huffman, p.94 (A yankee in Meiji Japan)
  • 鈴木(2002)p.140
  • 5.0 5.1 遠山(1979)p.113
  • 「明治7年の台湾出兵と宮内省差遣のドイツ人医師」(1984)佐久間温巳 日本医事新報 3130号(昭和59年4月21日)

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