南洋諸島

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南洋諸島(なんようしょとう)

  1. 日本の南に浮かぶ島嶼一般を指す漠然とした通称。南洋諸島#「諸島」と「群島」の違いにて説明。
  2. 第一次世界大戦後に大日本帝国が統治したミクロネシアの島々のこと。本項にて説明。

テンプレート:基礎情報 過去の国 南洋諸島(なんようしょとう)は、かつて大日本帝国国際連盟によって委任統治を託された西太平洋赤道付近に広がるミクロネシアの島々を指す。現在の北マリアナ諸島パラオマーシャル諸島ミクロネシア連邦に相当する地域である。

別名は南洋群島(なんようぐんとう)。当時の日本人は内南洋(うちなんよう)とも言った[1]

歴史

先史時代

この地域の考古学的研究はまだ発展途上であり、はっきりしたことはわかっていないが、文化的に見て、フィリピン周辺から直接パラオ、ヤップなどに植民したグループと、東ポリネシア方面からカロリン諸島に植民したグループがいたのではないかと推測されている。この地域の先住民の文化を最も強く特色づけているのは、シングル・アウトリガー・タイプの航海カヌーであり、彼らはこれを用いて広範な交流を行っていた。特にヤップ島はこれらの島々の中でも最も強力な権力を持ち、カロリン諸島の島々から定期的にヤップ島まで貢ぎ物を届ける航海が行われていた。ヤップ島の酋長の権力は現在も強く、カロリン諸島の島々に対しても一定の権威を保持している。

西洋諸国による植民地化

テンプレート:Main 17世紀初頭よりスペインはこの地一帯を植民地化し、フィリピンと共に「スペイン領東インド」を形成していた。同地のマリアナ諸島やカロリン諸島という地名は、それぞれマリアナ王妃カルロス2世国王に由来する。

19世紀末になりドイツも植民地経営に乗り出し、1885年にドイツはマーシャル諸島を占領した。そして、米西戦争で負けたスペインにスペイン領東インド(フィリピン、グアムを除く)の売却を持ちかけ、2500万ペセタで買い取った。ドイツはカイザー・ヴィルヘルムスラント(現在のパプアニューギニア北部)と合わせて、「ドイツ領ニューギニア」を成立させた。

やがて第一次世界大戦が始まると、日本が日英同盟に基づいて参戦し、赤道以北のドイツ領ニューギニアの各諸島を占領した。1918年にドイツは降伏し、第一次世界大戦は終結した。

日本の委任統治

第一次世界大戦での敗退によってドイツは海外植民地をすべて失い、連合国であった日本は1922年ヴェルサイユ条約によって赤道以北の旧ドイツ領ニューギニアの地域を委任統治することとなった(赤道以南の旧ドイツ領ニューギニアの地域はオーストラリアおよびニュージーランドが委任統治)。

日本は南洋諸島獲得後、開拓のため南洋庁を置き、国策会社南洋興発株式会社を設立して島々の開拓、産業の扶植を行った。南洋諸島では時差があり、東部標準時(ヤルートポナペ地区)が日本標準時+2時間、中部標準時(トラックサイパン地区)で日本標準時+1時間、西部標準時(ヤップパラオ地区)は日本標準時と同じであった。1937年2つに再編。

また、国際連盟脱退後はパラオマリアナ諸島トラック諸島海軍の停泊地として整備し、それらの島には軍人軍属、軍人軍属相手の商売を行う人々が移住した。また、新天地を求めて多くの日本人が移住し、その数は10万人に上った。日本人の子供たちのために学校が開かれ、現地人の子供にも日本語による初等教育を行った。1941年昭和16年)にはパラオ放送局が開局し、ラジオ放送が開始された。

第二次世界大戦

テンプレート:Main 第二次世界大戦太平洋戦争)においては南洋諸島も戦場となり、日本軍アメリカ海兵隊の間で熾烈な戦闘となり、多くの戦死者を出した。特に戦略上、最重要拠点の一つであったサイパン島での戦闘は凄惨を極め、在住日本人1万人が戦死もしくは自殺した。それでも守りきれず、サイパンはアメリカ軍に奪われた。サイパンは、その後日本本土を空襲する拠点となった。テニアン島原子爆弾を搭載した爆撃機の発進基地となった。1945年日本が降伏するが、それまでに南洋諸島のほぼ全域はアメリカに占領された。

アメリカの信託統治

テンプレート:Main 第二次世界大戦終結後、国際連合は旧委任統治領・南洋諸島をアメリカ合衆国を施政権者とする信託統治に付することになった。当初は太平洋諸島信託統治領全域をひとつの連邦国家として独立させる計画であった。

また、アメリカは終戦後すぐに、ビキニ環礁において史上4発目の原子爆弾を炸裂させ、この地を放射能で汚染した。その後、初めての水素爆弾実験場にも選ばれ、ビキニ周辺は幾度となく核兵器の実験場となった。実験に際して多くの住民がほかの島々へ強制移住させられた。

1980年代から各地で独立運動が起こり、対米交渉や住民投票を経て、軍事を除く自治権を獲得した。そして自由連合の名のもとにパラオマーシャル諸島ミクロネシア連邦1994年までに独立した。ただし、北マリアナ諸島は独立せず、アメリカとの交渉の結果、コモンウェルス規約を締結し、現在に至るまでアメリカのコモンウェルス (米国自治連邦区)となっている。なお、先の核実験の影響から、これらの国では核に対するアレルギーが、原爆の攻撃を直接受けた日本と同等、またはそれ以上とも言われており、南洋諸島では非核条約ラロトンガ条約が結ばれている。

人口

  • 総人口 129,104人(1939年12月末現在[2]

民族構成

日本人(台湾人・朝鮮人を含む)
領有当初は数十人しかいなかったが、1939年頃には7万人以上にも達し、原住民の島民の人口を超えつつあった。南洋興発が開発したサイパン支庁管内に至っては、島民人口約3千人に対し4万人以上が住んでおり、サイパン支庁管内の主要民族を構成していた。次に多いのがパラオ支庁管内であった。本籍別にみると沖縄県民が最も多かった。そのため当時の特産物の一つが泡盛であった。
島民
先住民族であるチャモロ人やカナカ人は「島民」というカテゴリに入れられた。委任統治という統治形態が採られていたので、朝鮮人や台湾人のように日本国籍は付与されなかった。
チャモロ人
南洋庁では、島民の中でチャモロ人を別格扱いにしていた。当時のチャモロ人は、洋風家屋に住み、常に洋服を着用し、ピアノを弾いたり、ダンス[3]を踊ったりするなど、日本人以上に西洋的な生活習慣を身に着けていた。スペイン語の影響を受けたチャモロ語を話し、教養水準も比較的高かったことから、歴代の植民地政府の補助要員を務める者もいた。主にマリアナ諸島に住んでいたが、ヤップ島にも住む者[4]がいた。
カナカ人
チャモロ人以外の島民を全て「カナカ人」と称していた。オセアニア諸民族の総称であるため「カナカ語」ともいうべき言語は存在せず、島によって別の言語が話されていた。衣服も腰蓑といった「南洋の情緒」を感じさせる服装であったが、歴代の植民地政府の指導もあり、次第に廃れつつあった。マリアナ諸島以外の地域に多く住んでいたが、マリアナ諸島のサイパン島にはカナカ人の一種族で、カロリン諸島から移住してきたカロリン人が住んでいた。
外国人
外国人の多くが宗教関係者や商人で、旧宗主国人のスペイン人やドイツ人が比較的多かった。後の宗主国人となるアメリカ人は、当時十人程度しかいなかった。

地方行政

支庁

南洋諸島を6つの地域に分け、そこに支庁を設けた、この地域区分は、戦後の太平洋諸島信託統治領の地区(District)にも概ね踏襲されている。

  • サイパン支庁
    • 後に北部支庁となる。
  • パラオ支庁
  • ヤップ支庁
    • 後に西部支庁となる。
  • トラック支庁
  • ポナペ支庁
  • ヤルート支庁
    • 後に東部支庁となる。

行政補助機関

日本人が多く住む地区については、「部落」が設けられた。部落の責任者として「総代」「副総代」を置き、諮問機関として「部落協議会」が設けられた。部落が設置されていた所は下記の通りである(1939年時点)。

パラオ支庁管内
  • コロール町(コロール島)
サイパン支庁管内
  • ガラパン町
  • チャランカ町
  • 北村
  • 南村
  • 東村(以上サイパン島)
  • テニアン町(テニアン島)
トラック支庁管内
  • 夏島町(トノアス島)
ポナペ支庁管内
  • コロニア町(ポナペ島)

一方、日本人の部落とは別に、島民による「村吏」がいた。チャモロ人については「区長」と「助役」が、カナカ人には「総村長」と「村長」が置かれた。チャモロ人とカナカ人の村吏が別になっているのは、酋長制度の有無によるもので、酋長制度がないチャモロ人については住民の推薦により、カナカ人の場合は「大酋長」を総村長、その他の酋長を村長に任命した。

司法

南洋諸島の裁判制度は二審制が採られていた。第一審裁判所は「地方法院」といい、パラオ、サイパン、ポナペに置かれ、第二審裁判所の「高等法院」はパラオに置かれていた。また支庁長には軽微な刑事事件の即決権が与えられていた。

「南洋群島裁判事務取扱令」により、南洋諸島には刑法民法等の日本の諸法令を適用していたが、一部の事項については特例を設けていた。

司法上の特例
  • 予審は行わない。
  • 除斥忌避回避の規定を適用しない。
  • 島民のみが関係する民事事件は旧慣に基づいて処理する。
  • 土地に関する権利義務については、旧慣に基づき、登記もしない。
  • 公共機関以外の者が島民所有の土地に関する契約をする際には南洋庁長官の許可を要する。
  • 島民が行う訴訟手続きについては、法院が別途定める手続きによる。
  • 一年未満の自由刑懲役禁錮拘留)に処せられた島民については、労役での代用可。
  • 島民による姦通罪告訴には、離婚を要件としない。

犯罪

元々住んでいた島民が純朴であったこと、また南洋群島在留者取締規則により不良日本人・外国人の居住を禁止していたことから、犯罪は少なかった。犯罪件数で一番多かったのが、南洋諸島特有の法令である南洋群島酒類取締規則違反事件で、一時期は全犯罪の70%以上に達していた。それ以外の犯罪で一番多かったのが窃盗であった。凶悪犯罪もほとんど無く、1939年(昭和14年)までに死刑判決を受けた犯罪者は一人もいなかったという。

高等警察特別高等警察の取締対象となる犯罪もほとんどなかった[5]

受刑者の絶対数が少なかったため、支庁に付設された未決囚用の留置場刑務所代わりに使っていたが、サイパンに本格的な刑務所[6]が完成し、これらの受刑者が移監された。

衛生

南洋諸島の風土病としてアメーバ赤痢デング熱フランベジアなどがあった。南洋庁では各地に公営の病院(「医院」と称した)を設けて診療に当たらせた。また民間でも、南洋興発が各農場に診療所を開設して従業員の診療を行っていた。

島民の一部には近代医療を拒否したり(モデクゲイを参照)、便所を作らないで近所の森や砂浜に排泄する習慣があったため、講話や映画によって衛生思想の普及を図ったり、共同便所の設置や汚物清掃などの事業を行っていた。

租税

南洋庁は、租税として「人頭税」「関税」「出港税」「鉱区税」の四種類の税を定めていた(1932年時点)。徴税手続については当時の国税徴収法に準じて、「南洋群島租税其他の公課徴収規則」を定めて執行した。

人頭税

ドイツ統治時代に由来を発する税で、16歳以上の男子に課せられた税である。ただし島民とそれ以外の者とで税額や徴収方法に区別を設けていた。

島民の人頭税
年額10円以内とし、各集落ごとに酋長の意見を聞いて税額を定めた。原則として均一税額であったが、多額の資産を持つ者については別途40円まで賦課できた。また16歳未満の児童を5人以上扶養する者(資産家は除く)や障害者などについては免除された。特例として、ヤルート支庁管内では酋長が全住民を代表して納税することにし、金納ではなくコプラで納めた。
島民以外の人頭税
収入に応じて、2~50円を賦課した。また宗教関係者や貧困者、一時滞在者や6ヶ月未満の在住者については免除された。
関税

南洋諸島を一つの関税地域とし、南洋諸島外(内地も含む)から輸入したり、南洋諸島外に輸出する物品に、価格(一部の物品については重量)に応じて賦課した。

出港税

当時の日本では、酒類砂糖については、それぞれ酒造税砂糖消費税という間接税が課せられていた。そこで南洋庁では、酒類や砂糖を内地に持ち出す際に、予めこれらの税と同額の税を課した。一旦、出港税を課した物品については、内地で再度課税されることはない。

鉱区税

1年ごとに鉱区1000坪あたり1円を賦課した。

教育

日本人児童と島民児童の教育を完全に分離し、前者には内地と同様の教育機関を設けた。日本人児童は修業年限や教科課程の面で、内地と何ら変わらない教育を受けることができた。

一方、島民児童には、本科3年制の「公学校」が設けられた。修身国語日本語)の習熟に重きが置かれた教育で、優秀な児童には更に2年制の補習科に進学した。1926年(大正15年)には、更なる進学先として「木工徒弟養成所」を設立し、島民技術者の養成に当たった。

宗教

元来、島民は伝統的なアニミズム信仰を持っていたが、スペインによる植民地化に伴ってキリスト教が広く普及し、この頃には完全に定着していた。旧宗主国人であるスペイン人の聖職者がバチカンから派遣され、島民の教化に務めた。またパラオではモデクゲイという土着の新宗教が誕生し、信者を増やしつつあった。

在留日本人の増加に伴い、新たに仏教寺院が進出してきた。しかしその寺の多くが、日本人が多いパラオ支庁やサイパン支庁の管轄区域に偏在していた。海外布教に熱心な天理教はパラオを拠点に置き、島民を対象とした布教活動をしていた。

神社も在留日本人の増加に連動して各地に創建された。有志による創建のため、その多くが無格社であったが、1940年(昭和15年)に南洋群島総鎮守として官幣大社の南洋神社が創建された。

管内神社一覧

パラオ支庁管内
サイパン支庁管内
  • 八幡神社
  • 南興神社
  • 南陽神社
  • 彩帆神社
  • カラベラ神社
  • 天仁安神社
  • 住吉神社
  • 和泉神社
  • 橘神社
  • 日之出神社
  • 羅宗神社
  • ロタ神社
  • 大山祇神社
ヤップ支庁管内
  • 弥津府神社
  • フハエス神社
トラック支庁管内
  • 都洛神社
ポナペ支庁管内
  • 照南神社
  • 春来神社
  • 明治神社
ヤルート支庁管内
  • マーシャル神社

経済

スペイン・ドイツ統治時代まで、特にこれといった産業はほとんど無かった。ところが日本の統治になり、様々な産業の振興に努めた結果、南洋諸島はかつてない経済成長を遂げることに成功した。特に南洋興発が興した製糖業は大成功を収め、これによって南洋庁は財政的に自立できるようになった。

農業
南洋興発によるサトウキビ栽培が最も大きな産業であった。当時のサイパン島の植生は現在とは異なり、南大東島のように平地のほとんどがサトウキビ畑で占められていた。その他、パイナップルコーヒー豆の栽培も行われた。また島民は自己消費のためにタロイモなどを栽培していた。
畜産業
牧草がよく繁茂することから、畜産業も盛んであった。ブタは諸島全域で飼育されていたが、ウシはサイパン支庁管内、ヤギはパラオ・トラック・ポナペ各支庁管内で飼育されているなど地域差があった。
漁業
辺り一帯はカツオが一年中生息しているため、日本の漁師がはるばる遠洋漁業をしに来訪してきた。やがて、このカツオを原料とした鰹節の生産が現地で始まり、「南洋節」の名で大いに市場を拡大した。
林業
南洋諸島ではヤシが多く生育しており、胚乳を乾燥させたコプラはこの地域の主要な特産物であり、島民の貴重な収入源になった。その反面、木材に使えるような樹木はほとんどなかった。
鉱業
リン鉱石鉱床が南洋諸島各地に存在しており、アンガウル島ではドイツ統治時代より採掘が行われた。またアルミニウムの原料となるボーキサイトの鉱床も存在していた。
商業
南洋庁の統治開始により、日本人商人が南洋諸島に多数移住した。彼らの多くはサイパン支庁やパラオ支庁管内に居を構え、日本人街を構成した。またコプラの仲買のためにその他の地域にも進出する商人もいた。
工業
南洋興発の製糖工場が特に有名であるが、他にも鰹節製造工場や泡盛の酒造所が存在していた。パラオではパイナップル缶詰の製造工場などがあった。
金融業
従来は郵便局があるのみで、民間の金融といえば無尽講しかなかった。昭和に入り、ようやく信用組合が設立されるようになった。そして1936年(昭和11年)に設立された特殊法人南洋拓殖は金融業も事業として認められ、南洋諸島唯一の日本銀行代理店でもあった。

交通

大日本航空による航空路線も整備されつつあったが、一般的には海路が利用された。海路には大きく3種に分けることができる。

内地群島間航路 - 日本郵船が担当
  • 西廻線
  • 東廻線
  • サイパン線
群島内離島間航路 - 南洋汽船南洋貿易が担当
  • マリアナ群島線
  • ヤップ・パラオ離島線
  • ポナペ離島線
  • マーシャル群島線
環礁内航路 - 運送組合・個人が担当(南洋庁が補助金を支給し維持)
  • パラオ各線
  • トラック各線
  • ポナペ各線
  • ヤップ各線

「諸島」と「群島」の違い

明治時代、「南洋諸島」と「南洋群島」の定義と区別は、必ずしも明確でなかった。ただ漠然と日本の南の海に浮かぶ島々という意味で使われており、その範囲もオセアニア大スンダ列島を包括するかなり広大な地域の呼称であった。1893年に鈴木経勲が著した『南洋風物誌』には、「南洋諸島」と「南洋群島」の両方の用語が使われ、特に区別はしてなかった。

大正時代になると、その定義に差異が生じ始めた。第一次世界大戦で、日本海軍は独領ニューギニアの島嶼部(ミクロネシア)を占領し、その地域を「南洋群島」と称した。1年後、吉野作造が著した『現代双書 南洋』(1915年刊)では、「赤道以北の独領南洋諸島を、単に南洋群島と云う」と定義し、「南洋群島」は「独領南洋諸島」のみを意味する用語という認識が定着し始めた。

その後、ヴェルサイユ条約で旧「独領南洋諸島」地域の委任統治が認められたとき、当局はこの地域を「南洋群島」と正式に命名し、施政に当たることになった[7]

よって、日本の旧委任統治地域の正式呼称については「南洋群島」を、漠然とした南の島々については「南洋諸島」と区別するのが適当といえる。

脚注

  1. ちなみに外南洋は、内南洋以外のミクロネシア、メラネシア東南アジアの島嶼部を指す。
  2. 『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』
  3. 現在、観光客向けに披露する「チャモロ・ダンス」ではなく、純然たる西洋式ダンスのことである。
  4. 戦後、彼らは日本人が引き揚げて無人島化していたテニアン島に移り住むようになった。
  5. 南洋興発に対する小作争議が数件あったくらいで、島民による独立運動もなかった。
  6. ガラパンにある「日本刑務所跡(Old Japanese Jail)」と呼ばれる遺構のことである。
  7. 「南洋群島酒類取締規則」のように、この地域に関する諸法令は一貫して「南洋群島」と称し、「南洋諸島」の用語が用いられることはなかった。

参考文献

  • 南洋庁長官官房編『南洋庁施政十年史』南洋庁、1932年
  • 大宜味朝徳『南洋群島案内』海外研究所、1939年
  • 太平洋学会編『太平洋諸島百科事典』原書房、1989年

関連項目

外部リンク

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