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'''千少庵'''(せんのしょうあん、せんしょうあん、[[天文 (元号)|天文]]15年([[1546年]]) - [[慶長]]19年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]([[1614年]][[10月10日]]))は[[茶道|茶人]]。[[千利休]]の養子にして女婿。[[千宗旦]]の父。実父は能楽師の宮王三郎三入とされるが、近年[[松永久秀]]説も再浮上している。 母[[宗恩]]が利休の後妻に入ったため、利休の養子となった。義兄の[[千道安|道安]]とは同い年にあたる。先天的に片足に障害を持っており、相続関係の資料から千家内での立場が弱かった事実も確認されている。妻は利休の娘お亀(おちょうとも)で、二人の間には嗣子宗旦が生まれている。 利休切腹後は[[会津]]の[[蒲生氏郷]]のもとに蟄居を命じられた。なお、現在[[福島県]][[会津若松市]]の[[若松城]](鶴ヶ城)内には、少庵が造らせたと伝えられる茶室「麟閣」が残されている。 [[文禄]]3年([[1594年]])、[[徳川家康]]・蒲生氏郷のとりなしで赦されて京に戻り、千家([[京千家]])を興し、息子宗旦を[[還俗]]させた。早くに隠居し、宗旦の後見に徹したといわれている。 [[category:茶人|せんのしようあん]] [[Category:1546年生|せんのしようあん]] [[Category:1614年没|せんのしようあん]] [[Category:千家|しようあん]]
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