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[[ファイル:Meguro City Office.jpg|thumb|250px|千代田生命保険本社屋(現・[[目黒区]]総合庁舎)]] '''千代田生命保険相互会社'''(ちよだせいめいほけん)は、かつて存在した日本の[[生命保険]]会社。2000年に経営破綻し、2001年に<!--[[アメリカ合衆国|米国]]大手金融グループである[[AIG]]に買収され、-->[[AIGスター生命保険|AIGスター生命保険株式会社]]へ包括移転されたが、その後[[プルデンシャル・ファイナンシャル]]が買収した事に伴い2012年1月に[[ジブラルタ生命保険]]へ吸収合併され、同社に承継されている。 == 概要 == [[福澤諭吉|福沢諭吉]]門下の[[門野幾之進]](初代[[社長]])が中心となって[[1904年]][[4月]]に日本初の英米[[相互組織]]として設立された。戦前は五大生命保険会社([[明治安田生命保険|明治生命]]、[[朝日生命保険|帝国生命]]、[[日本生命保険|日本生命]]、[[第一生命保険|第一生命]]、千代田生命の各社)の一角を占めた。第二次世界大戦後の[[1948年]](昭和23年)には業界初の「団体[[定期保険]]」、[[1950年]]には「団体[[年金保険]]」、[[1961年]]にも業界初の「[[団体信用生命保険]]」を発売。業界の先駆的役割を担い、生保大手8社の一角を占めた。[[1973年]]に海外3大保険グループと業務提携し国際化を目指す一方、[[1975年]]後半には事業の拡大を推進し、[[住宅ローン]]や増改築ローンの新商品を加えた。 [[あいおいニッセイ同和損害保険|千代田火災海上保険]]・[[東海銀行]]・[[トーメン]]等と[[東海銀行|さつき会]]のメンバーであったほか、親密先企業(融資関係)として[[三越]]・[[あさひ銀行]]・[[フジタ]]等があった。直接の財閥色は無かったが、千代田火災との関係から[[大倉財閥]]に近かったとされる。 折からの[[バブル景気|バブル経済]]のもと、[[不動産]]関連や[[株式]]投資への融資を積極的に進め業容は拡大。ピーク時の[[1992年]](平成4年)3月期は年間収入1兆4991億円をあげるとともに総保有契約高60兆円を突破。しかしバブル期の積極経営が災いし、[[バブル崩壊]]後は不動産向け融資の[[不良債権]]化や株式担保融資の担保割れなどが発生し、不良債権額が毎期ごと増大、特に「[[ホテルニュージャパン]]」の火災では融資先の一社として有名になった。一方、景気低迷と低金利政策の下で予定利率を運用利回りが下回る「逆ザヤ」現象が続き、株価下落等による信用不安が増大した。 [[1999年]](平成11年)には経営革新計画を作成、早期退職制度を中心に人員の合理化や、事業所の統廃合を行っていた。しかし、契約者の解約は続き、メーンバンクの東海銀行に1000億円の資本支援を要請するとともに[[ドイツ]]の大手生保・[[アリアンツ]]へ経営参加を中心とした経営支援を要請していたが、数回におよぶ交渉も前進を見ず自主再建を断念し、[[2000年]][[10月8日]]に[[更生特例法]]の適用を申請し経営破綻(従業員1万3013名)。生命保険会社としては[[金融機関等の更生手続の特例等に関する法律]](金融版会社更生法)申立の第1号。負債は保険契約に基づく準備金が約2兆6413億円、同準備金以外の債務が約2953億円の合計約2兆9366億円。 創業者を始め[[慶應義塾]]出身者が多く、[[三越]]、[[クラシエホールディングス|カネボウ]]と共に「[[学閥|慶應閥]]」で著名であった。なお破綻時の代表取締役社長だった米山令二も慶應義塾大学の出身であった。 本社ビルは[[村野藤吾]]設計により[[東京都]][[目黒区]][[中目黒]]の[[アメリカンスクール]]跡地に[[1966年]]に建てられた。経営破綻後は目黒区に売却され、現在は内装等を大きく改装し、[[目黒区役所]](目黒区総合庁舎)となっている。 当社を承継した[[AIGスター生命]]の本社は、当初[[晴海トリトンスクエア]]に置かれたが、2007年に[[AIGエジソン生命]]と共に[[墨田区]]の[[オリナス]]タワーへ移転。その後、2012年1月にエジソン生命と共に[[ジブラルタ生命保険]]へ吸収合併され法人格が消滅した。 == 創業者 == 創業者である門野幾之進は安政3年([[1856年]])[[鳥羽藩]]家老の家に生まれ、14歳で慶應義塾に入塾し福沢諭吉に師事。入塾2年後には16歳で教鞭をとり、以来31年にわたり多くの人材を世に送り出した。その後、参加していた交詢社で、師と仰いでいた福沢諭吉が紹介した“人の生涯を請け負う仕事”というものに興味をひかれ、これこそ世の中に有益な事業であると考え、千代田生命保険相互会社を創立し実業家としても活躍した。他にも共同保険、海上海運保険、豊国銀行の経営に携わり、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]としても活躍し、郷土(三重県鳥羽市)の教育振興に尽くした。 また、慶應義塾の教頭も務めるなど、実業家でもありかつ教育者でもあった。[[1983年]](昭和58年)世界の保険関係者にとって最高の栄誉といわれるアメリカ、[[オハイオ州]]の「保険殿堂」入りをはたす。<!--日本の近代生命保険業の創業者としては門野幾之進のほかに明治生命(現[[明治安田生命保険|明治安田生命]])の阿部泰蔵、[[日本生命保険|日本生命]]の片岡直温、[[第一生命保険|第一生命]]の矢野恒太、らが有名。--> == 備考 == *[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]][[桜木町]]にあった千代田生命横浜ビルは、[[あぶない刑事]]の3代目「港署」の外観として使用された。 *[[仙台市]][[泉区 (仙台市)|泉区]]にある[[ヒューモススウィング]]は、かつて千代田生命所有で、「千代田生命泉中央駅ビル・SWING」だった。破綻後に所有者が移行した際にも「スウィング」の名称はそのまま新たなビル名に引き継いでいる。 == 関連項目 == *[[プルデンシャル・ファイナンシャル]] **[[AIGスター生命保険]] - 当社の後身(承継会社) **[[AIGエジソン生命保険]] - AIG傘下時代にスター生命と合併計画があったがAIGの経営悪化により白紙化された。 *[[プルデンシャルタワー]] - 当社が開発に着手していたが、破綻後にスポンサーのAIGから切り離され[[プルデンシャル生命保険]]へ売却。 *[[AIG|アメリカン・インターナショナル・グループ]] - 当社の再建スポンサー、AIGスター生命を2001年に設立。2011年2月に同社をプルデンシャル・フィナンシャルへ売却した。 *[[あいおいニッセイ同和損害保険|千代田火災海上保険]] *[[東海銀行]] *[[ホテルニュージャパン]] - プルデンシャルタワーの前身。火災で全焼後、抵当権行使により当社が保有していた。 *[[高杉良]] - 当社の破綻を「反乱する管理職」で書いた。 *[[ちえのわクラブ]] - [[1955年]]から[[1962年]]まで[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|ラジオ東京→TBSラジオ(現:TBSラジオ&コミュニケーションズ)]]で放送された児童向け[[一社提供]]番組。継続中に[[TBSテレビ|ラジオ東京テレビ→TBSテレビ]]でも放送された。 *[[千代太郎こども劇場|ちよ太郎こども劇場]] - TBSテレビで放送された児童向け一社提供番組。 == 外部リンク == * [http://www.gib-life.co.jp/st/keiyaku/s/keiyaku/k_joken/index.html 旧千代田生命よりご契約移転の皆さまへ|ジブラルタ生命保険] *[http://www.aigstar-life.co.jp/ AIGスター生命] {{デフォルトソート:ちよたせいめいほけん}} [[Category:MS&ADインシュアランスグループ|歴]] [[Category:東海銀グループ]] [[Category:かつての相互会社]] [[Category:かつて存在した日本の保険会社]] [[Category:かつて存在した東京都の企業]] [[Category:2000年の日本]]
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