十三湊

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十三湊(とさみなと)は日本の中世から近世にかけて、青森県五所川原市十三湖の辺りにあったである。近世以降、「じゅうさんみなと」と呼ばれるようになる。また、十三湊の遺跡である「十三湊遺跡」は2005年(平成17年)7月に国の史跡に指定されている[1]。本項ではこの遺跡についても述べる。

歴史

天然の良港のため、鎌倉時代後期には豪族安東氏の本拠地として北海道アイヌ和人との間の重要交易拠点であった。また、『廻船式目』では三津七湊の1つに数えられる、当時の博多湊に並び称される港湾都市であった。その後、朝鮮半島中国などと貿易が行われていたことは、国立歴史民俗博物館富山大学、青森県教育委員会市浦村教育委員会、中央大学などによる十三湊遺跡の発掘調査によって明らかになりつつある[注 1]。遺跡は東西に延びる土塁を境に、北側には安東氏や家臣たちの館、南側には町屋が整然と配置されていた。主に出土品の分類などから現在では3つの地区に分けられており、荷揚げ場跡や丸太材、船着場と思われる礫層などが出てきた北部が「港湾施設地区」、出土量が多く中心地と思われる中部が「町屋・武家屋敷・領主館地区」、南部が「檀林寺跡地区」とされる。南部には奥州藤原氏藤原秀栄建立の檀林寺があることから、平泉との交流もうかがえる[2]

室町時代中期、安東氏が南部氏によって追われると急速に衰微し、北方との交易地の地位は、野辺地湊(現在の上北郡野辺地町)や大浜(現在の青森市油川)に奪われた。その後、時代が下るにつれ飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していった。しかし16世紀後半から再び機能整備が図られ[注 1]、江戸時代には岩木川を下って来た米を鯵ヶ沢湊(現在の西津軽郡鰺ヶ沢町)へと中継する「十三小廻し」が行われた。また、北前船のルート上にあって、深浦湊(現在の西津軽郡深浦町)、鯵ヶ沢湊、三厩湊(現在の東津軽郡外ヶ浜町)、青森湊などと共に弘前藩の重要港湾であり、上方から蝦夷地へ向かう船の寄港地として、米や木材の積み出しなどでも栄えた。

周辺の遺跡・遺構との関係

十三湊は十三湖西側の日本海と湖に挟まれたやり状の砂嘴にあった[3]。現在では青森県道12号鰺ケ沢蟹田線が通る十三湖大橋南部に位置し、五所川原市十三地区にあたる[2]

水戸口(船の出入口)は現在では十三地区北部(十三湖大橋下の日本海側)にあるが、中世期には十三湊より南西方の明神沼南端に位置していたとされる。沼南端付近の丘陵に湊明神宮があるが、この地は中世期における「浜の明神」跡と伝えられており、浜の明神は航海における守護神であると共に灯台の役目も果たしていたと考えられている。なお、現在の水戸口から十三湊遺跡の西側および南西方の湊明神宮に向かって3つ並ぶ「前潟」、「セバト沼」、「明神沼」は旧水戸口の水路跡との見方がされている[2]

十三湊より北東方に2〜3km程離れた位置にある山王坊遺跡(山王坊日吉神社付近の神仏習合遺跡)や福島城跡は十三湊を本拠地とした安東氏との関連が指摘されている。特に福島城については同氏の居城であったとの見方もされている[2][4][5](「十三湖#神社仏閣・城跡・遺跡」も参照)。

脚注

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注釈

  1. 1.0 1.1 13世紀初頭に自然発生的に成立し、14世紀に拡充され、同世紀末から15世紀前半にかけて最盛期を迎えたと推定されている。(村井ほか『北の環日本海世界』、2002年)

出典

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参考文献

関連項目

外部リンク

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  1. 十三湊遺跡(文化遺産データベース)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 テンプレート:PDF(石山晃子、一般財団法人 みなと総合研究財団)
  3. 中世十三湊の歴史と安東水軍(五所川原観光情報局)
  4. 中世・十三湊 〈五所川原市〉(奥津軽の旅案内)
  5. 朝もやの中で眠る遺跡(青森の魅力 2011年1月17日)