北都交通 (北海道)

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テンプレート:Infobox テンプレート:ウィキプロジェクトリンク テンプレート:ウィキポータルリンク 北都交通株式会社(ほくとこうつう)は、北海道札幌市に本社を置きハイヤー事業やバス事業などを行う企業である。

概要

北都タクシー設立

戦後、各種統制が徐々に解除される中でバス事業やタクシー事業においても新規会社が設立された。発起人を始めとした会社設立を目指す有志は1949年(昭和24年)12月24日に一般貸切旅客自動車運送事業の免許を申請。翌1950年(昭和25年)4月19日付で免許が下り、同年7月3日に資本金500万円で株式会社北都タクシーを設立登記、同月12日に営業運転を開始した。申請台数は7台であったが、実際に走ることができたのは電気自動車4台とフォードの中古ガソリン車1台の5台であった。本社および車庫は札幌駅北側に置かれたが、ガソリンは統制未解除により入手が難しく、電気自動車の充電スタンドは薄野にあるため営業開始前に出向かねばならず、1度の充電に何時間もかかり40 km程度しか走行できないため、極めて非能率的な状態での営業であった。なお、同年12月1日に商号を北都ハイヤー株式会社に改称している[1][2]

1951年(昭和26年)になり、燃料事情好転の兆しが見えていたことから2月6日付で1台増車の認可を受け、非効率であった電気自動車を廃して新たに国産自動車「オータ号」に切り替えた。当時は札幌駅や苗穂駅での駅待ち体制が一般的であり、大雪などで市電がストップする中でも運行できたため、ここに来てようやく一般に認知されるようになっていった。なお、同年6月1日に新たな道路運送法が公布され、従来の一般貸切旅客自動車運送事業は乗車定員11名以上の大型車が対象となり、10名以下のハイヤー・タクシーは一般乗用旅客自動車運送事業に分離された。これにより一般乗用旅客自動車運送事業の免許に変更、同年7月1日から施行された[3]

しかし経営基盤は盤石ではなく、現金収入は毎日あるものの月末の集計では常に赤字を計上するような状態であった。加えて、取締役の一人が以前勤務していた会社での問題が発端となり、乗っ取り工作を仕掛けられるなど紛争に巻き込まれた。防戦の結果同年末までに解決をみたものの、倒産寸前の状態まで追い込まれた。1952年(昭和27年)に役員を降格させ新体制で再出発。同年11月に資本金を倍増させ、同年12月には薄野地区の南4条西6丁目に営業所を設置し飲食店利用者をターゲットとするなどの営業活動を行った結果、同年末までに債務の解消を果たした。その後も朝鮮特需などによりハイヤー需要は上向きとなり、1953年(昭和28年)後半には台数15台、従業員数25人程度に成長した[4]

昭和30年代の北都ハイヤー

1956年(昭和31年)10月に本社営業所を移転し、旧本社営業所を営業所に変更。1957年(昭和32年)7月には西営業所を開設し30台に増車された。同年9月1日よりタクシーメーターが導入され区間制から距離制に変更されるなど、事業拡大・近代化が図られた。一方で運賃が高いとの批判が根強く、同年4月26日と1958年(昭和33年)7月からの北海道大博覧会開催を前にした5月29日の2度に渡って運賃の引き下げが行われた[5]

1960年(昭和35年)4月1日からは札幌乗用自動車協会を中心とした共通タクシーチケットの取扱を開始した。それまでは各社独自にチケットを発行していたが、後払いであるが故に集金に訪れた社員に代金を支払わないといった乗客もおり業績に影響を及ぼすほどであった。これが協会が中心となって集金等を行うようになり不払いが解消されたことから利益率が大幅にアップしている[6]

1961年(昭和36年)4月21日、労働時間を8時間2交替とする勤務体制を導入した。24時間拘束が当たり前であった当時としては画期的なことで、拘束時間が長いことによる事故発生率の高さや健康問題に配慮したものである。この勤務体制導入に際しては北都ハイヤーは潰れると陰口を叩く者もいたが、1台あたりの収益率は低下したものの、人件費が大幅に圧縮できたことから乗務員1人当たりの売上としては向上し、労使ともにメリットが大きく経営基盤の向上に大きく寄与した[7]

航空会社と提携、北都航空バス設立

1954年(昭和29年)8月10日、日本ヘリコプター輸送(日ペリ航空)が東京 - 三沢 - 千歳に定期航路を就航させた。当時日ペリ航空の札幌地区総代理店であった日通航空は顧客先として関係が深かったこともあり、日通航空と提携して札幌市内と千歳空港間で日ペリ航空利用者専用ハイヤーを走らせた。これが現在の新千歳空港連絡バスの原点である。就航当初は乗客定員が14名のデ・ハビランド ヘロン型機であったため地上輸送はハイヤー数台で間に合っていたが、1955年(昭和30年)にはDC-3型機になり地上輸送も大型化が迫られたことから、日ペリ航空が所有する白ナンバーのバスを北都ハイヤーの乗務員が運行する形態に変更された。側面に日ペリ航空と大書され、飛行機に関連したイラストが描かれた車両が地上輸送にあたった[8]

1957年(昭和32年)12月に日ペリ航空は全日本空輸 (ANA)となり、1959年(昭和34年)にはコンベア440を投入するなど機材の更なる大型化を行った。今後も航空需要の増大が予測されたため、ANAとの提携を強化し地上輸送の増加に対応できる体制を整えるため、新たなバス会社の設立を計画。同年6月10日に子会社として北都航空バス株式会社を資本金500万円で設立登記し、同年7月25日よりANA旅客の地上輸送を引き継ぎ営業開始した。特定旅客自動車運送事業の免許を受け、本社は北都ハイヤー本社に併設して置かれた[9]

ANAは1960年(昭和35年)8月1日よりバイカウント744型機を、翌1961年(昭和36年)7月17日より同828型機を就航させた。これによる地上輸送の増加に対応するため、1960年(昭和35年)7月に資本金を倍増させ、同年10月に営業所を設置、同年11月より増車して対応した。この頃から貸切バス事業にも着目し、1961年(昭和36年)5月1日に一般貸切旅客自動車運送事業免許を取得。事業区域は札幌市、千歳市、千歳郡で、ANA旅客の地上輸送も同免許に切り替えられ運行された。また同日に商号を北都バス株式会社に変更している[10]

低迷する北都バス 北都ハイヤーと合併へ

1962年(昭和37年)2月に北都バス本社を北30条に移転し旧営業所を廃止。車庫は北都ハイヤーと同居していたがすべて本社に集約された。1964年(昭和39年)7月22日には一般乗合旅客自動車運送事業免許を取得し、ANA旅客の地上輸送は同年11月21日より路線バス事業に切り替えられた[11]

貸切バス事業は現在は旅行代理店を通すのが主流であるが、当時の北都バスでは直接予約を受け付ける直扱いが多数であった。直扱いばかりでは収支の改善は難しく、慢性的な赤字を抱える状態となっていた。ANA旅客地上輸送に関しては比較的安定していたものの、1966年(昭和41年)は日本国内で航空事故が5件発生し航空旅客の低下を招いた。中でも全日空羽田沖墜落事故全日空松山沖墜落事故の2件の事故を起こしたANAに対する風当たりは強く、特に2月4日に発生した前者は千歳空港便であることから地上輸送でも低迷を極めることになった。不安定なバス事業を継続するために採られた方策は、黒字経営であった北都ハイヤーとの合併であった[12][13]

同年5月27日には北都ハイヤー、翌5月28日には北都バスの株主総会にて合併が決議された。この合併に際しては赤字会社が黒字会社を吸収した方が税法上メリットがあるとのアドバイスから、北都バスを存続会社とし北都ハイヤーを吸収する合併が行われることになった。決議に基づいて合併準備を進めた結果、同年11月28日に合併新会社が成立。同年12月1日に商号を北都交通株式会社に変更し登記を完了。翌1967年(昭和42年)2月8日に陸運局から合併の認可が下り、同月14日をもって合併に伴うすべての手続きが完了した[14]

北都交通発足、事業拡大

資本金3,900万円、従業員数約230名、ハイヤー69台、バス20台と事業規模を拡大した北都交通では、業務の運営はハイヤーとバスの事業部制を採用し、呼称は従来通り「北都ハイヤー」「北都バス」とすることになった。合併前の北都バスでは1,500万円の資本金に対し2,600万円の負債を抱えており3年で解消させる計画であったが、ANAがボーイング727型機を投入するなど事故によるイメージ悪化払拭に全力を挙げたところ客足が戻り、地上輸送も安定を見せた。合わせて社内体制の合理化を徹底的に進めるなど体制の見直しを行った結果、赤字を1年で解消するに至った[15]

ハイヤー事業部

1970年(昭和45年)の創業20周年には、記念事業として1億円の巨費を投じて琴似町八軒(現・ダイイチ八軒店敷地)にハイヤー営業所を開設した。それまでは本社併設で、事業拡大後となっては手狭な敷地にならざるを得なかったが、5月7日に起工式を行い8月上旬に完成した。広大な敷地に温水暖房や浴室などを設け労使ともに使いやすい施設が出来上がった。その後は1972年(昭和47年)に開催された札幌オリンピック特需があったが、過ぎ去った後は過当競争に巻き込まれ、実車率にして48%程度となっている。1975年(昭和50年)5月には観光営業課を開設しハイヤーによる観光客の集客を始めた[16][17]

1989年(平成元年)6月1日、太平自動車、北びしハイヤーと組み「札幌タクシー無線事業組合」を設立した。3社同一の車体カラーを導入し、同一タイプの無線装備により基地局から配車指令が出されるもので、会社の区別無く配車することによって待ち時間短縮など効率的な配車を目的とし、予約電話番号の語呂合わせから「ニコニコ無線」と呼ばれた。当時の札幌地区では珍しいシステムで、1日平均1,000 - 2,000件の利用があった[18]

バス事業部

1968年(昭和43年)1月10日に篠路にバス営業所を開設。同年4月25日にはワンマンバス運行指定を受けた。運転手とバスガイド(車掌)の2名乗務ではコストが嵩むことがいちばんであったが、札幌市内 - 千歳空港間をノンストップで運行しており、運転手の労力増大は最低限で済むことから労働組合からも特に反対の動きは出ずに移行することができた。さらに同年8月には貸切事業区域を江別市札幌郡石狩郡、札幌市の旧手稲町域に拡大している。1969年(昭和44年)5月1日には夏期限定で丘珠空港線の運行を開始、同月26日はバス営業所が自動車分解整備業の認証を受けて整備事業を自社運営化。同年7月21日には千歳市にバス営業所を開設している[19]

1975年(昭和50年)1月には広島町(現:北広島市)の大曲工業団地にバス営業所を開設し大型バス110台を集約。千歳空港へも比較的近く効率的な配車が可能となった。中・小型バスについては1976年(昭和51年)10月にマイクロバス営業所を開設し、1978年(昭和53年)3月の移転と同時に小型バス営業所に改称された。大曲の営業所は後に本社となり、現在は営業部とバス事業部が置かれている。1977年(昭和52年)10月には月寒営業所を新築開設。ガイド課を新設しバスガイドの自社養成を開始した。翌1978年(昭和53年)10月には本社を月寒営業所ビルに移転。翌1979年(昭和54年)6月からはANAからの委託を受け「全日空ビッグスニーカー号」の運行を開始。1981年(昭和56年)3月からは日本近距離航空(現:エアーニッポン)との提携により丘珠空港線の定期運行を開始した[20][21]

札幌地区以外の地域への進出も行われ、1979年(昭和54年)9月には函館市にバス営業所を開設。北海道観光拠点のひとつである函館進出を果たした。1984年(昭和59年)2月に北海道バス[注 1]から定期観光バス事業の譲渡を受け、函館地区定期観光バスの営業を開始。1985年(昭和60年)8月には函館空港 - 大沼公園間路線バスの運行を開始した。函館に拠点を構えたメリットとして、1984年(昭和59年)に開設された「オーロラ号」では札幌・函館双方の乗務員が運行し、中間地点で車両を交換して札幌・函館に戻る方策が採られ、人件費抑制に繋がったことなどが挙げられている[注 2]1987年(昭和62年)6月には道東地区のANAビッグスニーカー号や貸切バスの拠点として釧路市に釧路営業所を開設した[22]1992年(平成4年)には名古屋鉄道より根室交通を買収し子会社化している。

しかし、1980年(昭和55年)10月1日国鉄千歳空港駅(現・南千歳駅)開業では、千歳空港連絡バスの乗客が大幅に減少するなどの影響が見え始めていた[23]

関連事業

関連事業にも注力し、一時期は13社・1協同組合の系列会社を擁していた。

代表的なものとして、関連会社第一号で1958年(昭和33年)に設立され保険等を取り扱う「株式会社北都商会」(取扱業務拡大による分社化で、保険業務は1987年(昭和62年)に「株式会社北都サービス」へ分社)、1974年(昭和49年)12月に設立され、ANA航空券販売業務を主体とした「株式会社北都交通トラベルサービス」、昭和40年代から三菱製バスを継続導入したことに関連して1977年(昭和52年)12月16日に設立された「北都三菱自動車販売株式会社」等がある。1987年(昭和62年)7月に設立された「株式会社札幌霊柩社」は札幌市内ではそれまで1社独占であった葬儀用車両運行事業に参入している[24]

1990年(平成2年)7月3日、貸切バスの途中休憩・食事を行うドライブイン施設「越後の舘・ましけ」が開業した。これは40周年記念事業として新たな戦略を模索していたところに、北都交通トラベルサービス社員の先祖が新潟県出身で実兄が新発田市に在住しており、村上市にある旧商家「吉田邸」が道路拡張工事により解体が計画されていたことから移築話があったものである。当時天売島焼尻島への定期観光バスを運行していたが途中で休憩・食事をとる適当な施設が無く、ちょうど中間地点にあたる増毛町に移築してオープンを目指す構想が固まり、1988年(昭和63年)より担当者が村上市や増毛町を幾度と無く訪問して折衝を続けて1989年(平成元年)に決定。同年9月27日に増毛町別刈コチャナイの現場で地鎮祭を挙行した。同年11月に海上輸送で吉田邸が到着し、村上市の大工による復元工事や関連する建物の新築が進められた。運営会社として1990年(平成2年)4月に「ほくと開発株式会社」を設立[25]。合わせて増毛町内の水産加工会社を買収するなどして備えている。

民事再生法適用を申請

景気低迷の影響を受けて不振に陥り、1992年(平成4年)のJR新千歳空港駅開業による新千歳空港連絡バスの更なる低迷、2002年(平成14年)2月1日のバス事業規制緩和による新規会社との価格競争の煽りを受けて売り上げは激減。ハイヤー利用客も減少し、さらにバブル景気時にオープンした増毛町の関連事業不振に圧迫され、2003年(平成15年)3月期には10億8,500万円の債務超過に陥った[26]

2004年(平成16年)5月、このままだと1箇月後に経営破綻する状態となった。銀嶺バス社長は知り合いの弁護士から北都交通の経営を打診され、即答はできないと持ち帰った。北都交通が止まると北海道観光への影響は計り知れず、規模が大きい事業者であるが銀嶺バスを立て直した経験があることなどを勘案し、1週間後に受諾した[27]

2004年(平成16年)6月17日民事再生法の適用を申請。約53億円の負債を抱えて破綻した。申請時点でバス126台、ハイヤー131台、従業員数は嘱託を含めて623名、営業拠点は7箇所であった。北都交通の資本金2億5,000万円を全額減資し、第三者割当増資に銀嶺バスが応じる方向で再建が進められることになった[26]。同時に北都交通トラベルサービスと北都サービスは自己破産を申請している。

銀嶺バス傘下で再スタート

2005年(平成17年)に提出された計画では2014年(平成26年)3月までに再建を完了する予定であったが、貸切バス台数半減、路線バスダイヤ・運賃見直し、燃費の良い車両への入れ替え、営業所の整理(この間に本社を北広島市大曲の営業所へ移転)、関連会社整理などを進めた結果、収益が改善し再建開始直後から黒字となった。2008年(平成20年)8月中に残債務を弁済し、約6年前倒して再生手続きを完了した[28]

10数社あった関連会社は根室交通と札幌霊柩社の2社となり、北都交通トラベルサービスの自己破産申請後も北都交通の窓口として営業を続けていた大谷地バスターミナル内の旧北都交通トラベルサービス大谷地営業所は2009年(平成21年)8月20日をもって営業を終了している。資本関係は無くなったが北都交通が関連会社として設立し現存するものには、各種警備や清掃業、丘珠空港で空港警備を行う「ジーエム北都株式会社」などがある。

2013年(平成25年)9月を目処に、銀嶺バスよりバス事業の譲渡を受け事業を一本化、銀嶺バスは持ち株会社「北都ホールディングス」に改組する予定であることが報じられている[29]。同年10月に経営統合されたことが銀嶺バスのウェブサイトで告知され[30]、銀嶺バスとして運行されてきたバスは同年10月2日より北都交通としての運行に変わっている[31]

年表

  • 1950年(昭和25年)
    • 7月3日 株式会社北都タクシー設立。
    • 12月1日 商号を北都ハイヤー株式会社に変更。
  • 1959年(昭和34年)6月10日 北都航空バス株式会社設立。
  • 1961年(昭和36年)5月1日 北都航空バスを北都バス株式会社に商号変更。
  • 1967年(昭和42年)2月8日 北都バスを存続会社、北都ハイヤーを吸収会社とする合併を行い、北都交通株式会社に商号変更。
  • 2004年(平成16年)6月17日 民事再生法に基づき札幌地裁に民事再生手続開始を申し立て。
  • 2008年(平成20年)8月 債務弁済に伴い、再生手続を終了。
  • 2010年(平成22年)6月10日 本社を札幌市に移転。バス関連の営業機能は引き続き北広島市に存置。
  • 2013年(平成25年)10月 銀嶺バスと経営統合[30]

事業所

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丘珠空港案内所。現在は無人
本社
北海道札幌市中央区大通西6丁目10-11 北都ビル
営業部・バス事業部・大曲営業所
北海道北広島市大曲工業団地1丁目7-1
ハイヤー事業部・札幌営業所
北海道札幌市中央区北4条西13丁目1-1
千歳営業所
北海道千歳市北信濃783-1-4
新千歳空港営業所
北海道千歳市美々 新千歳空港ターミナルビル内
函館支店
北海道函館市瀬戸川町34-10
稚内営業所
北海道稚内市潮見5丁目5-1

ハイヤー事業

札幌交通圏と千歳市で事業を行い、観光貸切ハイヤーも運行する。

札幌タクシー無線事業組合(通称:ニコニコ無線)は解散し単独で事業を行う。ニコニコ無線に属していた太平自動車と北びしハイヤーは解散後三和交通傘下のSKグループに属している。

バス事業

路線バス

路線バス事業は空港連絡バス都市間バス定期観光バスのみで、いわゆる一般路線バスは運行していない。路線バス車両は2013年(平成25年)3月31日現在で北都交通が57台、銀嶺バスが10台保有する[32]

空港連絡バス

新千歳空港連絡バス

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1954年(昭和29年)8月10日より北都ハイヤーがANA旅客専用ハイヤーを走らせたのを原点に、北都航空バス、北都バス、北都交通と現在に至るまで半世紀以上に渡り航空旅客の地上輸送路線として運行する。現在はANAとの提携を解き、路線バスとして運行されている。

1992年(平成4年)のJR新千歳空港駅開業による影響を抑えるため、かつて日本航空 (JAL)との提携により運行され、停車停留所も異なり別の路線として運行していた北海道中央バス(中央バス)と協調路線を取るようになり、段階的に両社時刻表への時刻併記や停車停留所の共通化が行われ、2002年(平成14年)より共通乗車券取扱が開始された。両社とも運行する路線の他に、北都交通単独運行路線で中央バスの乗車券が、中央バス単独運行路線で北都交通の乗車券が使用できるようになった[注 3]2006年(平成18年)3月より札幌市内と千歳アウトレットモール・レラのアクセスとして南千歳駅に停車開始し、空港アクセスに限らない利用促進を図っている。

2013年(平成25年)7月1日より運行を開始した札幌都心直行便(新千歳空港 - (新千歳空港IC[注 4] - 北郷IC) - すすきの・札幌駅)は同年12月1日から2014年(平成26年)3月31日まで運休となった。2014年(平成26年)4月1日再開予定とされていたが同日のダイヤ改正でも設定されていない[33][34]

中央バスが運行する新千歳空港連絡バスについては、急行千歳線 (北海道中央バス)#新千歳空港連絡バスを参照されたい。

丘珠空港連絡バス

1969年(昭和44年)5月1日、全日本空輸との提携により航空旅客および送迎客専用として夏期限定で開設。1981年(昭和56年)3月からは日本近距離航空(現:エアーニッポン)との提携で路線バスとして通年運行となった。以降は北海道エアシステム便の連絡バスも運行する。2010年(平成22年)10月1日より大通西3丁目・大通ビッセ前(丘珠空港行は大通西6丁目・北都交通本社前始発)に延長された。

大通や札幌駅などの札幌都心間との運行は2011年(平成23年)11月1日に休止され、同日より栄町駅間との運行に短縮された[35]。2013年(平成25年)は夏期の利用客増加を見込み、6月1日から8月31日(延長により11月30日)まで都心間との運行を再開[36][37]。2014年(平成26年)度は4月1日から11月30日までの予定で札幌都心との運行となる[38]

都市間バス

予約制路線はバス会社窓口や旅行会社のほか、北海道中央バス共同運行路線は発車オ〜ライネットJTB高速バスサイト、その他の路線は北都交通グループ運営のインターネット予約サイト「バスNAVI北海道」および2010年(平成22年)9月14日より提携を開始したWILLER TRAVEL[39]で受け付ける。

高速はこだて号

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札幌ターミナル付近にて

予約制。1984年(昭和59年)3月1日に「オーロラ号」として北都交通単独で運行。会員制貸切バス(いわゆるツアーバス)として運行を開始した後に路線バスへ変更された。2003年(平成15年)4月21日より北海道中央バス・道南バスが同区間で運行する「オーシャンドリーム」と統合、共同運行を開始した。

ポテトライナー
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札幌ターミナル付近にて

予約制。1989年(平成元年)8月11日より繁忙期の臨時帰省バスとして各社1往復ずつを担当する5往復で運行を開始。1990年(平成2年)3月9日より「ポテトライナー」として通年運行が開始された。1995年(平成7年)12月1日大谷地ターミナル1997年(平成9年)9月1日に清水と芽室を新設し1往復を十勝川温泉まで延長。2002年(平成14年)12月1日には発車オ〜ライネットによるインターネット予約開始し御影を新設。2005年(平成17年)4月1日より音更経由(音更大通11丁目、木野大通16丁目、木野農協前)2往復を新設し、芽室経由は4往復とし臨時便を廃止。2009年(平成21年)12月23日から音更経由を1往復増回。2011年(平成23年)10月30日道東自動車道全通による改正で直行便を含む3往復を増回し計10往復、所要時間が約20分短縮となった[40]

運行を開始するにあたり北海道中央バスが共同運行事業者を募ったところ、他4社が名乗りを上げた。1路線5社での運行は極めて異例であり北海道運輸局の指導で調整が図られたが不調に終わり、結局5社揃って認可された経緯がある[41]

札幌と帯広の間は200キロ強の距離であるが、帰省バス当時から夜行便が設定されていた。1991年(平成3年)9月20日国道274号日勝峠開通に伴う改正で定期運行を廃止し、2000年(平成12年)夏期まで繁忙期臨時便として運行されていた。テンプレート:-

オーロラ号
ファイル:いすゞ・ガーラ都市間高速仕様.jpg
トーヨーグランドホテル(中標津)にて

予約制、夜行便のみの運行。中標津・別海経由と直行便を1往復ずつ運行していたが、2011年(平成23年)4月1日より直行便は金曜 - 日曜と祝日・祝前日の運行に変更された。繁忙期は昼行の臨時便が設定される場合がある。

1992年(平成4年)8月7日から8月31日まで臨時直行便を運行し、同年11月20日より定期運行化されている。1993年(平成5年)7月20日より厚床を新設。1997年(平成9年)6月1日より別海・中標津経由便の運行を開始した。中標津の乗降場所となるトーヨーグランドホテルでは、オーロラ号利用者向けに喫茶室とロビーを待合所代わりに開放する。

両社で運行管理委託を行っており、幕別町の乗務員休憩地点を境に札幌側の運行を北都交通が、根室側の運行を根室交通が担当する。テンプレート:-

とかちミルキーライナー

予約制。2008年(平成20年)1月17日に帯運観光とともに路線認可申請を行い、同年4月25日より4往復で運行を開始した。

2009年(平成21年)7月1日の3往復に減便と同時に南千歳駅まで延伸。同年12月18日より2往復を十勝川温泉まで延伸している。おびうん観光帯広営業所にパーク&ライド専用駐車場を設置する。テンプレート:-

快適湯ったりライナー

2008年(平成20年)7月1日開設。従前より新千歳空港連絡バス真駒内系統と12 定山渓線(じょうてつ運行)の乗継割引乗車券を発売している。 2014年2月28日をもってじょうてつが撤退[42]

新千歳空港 - 苫小牧港

2012年(平成24年)4月1日開設[43]

特急はまなす号
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特急はまなす号(銀嶺バス運行時)

旧・銀嶺バス路線。行程の内札幌留萌間は、昼行便の場合道央自動車道深川留萌自動車道を通行するが、夜行便の場合国道275号国道233号を通行する。

座席は原則として3列独立シートで、夜行便は前3列が女性専用席となる。昼行便の一部及び夜行便は運行両社で運行管理委託を行っており、小平 - 稚内間は宗谷バスが担当する。道の駅おびら鰊番屋で上り便と下り便が合流し、双方の乗務員が車両を交換して基点に戻る。

1981年(昭和56年)4月1日運行開始。当初は会員制貸切バス(いわゆるツアーバス)として運行された。豊富町にも停車したが、1985年(昭和60年)4月1日に前年より沿岸バスが札幌 - 羽幌 - 豊富間の運行を開始したことを受けて廃止されている。札幌市内は当初京王プラザホテル札幌に発着していたが、札幌駅前ターミナル、センチュリーロイヤルホテルへの変更を経て現在は大通バスセンター発・札幌駅前着で運行。2005年(平成17年)11月よりバスを利用した生鮮品輸送サービスを試験的に開始した。

宗谷バス特急わっかない号とは競合していたが、バス路線新規参入自由化や、JRの「宗谷」などの特急化に対する競争力強化のため2001年(平成13年)7月20日より共同運行を開始し、運賃値下げや回数乗車券設定を行っている。

テンプレート:-
特急せたな号
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特急せたな号(銀嶺バス運行時)

旧・銀嶺バス路線。夏期(ハートランドフェリー奥尻 - 瀬棚航路運航期間)と年末年始限定で運航。夏期は奥尻 - 瀬棚航路に接続運行し、関連会社の北海道アクセスネットワークがバス往復と奥尻島観光をセットにした旅行パックを発売する。かつては豊浦町立国保病院にも停車していたが、長万部駅前の長万部物産センターへの変更と同時に廃止されている。

主な廃止系統

新千歳空港連絡バス麻生駅系統
北海道中央バスとは別系統
函館空港 - 大沼公園 - 鹿部ロイヤルホテル
現在は大沼交通が函館空港 - 大沼公園間を運行
函館駅前 - 函館港フェリーターミナル - 大沼公園
現在は函館帝産バスが函館市街 - 津軽海峡フェリーターミナル間を運行
特急すずらん号 旭川 - 稚内
旧・銀嶺バス、道北観光バス路線
競合していた宗谷バス特急わっかない号旭川系統はその後も残存していたものの、2010年3月31日の運行をもって休止。
特急るもい号 札幌 - 留萌
旧・銀嶺バス、道北観光バスによるツアーバス形態での運行。
特急札幌江差線
旧・銀嶺バス路線。2005年(平成17年)の夏休み期間より運行し江差 - 奥尻航路に接続。途中乙部町にも停車した。2006年(平成18年)度をもって廃止。

定期観光バス

かつては札幌発着の、ジンギスカンの夕食をとった後にキャバレーでショーを見物する「夜の札幌お楽しみツアー」や、増毛町内関連施設での休憩等を含めた天売島焼尻島を巡るコースが設定されていた。

2013年(平成25年)現在は函館地区でHKB(旧・檜山観光バス)との共同で定期観光バスを運行する。函館駅や湯の川温泉を発着地とし、函館市内観光、函館山登山バス、大沼公園めぐりなどが運行される。

貸切バス

ファイル:Hokuto kōtsū S200F 2468.JPG
北海道リゾートライナー

貸切バス事業は札幌運輸支局函館運輸支局管内および苫小牧市勇払郡厚真町安平町早来での発着が認められている。会社再建前は63台であったが、2012年(平成24年)9月現在は36台となっている。銀嶺バスは事業譲渡まで札幌運輸支局旭川運輸支局管内発着が認められ、車両を35台保有していた。

関連会社である北海道アクセスネットワーク主催のツアーバス「北海道リゾートライナー」の運行を担当、専用塗装を施された車両が使われる。

車両

1959年(昭和34年)7月25日の北都航空バスによるANA旅客地上輸送開始時には三菱ふそう製の空気ばね車を導入し、荷物置場設置などの改造を行って旅客定員は42名として運行した。1963年(昭和38年)には層雲峡の渓谷美を一望できるようにと総ガラス張りの特別仕様展望車2台が導入されたが、夏場の太陽照りつけによる車内温度急上昇に悩まされ、数年後に廃車された。その後は三菱ふそう製を中心に導入し、1979年(昭和54年)からはデッカー車の導入を開始。当時の北海道に冷房車は不要とされていた中で北海道中央バスが前年から冷房車を導入したことから、同年より冷房車での導入となった。非冷房で導入された1978年(昭和53年)年式車15台は富山県の呉羽自動車工業(現:三菱ふそうバス製造)に送って冷房化改造を施している[44]

昭和後期から平成初期にかけてMS7系エアロバスを大量導入し旧式車両を置き換えている。スーパーハイデッカー車は1989年(平成元年)12月にエアロクィーンMを導入し同月の帯広臨時帰省バスで使用された。1990年(平成2年)までに10台が導入されてオーロラ号などでも使われた[45]

全日空スカイホリデー専用車として、1982年(昭和57年)にネオプランスカイライナー1台、翌1983年(昭和58年)に三菱ふそう・エアロキング2台の2階建てバスが導入され[45]、定期観光バス等に転用された後に廃車となった。2006年(平成18年)には日の丸自動車興業よりスカイバス東京のネオプラン・スカイライナーを借り受け、6月27日から8月27日まで「スカイバス札幌」として運行した。

大型車は三菱ふそう製で統一が図られた一方で、中型車は日産ディーゼル(現:UDトラックス)製で統一が図られていた。銀嶺バス傘下となった以降は新車・グループ内移籍車・中古車ともにいすゞ自動車製や日野自動車製も導入される。

銀嶺バスは2008年(平成20年)に解散したブルーバスグループに加盟していたが、共通塗装は導入していなかった。

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

関連項目

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外部リンク

  1. 『40年史』 p. 22
  2. 『40年史』 p. 25
  3. 『40年史』 pp. 25 - 28
  4. 『40年史』 pp. 28 - 31
  5. 『40年史』 pp. 36 - 37
  6. 『40年史』 p. 38
  7. 『40年史』 pp. 48 - 50
  8. 『40年史』 pp. 32 - 35
  9. 『40年史』 p. 35
  10. 『40年史』 pp. 40 - 41
  11. 『40年史』 p. 41
  12. 『40年史』 pp. 41 - 42
  13. 『40年史』 pp. 51 - 52
  14. 『40年史』 p. 52 - 53
  15. 『40年史』 p. 53 - 54
  16. 『40年史』 pp. 55 - 59
  17. 『40年史』 pp. 68 - 69
  18. 『40年史』 pp. 63 - 64
  19. 『40年史』 pp. 54 - 55
  20. 『40年史』 p. 68
  21. 『40年史』 pp. 70 - 71
  22. 『40年史』 pp. 71 - 72
  23. 『40年史』 p. 82
  24. 『40年史』 p. 74- 78
  25. 『40年史』 pp. 78 - 82
  26. 26.0 26.1 “バス・タクシー大手 北都交通が再生法申請 貸し切り事業不振”. 北海道新聞. 2004年6月18日朝刊。
  27. “トップの決断 北の経営者たち”. 北海道新聞. 2013年7月11日朝刊 p. 12経済面。
  28. 北海道新聞「北広島の北都交通 再生手続き完了へ 収益改善で6年前倒し」(2008年8月2日)
  29. テンプレート:Cite web
  30. 30.0 30.1 テンプレート:Cite web
  31. テンプレート:Cite web
  32. テンプレート:Cite web
  33. テンプレート:Cite web
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  35. テンプレート:Cite web
  36. テンプレート:Cite web
  37. テンプレート:Cite web
  38. テンプレート:Cite web
  39. テンプレート:Cite web
  40. テンプレート:Cite web
  41. 『40年史』 p. 73
  42. 新千歳空港(湯ったりライナー号)の「じょうてつ」での運行終了のお知らせ
  43. テンプレート:Cite web
  44. 『40年史』 pp. 42 - 43
  45. 45.0 45.1 『40年史』 pp. 43 - 44


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