北軽井沢

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テンプレート:Pathnav 北軽井沢(きたかるいざわ)は、浅間山北麓の一帯に位置する群馬県吾妻郡長野原町大字である。郵便番号377-1412。

地理

長野原町の西南部に位置し、浅間山の北東に広がる六里ヶ原の一画にある。北で同町応桑、東で浅間隠山の北稜を隔てて東吾妻町須賀尾、南東で高崎市倉渕町川浦(旧・倉渕村川浦)、南で長野県北佐久郡軽井沢町長倉、西で嬬恋村鎌原と接する。

浅間山の黒い火山噴出物が主成分の土壌と、一面に広がるカラマツ林を中心に、秋の紅葉が美しい雑木林が混在するのが特徴的である。終戦直後に一部地域が開拓され、トウモロコシトマトレタス白菜ブルーベリーなどが特産。町中の至る所に高原野菜の直売所がある。明治初期に当初は馬の放牧場として開設され、戦後に群馬県へと移管された浅間家畜育成牧場浅間牧場)が、早い時期に乳牛を導入させたこともあって、酪農も盛んに行われている。1970年代以降はリゾート地として開発され、施設が建設されている。

気候

標高1,000m - 1,400mに位置し、夏は冷涼、冬は酷寒で亜寒帯湿潤気候に属する。冬は最低気温がマイナス20度以下になることも珍しくないが、日本海側気候でないので積雪量は比較的少ない。

歴史

テンプレート:節stub 明治15年殖産興業富国強兵により洋服の需要が増えたことから、綿羊の供給地として、また軍馬の養育地としてこのあたり一帯が選ばれ、大日本農会の会長だった北白川宮能久親王が放牧場「浅間牧場(吾妻農林牧場)」を開設したことにより、北軽井沢の開墾は始まった。明治維新で職を失った武士の救済策のひとつとして、ここに旧館林藩士たちが開拓移民として入植した。明治28年の北白川宮没後に一帯の土地が民間に払い下げられ、分割されて草軽電鉄亀沢牧場、現在の浅間牧場などの所有になった。[1]

大正4年に、スイス登山電車を真似て草津~軽井沢間をつなぐ草軽電鉄が敷かれ、周辺地域が次々と開拓されていった。旧館林藩主の秋元子爵が別荘を建てたのをはじまりに、避暑のための別荘地として売り出されるようになった。大正末期から昭和初期にかけて大学関係者の別荘地が次々作られたことで、何もなかった北軽井沢駅周辺の環境が整備されていった。第二次大戦後、農地解放が行なわれると、満州蒙古からの引揚者浅間山麓周辺に多く入植し、農地に開拓されていった。昭和23年には開拓農協が作られ、昭和26年には、日本初のオールカラー映画『カルメン故郷に帰る』のロケ地にもなるなど、農業地として、観光・保養地として人気を集めるようになった。[1]

地名の由来

古くは、この辺りは「地蔵川」という地名であった。1918年(大正7年)6月に、新軽井沢 - 草津温泉間を結んでいた草軽電気鉄道1924年に草津軽便鉄道より社名変更)の「地蔵川駅」が開業している。

1927年(昭和2年)に、この付近に広大な土地を所有していた法政大学学長である松室致の発意により、自身が所有する土地を学者文化人などへ分譲し開発した別荘地である「法政大学村」(現・「社団法人・北軽井沢大学村組合」、通称「大学村」)の関係者達が、避暑地として最適なこの周辺の土地を、同じく避暑地として知られ隣接する「軽井沢」の北に位置することから、便宜的に「北軽井沢」と呼び始めたことに由来する。それに倣うように草軽電気鉄道の駅名も、1927年(昭和2年)に「大学村」の寄贈により駅舎を改築したことから、その際に「地蔵川駅」から「北軽井沢駅」(旧北軽井沢駅舎は現存、下記参照)へと改称された。駅舎正面の欄間には、「大学村」の開村に関わりの深い「法政大学」の頭文字である“H”が刻まれている。1960年(昭和35年)4月に、新軽井沢 - 上州三原間の草軽電気鉄道が廃止された後も、草軽交通バスターミナル名(現在はバス停のみ)など便宜的な地名として定着して呼称されていた。

長野原町の成立後は、同町大字地蔵川、または大字地蔵堂、大字応桑大屋原などであったが、「北軽井沢」という名称が旧北軽井沢駅舎付近を中心に、この地区のほか鬼押出し園のある嬬恋村東南部等も含めた総称として使われていることや、1980年代バブル期にリゾート地として売り出された背景などもあり、長野原町の正式な字名となった。当時の新聞では、浅間山南麓の長野県北佐久郡軽井沢町と比較されて取り上げられたこともあったが、現在ではそれぞれ別のリゾート地として認知されており、棲み分けが図られている。

交通

公共交通手段は草軽交通のバス軽井沢駅、草津温泉、吾妻線長野原草津口駅または羽根尾駅の各所と北軽井沢とを結んでいる。草軽交通のバス路線の中でも輸送の区切りとなる要所となっている。また、北軽井沢バス停付近に「北軽観光タクシー」の待機所あり(タクシー車輌が待機していない場合は、電話番号が標記されていて、タクシーを呼ぶことができる)。

文化

旧北軽井沢駅は、日本初のカラー映画である『カルメン故郷に帰る』のロケ地にもなっており、当時から風光明媚な地域として注目されていた証左であろう。この地のシンボルとも言える旧北軽井沢駅舎は、2006年(平成18年)9月15日に国の登録有形文化財として認可され、夏期など期間限定で無料開放されている。

野外音楽ホールと宿舎を併設した施設があり、古くは桐朋学園が合宿所として利用していた。その後長らく放置され荒れ放題になっていたが、ホールのほうは近年再整備が進みつつある。2005年(平成17年)からは毎年8月前半に、このホールと近辺のホテルを利用してチャールズ・ナイディックらがクラリネットの合宿を開催し、日本韓国などの音楽学校生やフリーの演奏家で賑わう。

毎年2月初旬には「北軽井沢炎のまつり」(浅間高原雪合戦)、7月初旬に「北軽井沢マラソン」(2010年度は中止)、8月半ばには「北軽井沢高原まつり」(花火大会)が、恒例行事として開催されている。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 1.0 1.1 『きたかる』No.2

関連項目

外部リンク

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