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'''前波 吉継'''(まえば よしつぐ、生年不詳 - [[天正]]2年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]([[1574年]][[2月10日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[朝倉氏]]の家臣、後に[[織田氏]]の家臣。[[前波景定]]の次男。子に新七郎。九郎兵衛尉と称す。後に'''桂田長俊'''(かつらだながとし)と改名。 == 生涯 == [[越前国]]の[[戦国大名]]朝倉氏の家臣・前波景定の次男として誕生。兄に[[前波景当]]がいる。 [[朝倉義景]]に仕え、奉行衆として活躍した。[[元亀]]元年([[1570年]])に前波氏の当主だった兄・景当が[[志賀の陣]]における[[堅田]]の戦いにおいて戦死したため家督を相続。ところが、元亀3年([[1572年]])に[[織田信長]]と義景が対陣すると、信長の本陣に駆け込んで降伏した。後世、内応の理由として、「義景の鷹狩りの際に遅参し、[[下馬]]せずに前を通ったことで勘当されたことを恨んだため」「吉継の嫡男より織田方への内通の訴えがあり、義景の怒りをかったため」などが挙げられるが、真相は不明。内通した翌年の[[一乗谷城の戦い|朝倉攻め]]では織田軍の越前案内役を務め、朝倉氏滅亡に一役かった。 越前侵攻への功績により、信長から越前の[[守護代]]に任命され、名前も信長から一字「長」を貰い受けて桂田長俊と改めた。しかし、改名後まもなく[[失明]]。さらに長俊が守護代になったことを妬んだ[[富田長繁]]が対立姿勢を示し、天正2年(1574年)についに長繁は[[土一揆]]を蜂起させ長俊が住す[[一乗谷]]に進発。1月19日に長俊は冨田長繁率いる一揆勢によって衆寡敵せず殺害された。なお、長俊の母・妻・嫡男も逃亡しようと試みたが、翌日に捕縛され殺害されている。 当時失明をし、結果的に落命にまで至った理由は、『朝倉記』は「神明ノ御罰也」と評されている。また、『[[信長公記]]』も吉継の死を「大国の守護代として栄耀栄華に誇り、恣に働き、後輩に対しても無礼であった報い」と評した。 {{DEFAULTSORT:まえは よしつく}} [[category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:生年不明]] [[Category:1574年没]]
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