出雲郡

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出雲郡(いずもぐん)は出雲国にかつて存在した。現在の出雲市斐川町の領域に相当する。

由来

出雲国風土記』では出雲国と同様の由来の命名とされる。また出雲郷も同様とされる。

歴史

古代

7世紀に制の出雲評として建てられ[1]701年大宝律令の制定とともに郡制の出雲郡となったと考えられる。郡家は出雲郷にあった。

郷里

天平5年(733年2月30日に成立したとされる『出雲国風土記』には8のの内に23の里(神戸郷は除く)があったとされ、以下の郷の記載がある[2]。天平11年(739年)の「出雲国大税賑給歴名帳」(『正倉院文書』に所収)によって里の名前もいくつか判明している。

健部郷
宇夜里から改名したとされる。波如里と他2里があった。現在の出雲市斐川町学頭、神庭、三絡、松江市宍道町伊志見辺り。
漆治郷[3]
志司治郷[4]から神亀3年(726年)に改名した。深江里、工田里、犬上里があった。現在の出雲市斐川町上直江、直江辺り。
河内郷
伊美里、大麻里と他1里があった。現在の出雲市斐川町出西、斐川町阿宮、出雲市船津町、上島町、雲南市加茂町大竹辺り。
出雲郷
3の里があった(里名は不明)。現在の出雲市斐川町出西、神氷、求院、富村辺り。
杵築郷
評里制の時は支豆支里であったと考えられる[1]。その後寸付郷から神亀3年(726年)に改名した。因佐里と他2里があった。現在の出雲市大社町辺り。
伊努郷
伊農郷から神亀3年(726年)に改名した。3の里があった(里名は不明)。現在の出雲市東林木町、西林木町、日下町、矢尾町辺り。
美談郷
三太三郷から神亀3年(726年)に改名した。3の里があった(里名は不明)。現在の出雲市国富町、美談町、出雲市斐川町原鹿と今在家の一部辺り。
宇賀郷
2の里があった(里名は不明)。現在の出雲市国富町の北側、口宇賀町、奥宇賀町、河下町、猪目町、別所町、唐川町辺り。
神戸郷
2の里があった(里名は不明)。現在の出雲市斐川町今在家、鳥井、名島辺り。

式内社

延喜式神名帳に記される郡内の式内社テンプレート:式内社一覧/header テンプレート:出雲国出雲郡の式内社一覧 テンプレート:式内社一覧/footer

中世から近世

中世に入る前には杵築郷、伊努郷と河内郷の領域は神門郡に、宇賀郷と美談郷の領域は楯縫郡に組み込まれたと考えられる。残りの郡域は鎌倉期から戦国期にかけて出東郡(しゅっとうぐん)に変わった。その後近世初期に出雲郡(読みは「しゅっとう」のまま)となった。

近代

  • 1889年明治22年)4月1日 町村制施行(6村)
    • 荘原村、出西村、出東村、伊波野村、直江村、久木村
  • 1896年(明治29年)4月1日 神門郡、楯縫郡と合併して簸川郡となった。

参考文献

注釈

  1. 1.0 1.1 藤原京の藤原宮の北をめぐる外濠から出た木簡に、「出雲評支豆支里大贄煮魚須々支」とある。奈良国立文化財研究所『藤原宮木簡』一、157、奈良国立文化財研究所史料XII、1978年、解説79頁。
  2. 比定地名は2009年現在のもの。郷域の比定は関(2006)を参考にした。なお郡域を流れる斐伊川はしばしば氾濫していたため、明確な郡域を比定するのは困難である。
  3. 漆沼郷と校訂する例が多いが、「出雲国大税賑給歴名帳」や『和名抄』には「漆治郷」と記されている(関(2006))。
  4. 写本により表記に異動があるが、関(2006)の校訂に従う。

関連項目


テンプレート:出雲国の郡