第三次中東戦争

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(六日戦争、六月戦争)
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戦争:第三次中東戦争
年月日:1967年6月5日 - 6月10日
場所:主にシナイ半島
結果:イスラエル軍の勝利
交戦勢力
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エジプトシリア
テンプレート:Flagicon ヨルダン
テンプレート:IRQ1963
テンプレート:Flagicon サウジアラビア
テンプレート:Flagicon イスラエル
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | ガマール・アブドゥン=ナーセル
フセイン・ビン・タラール
アブドッラフマーン・アーリフ
ファイサル・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウード
レヴィ・エシュコル
イツハク・ラビン
モーシェ・ダヤン(国防相)
ウジ・ナルキス(軍司令官)
シュロモー・ゴレン(軍首席ラビ)
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | エジプト 150,000
シリア 75,000
ヨルダン 55,000
サウジアラビア 20,000
航空機 812機
264,000(予備役 214,000を含む)
航空機 197機
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 戦死 21,000
負傷 45,000
捕虜 6,000
航空機 400機以上(推定)
戦死 779
負傷 2,563
捕虜 15
航空機 19機(公式発表)

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中東戦争の全体については、中東戦争を参照

第三次中東戦争(だいさんじちゅうとうせんそう、テンプレート:Lang-heテンプレート:Lang-ar)は、イスラエルとアラブ連合(エジプトシリアヨルダン)の間で発生した戦争。なお、イスラエルにおいては六日戦争(むいかせんそう)、アラブ諸国においては六月戦争(ろくがつせんそう)とも呼ばれる。

この戦争の結果として、イスラエルはガザ地区ヨルダン川西岸地区の支配権を獲得してパレスチナを統一、シナイ半島ゴラン高原を軍事占領下に置いた。戦争の結果は現在まで中東地政学に影響している。

背景

第一次中東戦争によってパレスチナの大部分はイスラエルが獲得していたが、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの聖地とみなされているエルサレムの旧市街を含めた東エルサレムヨルダンが支配していたため、エルサレム旧市街における嘆きの壁においてユダヤ教の祈りを捧げることが不可能であったため、正統派ユダヤ教徒を中心に不満が高まっていた。

一方アラブ側では、1964年にヨルダンのアンマンを本部としたパレスチナ解放機構(PLO)が結成され、イスラエルに対するゲリラ闘争を行っていた。1966年2月、シリアクーデターが発生し、PLO支持のアターシー政権が樹立すると、国内の混乱も収まらないうちにゴラン高原からイスラエル領内へ砲撃を加え始めた。イスラエルは住民保護を理由として、7月に空軍を派遣してシリア軍と交戦した。シリア空軍機を撃墜して砲撃陣地を破壊、さらに示威行為として、首都ダマスカス上空を飛び回った。

当時、アラブ側にはソビエト連邦から兵器を購入していた関係でKGBの要員も入っていた。また、ソビエト連邦は、中東でアメリカ合衆国に対して有利な立場を得ようと中東で戦争を起こそうと画策していた。そこで、イスラエルとシリアが即時に開戦する意思も態勢もなかったにもかかわらず、KGBはエジプト政府に両国が開戦するとの情報を知らせた。またシリア政府に対しては、イスラエルがシリアへ侵攻準備を開始したと報告した。このため両国は開戦に備えて国境沿いを軍で固めた。ヨルダンも1967年4月にエジプトと共同防衛条約を結び、イスラエルの侵攻に備えた。

一方、イスラエルは諜報特務庁(モサッド)の諜報活動によってアラブ側の情勢は絶えず知らされていた。イスラエルはKGBの行動とアラブ3国の緊張を根拠としてアメリカ合衆国に仲裁を求めたが、CIAはアラブ諸国の侵攻はないと判断しており、また当時の米国はベトナム戦争を戦っていたため、中東でイスラエルを支援する余裕がなかったために応じなかった。1967年5月16日には、エジプトがシナイ半島での停戦監視を受託していた国連緊急軍(UNEF)を撤退させるなど、情勢は緊迫化した。当時のイスラエルはすべての周辺国は国交がない敵国であったため、国家消滅の危機感を抱いていたイスラエルはアラブ諸国に侵攻される前の先制攻撃を決意し、開戦の準備を行った。KGBはこの情報を入手したが、アラブ側には伝達しなかった。

開戦

1967年6月5日イスラエル空軍機が超低空飛行でエジプトシリアヨルダンイラク領空を侵犯、各国の空軍基地を奇襲攻撃して計410機にも上る航空機を破壊した。この「レッド・シート作戦」によって制空権を奪ったイスラエルは地上軍を侵攻させ、短期間のうちにヨルダン領ヨルダン川西岸地区、エジプト領ガザ地区シナイ半島、シリア領ゴラン高原を占領した。

ヨルダンとエジプトは6月8日停戦、シリアも6月10日停戦した。延べ6日間の電撃作戦でイスラエルの占領地域は戦前の4倍以上までに拡大した。

消耗戦争

一応の停戦には至ったが、アラブ諸国も領土を喪失したままでいられるはずも無く、すぐに紛争が勃発した。ヨルダンは聖地東エルサレムを奪われ、国家の威信が揺らいだ。そこで停戦から半年後にPLOを支援してヨルダン川西岸を攻撃したが、失地回復には至らなかった。

エジプトはスエズ運河を挟んでイスラエルと対峙したが、1968年からエジプト軍が散発的な砲撃を加えるようになり、消耗戦争と呼ばれる砲撃の報復合戦となった。この砲撃戦によってスエズ運河は実質的に通航不可能になった。

消耗戦争は断続的に2年間続いたが、1970年6月、イスラエル軍がスエズ運河を越えてエジプト軍を攻撃し、砲撃陣地を破壊して占領した。1ヶ月以上の占領の末、8月に両国は停戦した。

停戦後

この1970年はアラブの転換点となる重要な年となった。PFLP旅客機同時ハイジャック事件をきっかけに9月にはヨルダンがPLOを攻撃する内戦が発生、ヨルダンは非難されて孤立し、PLOはレバノンに逃れ、後のレバノン内戦の引き金となる。内戦の直後、エジプト革命の立役者ナセルが死去、サダトが大統領となった。彼はイスラエルとの講和を目指す一方で、シナイ回復などの有利な条件で講和を果たすために再度のイスラエルへの軍事行動を画策、空軍司令ムバーラク主導の空軍再建や、イスラエル自慢の機甲部隊を打ち破るためのソ連からの対戦車ミサイルを中心とする対戦車戦術の導入などを推し進めた。

一方、圧倒的勝利を収めたイスラエル側ではアラブに対する油断が生じ、モサッドによる動向情報への反応も鈍くなっていた。さらに奇襲による国際社会の信用低下に加え、中東のパワーバランスが崩れる事を危惧したイギリスフランスはアラブ寄りの政策に転換し、イスラエルへの武器輸出停止などの措置を取った。こうした情勢の変化が、続く第四次中東戦争緒戦における大損害へと繋がる事となる。

アラブ側捕虜処刑事件

第3次中東戦争中、イスラエル国防軍により、エジプト兵捕虜やパレスチナ人義勇兵が処刑されたとされている。実際、戦争に参加した退役軍人が49人のエジプト兵捕虜の違法処刑を認めたとされる。また、当時従軍していた兵士も投降したエジプト兵がイスラエル兵に射殺されているのを目撃。また、イスラエル人記者も、5人のエジプト兵が穴を掘ることを強制された上にその場で殺害され、埋められたのを見たと語っている。これらの話がイスラエル・メディアを騒せ、ドキュメンタリー番組も制作されている。

2007年3月5日、エジプト外務省が「第3次中東戦争中に当時、イスラエル軍を指揮していたベンエリエゼル国土基盤相がエジプト兵捕虜250人を処刑した」と非難した。非難の根拠はイスラエルのテレビ局が放送した番組だが、番組制作者のRan Ederlist氏は「内容はエジプト兵の処刑ではなく、エジプト軍傘下のパレスチナ人部隊がイスラエル兵に殺害された事件のドキュメンタリー番組であり、番組内容が歪曲されている」と否定する声明を出している。

関連項目

外部リンク

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