倉本聰

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倉本 聰(くらもと そう、戸籍上は1935年1月1日(実際は1934年12月31日[1])- )は、日本脚本家劇作家演出家。本名山谷馨。夫人は女優の平木久子演劇集団 円所属)。

略歴

  • 東京府(現・東京都)出身。
  • 父・山谷太郎1899年 - 1952年)は春潮という俳号を持つ俳人で、『野鳥歳時記』(1943年)を残した。両親はともにクリスチャンだった[2]
  • 戦時中は山形市上山市岡山県金光町疎開[3][4]。このうち、上山への疎開は政府が実施した学童集団疎開によるもので、都会育ちの倉本は大きなカルチャーショックを受けた。東京に帰りたいと考えた倉本は仮病を使って数ヶ月後には東京に戻ることに成功した[5]。この体験は、『北の国から』の最初の連続シリーズにおいて、純が東京に帰りたがって起こす行動のヒントにしたと記している[6]。 また、金光へは1945年4月から1年間、一家6人で疎開していた[7]
  • 豊島師範附属小学校(現・東京学芸大学附属小金井小学校)から麻布中学校・高等学校を経て東京大学文学部美学科卒業。
  • 1959年ニッポン放送に入社。ディレクター・プロデューサーを担当するが、ニッポン放送在籍時に『パパ起きてちょうだい』(日本テレビ)で脚本家デビュー。当時は夜10時に会社を出て帰宅してから脚本を書き午前4時頃に就寝、2時間ほどの睡眠で出社する毎日だった[8]
  • 1963年にニッポン放送を退社。退社のいきさつについて倉本は、後にインタビューで「ニッポン放送には内緒でペンネームを使って脚本家をやっていた負い目から、ニッポン放送で担当していた番組には(脚本家同士として顔見知りである)若手の脚本家ではなくベテランの脚本家ばかり起用していたが、それを上司に咎められた上『最近倉本って若手が出てきたから一度会って来い』と命じられ、そろそろ潮時だと思った」と語っている[9]。また他のインタビューでは「(2時間睡眠の生活を)2年も続けると「もたない」と思いました」と語っており、掛け持ちを続けるのは体力的にも限界だったことを示している[8]岡田茂の自伝では、倉本がニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない、と東映に籍を置かせて欲しいと中島貞夫を介して岡田に頼んできたと書かれている[10]
  • その後、東京でフリーの脚本家となったが、NHK大河ドラマ勝海舟』制作に際し、脚本家の演出関与の是非をめぐる問題がこじれたことで嫌気がさし、脚本を途中降板。1974年6月、取材を受けた週刊誌『ヤングレディ』の記事がNHKを攻撃する内容に変わっていたので、最終稿まで確認して記事は修正されたが、広告の見出しが「倉本聰氏、『勝海舟』を内部から爆弾発言」と修正されぬまま出てしまったことがきっかけだった。当時の制作局長には軽率を謝罪したが、20 - 30人からつるし上げられたという[11][12]。その日に千歳空港へ飛び、そのまま北海道札幌市に転居。
  • 1976年、東京の下町を舞台にした萩原健一主演のドラマ『前略おふくろ様』により、ゴールデンアロー賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞。
  • 1977年富良野市に移住[13][14]
  • 1981年、富良野を舞台にした家族ドラマ『北の国から』で話題を呼ぶ。他に歌志内市上砂川町を舞台とした『昨日、悲別で』の脚本、富良野を舞台に父子の絆の断絶と再生を描く『優しい時間』の原作など、北海道を舞台とした数々のドラマでも有名。
  • 1982年、『北の国から』小説版で山本有三記念路傍の石文学賞受賞。
  • 1986年、監督・脚本を担当した映画『時計 Adieu l'Hiver』が公開される[15]
  • 1987年、『北の国から '87初恋』小説版で小学館文学賞受賞。
  • 2000年紫綬褒章受章。
  • 2002年、『北の国から2002遺言』で第21回向田邦子賞を受賞した。
  • 若手の俳優と脚本家を養成するために、1984年に、富良野市布礼別にて「富良野塾」を私財を投じて開設し、26年にわたって主宰した。塾生は受講料は無料で2年間共同生活をし、夏季は地元の農協や農家などの協力を得て畑仕事を手伝い塾生自らが生活費を稼ぎ出し、冬季は集中講義などの他、ふらの演劇工場で行われる演劇公演に向けた稽古をおこなうスタイルだった[16]。年一回、原始の日(電気・水道・ガスに頼らない、いわゆる原始生活を体験する行事)を設けるなどのユニークな養成術で知られ、脚本家の吉田紀子(第2期)、田子明弘(第3期)、久松真一(第5期)、俳優の加藤久雅(第4期)、二階堂智(第6期)らを送り出した。また、富良野塾の活動を受け市民によって設立されたNPO法人・ふらの演劇工房にも深く関わり、同市に建てられた劇場・ふらの演劇工場にも大きく貢献している。2005年には、閉鎖された富良野プリンスホテルゴルフコースに植樹して、同地を自然の森に戻そうとするNPO法人・C・C・C富良野自然塾を開設し、その塾長に就任している[13][17]。富良野塾は、倉本の体力の限界を理由として2010年3月末をもって閉塾することが2007年3月末の卒塾式で発表され[16]、発表どおり2010年に26年の歴史に幕を閉じた。
  • 2010年4月、北海道教育大学旭川校で演劇講座を監修。同月29日、旭日小綬章受章。

人物

三度の飯よりもタバコとコーヒーが好きなことで知られる。演劇では、脚本、演出をひとりでこなす。

西田ひかるを好きな余り、愛犬に「西田」という名前をつけている[18]

人間関係

西武鉄道グループオーナーの堤義明とは、麻布中学・高校時代の同級生である[17]2005年、堤が証券取引法違反に問われた東京地裁公判においては、倉本自ら弁護側証人を申請し出廷した。また、こうした交友関係がもとになって、富良野自然塾などの事業の実現につながっている。

麻布中学・高校時代の同級生に銀座山野楽器の息子が居た縁で、山野楽器店にあった当時まだ高価だったテープレコーダーを自由に使う事が出来た。倉本は友人らと共にそのテープレコーダーを使って音声ドラマ(いわゆるラジオドラマと同じもの)を1本仕上げた。本人曰く「これが人生で最初に作ったドラマである」とのことである。

映画監督中島貞夫とは、東大在学中、ギリシャ悲劇研究会にともに所属しており、中島の初期監督作品の脚本を手がけている。

自身の母の晩年と死をモデルにしたドラマ『りんりんと』がきっかけで、晩年の田中絹代と深い交流を持ち、この交流が『前略おふくろ様』のヒットにつながる。田中の死の直後に彼女が演じる「おふくろ様」の死を描いた『前略おふくろ様』の最終回が放映されて話題となった。

『前略おふくろ様』で主演を務めた萩原健一との出会いについて「目のさめる想いがした。そしてその想いは次第に僕の中で『勝海舟』の岡田以蔵に転化していく。彼と初めて出逢ったことが、僕の中の狂気を安心させ、そうして遂に平和温厚なNHKと衝突してしまう」と語っている[19]

札幌在住当時に手がけたドラマ『幻の町』に特別出演した北島三郎に頼み込んで、一時期付き人となり巡業に同行した[20]。これはロケ地の小樽で地元民が北島に熱狂する姿を見て「この人気は何なんだ」と関心を持ったことがきっかけだった。巡業中、北島が観衆のどんなリクエストも歌うというコーナーで両者がお互いに遠慮も何もなくやり取りする模様に、自分が今まで庶民ではなく「上から目線」で批評家や業界などに気に入られるような作品を書こうとしていたのではないかという思いに駆られ、「俺は変わろう」と思った気がすると記している[20]

野沢尚三谷幸喜と3人で仕事をした際(川、いつか海へ 6つの愛の物語)、企画会議中真剣に討論している倉本と野沢を、三谷が発言せず感心しながら聞いていたところ(三谷はこのような討論をしたことがなかったため)、倉本は三谷に向って「もっと主張しなさい、君は卑怯だ」と言ったことがある[21]

2013年9月東京都三鷹市で発生した殺人事件被害者女性(当時17歳)は姪の娘にあたる。

作品の特徴

語尾を濁すような独自の口調で語られるモノローグ(ナレーション)を多用した脚本で知られる。ただし、これは『前略おふくろ様』で初めて取り入れた手法であり、それ以前には用いていなかった[22]

また、映像や音楽(BGM)まで想定した脚本を書くため、しばしば演出家や映画監督に脚本の改変を禁止することもある。もっとも、倉本自身は台本よりもよい表現方法をしてくれたときには「そっちの方がいい!そのように変えてください」と諸手を挙げて賛成するとしており、「語尾の一字一句も直すと怒ると変な噂を立てられたのは全く以て心外」と述べている[23]

うちのホンカン』、『北の国から』の初期や、映画『ブルークリスマス』では、(未知の知的生命体のものとしての)UFOが登場する描写がある。また、『火の用心』の登場人物の一人が超能力を持つなどの描写がある。『北の国から』にUFOを出したことについて、倉本は移住当時北海道でUFOを目撃したという騒ぎがよくあったことと、科学で割りきれないものやメルヘンやファンタジーを大切にしたいという思いが背景にあったことを述べている[24]

脚本家の山田太一は、刺激を受けた同業者として向田邦子田向正健、倉本の名を挙げた[25]。また、倉本作品の魅力のひとつは「間がいい」点だと評している[26]

主な作品

テレビドラマ

映画

  • 『現代っ子』(1963年、脚本)※弘田功治と共同
  • 月曜日のユカ』(1964年、脚本)※斎藤耕一と共同
  • 『くノ一忍法』(1964年、脚本)
  • 『くノ一化粧』(1964年、脚本)
  • 『北国の街』(1965年、脚本)
  • 『旗本やくざ』(1966年、脚本)
  • 『涙くんさようなら』(1966年、脚本)
  • 『遥かなる慕情 星のフラメンコ』(1966年、脚本)
  • 『おゆきさん』(1966年、脚本)
  • 『帰ってきた狼』(1966年、脚本)
  • 『涙になりたい』(1966年、脚本)
  • 『涙くんさよなら』(1966年、脚本)
  • 『北国の旅情』(1967年、脚本)
  • 『陽のあたる坂道』(1967年、脚本)
  • 『君が青春のとき』(1967年、脚本)
  • 『ザ・スパイダースのゴーゴー・向う見ず作戦』(1967年、脚本)
  • 『ザ・スパイダースの大進撃』(1967年、脚本)
  • 『昭和元禄 TOKYO196X年』(1968年、脚本)
  • 『青春の鐘』(1969年)
  • 君は海を見たか』(1971年、原作・脚本)※天知茂主演の映画版
  • ブルークリスマス』(1978年、脚本)
  • 『冬の華』(1978年、脚本)
  • 駅 STATION』(1981年、脚本)
  • 時計 Adieu l'Hiver』(1986年、監督・脚本)
  • 『海へ See You』(1988年、脚本)

舞台

  • 『谷は眠っていた』(初演:1988年)
  • 『今日、悲別で』(初演:1990年)
  • ニングル』(初演:1993年)
  • 『走る』(初演:1997年)
  • 『屋根』(初演:2001年)
  • 『オンディーヌを求めて』(初演:2001年)
  • 『地球、光りなさい!』(初演:2002年)
  • 『歸國』(初演:2009年)[13]

テレビドキュメンタリー

  • 『三井住友フィナンシャルグループ presents 森のラブレターII』(2010年、TBS系)

著書

  • あなただけ今晩は 星の世界の夕子(立風書房、1975年)
  • 倉本聡テレビドラマ集 1-2(ぶっくまん、1976年-1977年)
  • あにき(冬樹社、1977年)
  • さらば、テレビジョン(冬樹社、1978年)
  • ブルークリスマス(青也書店、1978年)
  • 新テレビ事情(文藝春秋、1980年)
  • 北の国から 前後編(理論社、1981年)
  • 君は海を見たか(理論社、1982年)
  • わが青春のとき(理論社、1982年)
  • 北の人名録(新潮社、1982年)のち文庫 
  • 前略おふくろ様(倉本聡コレクション1 - 4、理論社、1983年)
  • 6羽のかもめ (倉本聡コレクション5、理論社、1983年)
  • ガラス細工の家(倉本聡コレクション6、理論社、1983年)
  • 北の国から 1983冬(理論社、1983年)
  • さよならお竜さん(倉本聡コレクション7、理論社、1983年)
  • 幻の町(倉本聡コレクション8、理論社、1983年)
  • 文五捕物絵図(倉本聡コレクション9-10、理論社、1983年)
  • 新・新テレビ事情(文藝春秋、1983年)
  • 2丁目3番地(倉本聡コレクション11、理論社、1983年)
  • 浮浪雲 1-2(倉本聡コレクション12-13、理論社、1983年)
  • 赤ひげ 1-2(倉本聡コレクション14-15、理論社、1984年)
  • 昨日、悲別で(理論社、1984年)
  • 坂部ぎんさんを探して下さい(倉本聡コレクション16、理論社、1984年)
  • たとえば、愛(倉本聡コレクション17、理論社、1984年)
  • 大都会(倉本聡コレクション19、理論社、1984年)
  • いつも音楽があった(文藝春秋、1984年)
  • 北の国から 1984夏(理論社、1984年)
  • 駅station(倉本聡コレクション21、理論社、1984年)
  • 冬の華(倉本聡コレクション22、理論社、1984年)
  • うちのホンカン(倉本聡コレクション23、理論社、1984年)
  • 波の盆・ガラスの知恵の輪(倉本聡コレクション25、理論社、1985年)
  • ひかりの中の海(倉本聡コレクション26、理論社、1985年)
  • 祭が終ったとき 1-2(倉本聡コレクション27、理論社、1985年)
  • ニングル(理論社、1985年)
  • ライスカレー(理論社、1986年)
  • 時計 アデュー・リベール(理論社、1986年)
  • 北の国から 1987初恋(理論社、1987年)
  • 冬眠の森 北の人名録PART2(新潮社、1987年)
  • 谷は眠っていた 富良野塾の記録(理論社、1988年)
  • 海へ See you(理論社、1988年)
  • 北の国から 1989帰郷(理論社、1989年)
  • 失われた時の流れを(理論社、1990年)
  • 北の国から 1981-'89(理論社、1990年)
  • 火の用心(理論社、1990年)
  • 左岸より 一九八〇年代のエッセイ集(理論社、1991年)
  • 北の国から 1992巣立ち(理論社、1992年)
  • 上流の思想・下流の思想 対談紀行(理論社、1994年)
  • 北の国から 1995秘密(理論社、1995年)
  • 北の国から 1998時代(理論社、1998年)
  • ゴールの情景(理論社、1998年)
  • 玩具の神様(理論社、2000年)
  • 富良野風話(理論社、2000年)
  • ニングルの森 - 悠久なるものへ(集英社、2002年)
  • 北の国から 2002遺言(理論社、2002年)
  • 愚者の旅(理論社、2002年)
  • この国のアルバム 富良野風話(理論社、2003年)
  • 北の動物園(扶桑社、2004年)のち文庫 
  • 優しい時間(理論社、2005年)
  • 失われた森厳 富良野風話(理論社、2006年)
  • 拝啓、父上様(理論社、2006年)
  • 風のガーデン scenario2008(理論社、2008年)
  • 風のガーデン貞三先生の花言葉365篇 エフジー武蔵,2008.12.
  • 疚しき沈黙 富良野風話 5 理論社, 2009.10.
  • 歸國 日本経済新聞出版社,2010.7.
  • 愚者の質問 富良野自然塾倉本聰対談集 林原博光共著. 日本経済新聞出版社, 2010.11.
  • 獨白 2011年3月-『北の国から』ノーツ(フラノ・クリエイティブ・シンジケート、2011年)
  • 愚者が訊く 林原博光共著. 双葉社,2014.5.

出演

テレビ

  • いのちの響(TBS)
  • 三井住友フィナンシャルグループPresents「風がはこんできたもの~音楽の原風景~」(TBS、2011年1月31日~2月3日)
  • 『北の国から』放映30周年記念特別番組 今、五郎の生き方~2011夏 倉本聰~(BSフジ、2011年8月20日)
  • みんな子どもだったBS-TBS2012年4月 - )

ラジオ

関連人物・項目

脚注

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外部リンク

テンプレート:毎日芸術賞
  1. エッセイ集『北の動物園』(扶桑社、2004年)「生年月日」の章を参照 72頁
  2. 『獨白 2011年3月』p142
  3. テンプレート:Cite news
  4. 『獨白 2011年3月』p44、p129
  5. 『獨白 2011年3月』p130
  6. 『獨白 2011年3月』p129
  7. テンプレート:Cite web
  8. 8.0 8.1 ペンネーム「倉本聰」が会社に内緒で脚本執筆していたころ - dot.・2012年12月22日
  9. 『東芝スーパーサウンドグラフィティ The History of the Radio』(ニッポン放送、1989年1月1日)
  10. 『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』、角川書店、2004年、165-166頁
  11. 『愚者の旅』(理論社、2002年)
  12. NHKとはこのトラブルから20年以上絶縁状態にあったが、1999年の『玩具の神様』で復帰した。
  13. 13.0 13.1 13.2 「時代を駆ける:倉本聰:SOH KURAMOTO(1)」 『毎日新聞』 2009年11月16日、13版、5面。
  14. この移住に際しては、向田邦子から「あんたバカなことおやめなさい。東京を離れたら仕事なンて来ないわよ」と説教されたという(『獨白 2011年3月』p14)。倉本は当時を振り返って「仕事はもうどうでもよくなっていた」と述べている。
  15. このときの経験について後年、「もう二度と監督はやらない」と述べている(『獨白 2011年3月』p186 - 187)。
  16. 16.0 16.1 「時代を駆ける:倉本聰:SOH KURAMOTO(5)」 『毎日新聞』 2009年11月24日、13版、9面。
  17. 17.0 17.1 「時代を駆ける:倉本聰:SOH KURAMOTO(2)」 『毎日新聞』 2009年11月17日、12版、9面。
  18. 『A-Studio』(TBSテレビ、2010年10月15日)内で二宮和也が証言
  19. 『倉本聰 テレビドラマ集-1 うちのホンカン』(バップ出版、1976年)
  20. 20.0 20.1 『獨白 2011年3月』p10 - 13
  21. 『三谷幸喜のありふれた生活3 大河な日日』(朝日新聞社、2004年、100頁)
  22. 倉本は日活の契約ライターだった時代にプロデューサーから「ナレーションと回想は卑怯な手法」と叩き込まれてそれを忠実に守っていた。山田太一が『それぞれの秋』(1973年)でナレーションを使っているのを見て「こんな手もありだな」と思い、導入することにしたという。その際、山下清の口調を模倣したことで「 - なわけで」といった文体が出ることになった(『獨白 2011年3月』p51 - 52)。
  23. 『獨白 2011年3月』p265。ただ、語尾については「語尾は性格を表現するので、語尾ほど大事なものはない」とも語っている。
  24. 『獨白 2011年3月』pp224 - 229
  25. 別冊宝島『シナリオ入門』(宝島社、2004年)
  26. 『逃げていく街』(新潮文庫、1998年)