佐脇良之

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佐脇 良之(さわき よしゆき)は、戦国時代武将尾張国海東郡荒子(愛知県名古屋市中川区荒子)の土豪・前田利春の五男。前田利家の弟。

生涯

幼い頃から刀の扱いに長けていた。佐脇家(佐脇興世)へ養子へ行き、織田信長小姓として仕え、永禄元年(1558年)の浮野の戦いに参加[1]。永禄年間の初めには、兄利家とともに赤母衣衆となっている[2]。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いでは、急遽出陣した信長に岩室重休長谷川橋介山口飛騨守加藤弥三郎とともに真っ先に従った[3]。永禄12年(1569年)の大河内城の戦いでは、尺限廻番衆を務めた[4]

その後、長谷川・山口・加藤とともに信長の勘気をこうむったため勘当され、ともに徳川家康のもとに身を寄せた。その際の待遇は不明であるが、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参戦し、長谷川ら3人とともに討死した[5](負傷し、その傷がもとで没したともいう)。

家族構成は、妻(出身氏族不詳)との間に娘(実名不詳、法号「圓智院妙浄」)が一人。娘は前田利家・まつ夫妻に養育され、長じて前田氏家臣の篠原一孝の正室となり、戦国女性の代表的な肖像画を妙法寺金沢市)に残した。また、息子の佐脇久好は、良之の妻が前田利次の乳母になった関係から利次に仕え、富山藩士となった。

登場作品

脚注

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  1. 太田牛一信長公記』 巻首 「浮野合戦の事」
  2. 高木文書
  3. 太田牛一 『信長公記』 巻首 「今川義元討死の事」
  4. 太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」
  5. 太田牛一 『信長公記』 巻五 「味方か原合戦の事」