佐竹義堯

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佐竹 義堯(さたけ よしたか)は、出羽岩崎藩の第7代藩主。後に出羽久保田藩第12代(最後)の藩主となる。

生涯

文政8年(1825年)7月27日、陸奥相馬中村藩主・相馬益胤の三男として生まれる。

天保10年(1839年)に元服し、相馬宗胤(そうま むねたね)と名乗る。嘉永2年(1849年)2月26日、久保田新田藩(岩崎藩)主・佐竹義純養子となる。それに伴い佐竹義核(さたけ よしざね)と改名した。4月2日、養父・義純の娘と婚儀を行う。4月26日、将軍徳川家慶に御目見する。10月26日に養父・義純の隠居により、久保田新田藩佐竹家の家督を相続して岩崎藩の第7代藩主となった。なお、佐竹家と相馬家は相互に養子をとるなど親戚関係にあり、義堯は久保田藩の第3代藩主・佐竹義処の直系子孫にあたる。

安政4年(1857年)7月1日、本家の久保田藩主・佐竹義睦が病死したのに伴い、7月20日に義核は末期養子として久保田藩佐竹家の家督を相続して同藩の第12代藩主となり、同時に佐竹義就(よしたか[1])と改名する。久保田新田藩佐竹家は実弟の佐竹義諶(益胤の四男)が相続した[2]。12月16日、従四位下・侍従・右京大夫に叙任された。文久2年(1862年)に佐竹義堯と改名している。

安政6年(1859年)5月、秋田に入部した。入部間もない7月1日、男鹿半島沖合にロシア汽船が現れ、領民を驚かした。当時は攘夷論がかまびすしい時期であったが、義堯はロシア船員の薪の求めを許可した。藩内の情勢に目をやると、当時の久保田藩は財政事情が悪化しており、就封早々に人事刷新を始めとする藩治の改革を行う。自ら範を垂れ質素倹約に励み、文武を奨励した。

文久2年(1862年)4月に江戸に上る。同年9月28日、将軍徳川家茂に従い上洛する許可を得る。文久3年(1863年)1月12日に江戸を出発し、27日に京都に到着する。同年2月9日、孝明天皇に拝謁する。同年3月14日、帰藩する許可を得る。同年4月1日に江戸に到着し、9日に秋田に出発する。同年7月25日、上洛を命じられるものの、病気を理由に代理として重臣戸村義效(十太夫)を派遣する。同年11月15日、将軍の上洛中にともない、幕府から江戸の警備を命じられる。 元治元年(1864年)2月19日、幕府から京都警備を命じられる。その財源として、2万両の新札発行と3万5000石の用米調達に取りかかった。同年4月17日、従四位上左少将に任官する。 慶応元年(1865年)11月8日、幕府から翌年春の京都警備を命じられる。同年12月22日、病気を理由に翌年秋の京都警備へ変更することを許可される。慶応2年(1866年)7月、病気を理由として名代小野岡右衛門を上洛させた。同年8月13日に義尭も秋田を出発し、29日に江戸を到着するものの、病気のためにそのまま江戸に留まった。

慶応3年(1867年)8月11日、左中将に任官する。同年8月25日、前年の凶作に苦しむ領民の救恤のため帰藩を願い出たが許可されず、その間に持病が再発する。同年11月に重臣を上洛させて、12月23日に藩主義尭は秋田に向けて出発した。江戸に逗留中王政復古の大号令がなされた。慶応4年(1868年)の1月に帰藩し、3月に名代として小野岡右衛門を上洛させることに決定する。

慶応4年に戊辰戦争が勃発すると、新政府から4月6日に庄内征討、4月27日に会津征討の命令を受ける。同年閏4月9日、奥羽鎮撫使副総督沢為量から庄内征討への出発の遅れを責められる。同年5月、沢為量が薩長藩兵とともに秋田藩領に撤退してくる。秋田藩では弘前藩に追い払おうとするものの失敗する。同年7月、奥羽鎮撫使総督九条道孝らが秋田藩領に撤退してくる。その受け入れを責める仙台藩の使者を尊攘派の秋田藩士が殺害したことから、秋田藩は新政府側に明確に与することになった。戊辰戦争は明治2年(1869年)に終結した。同年2月13日、戦争による領内疲弊のために新政府から20万両を賜った。

明治2年6月17日、版籍奉還がなされると義堯は秋田藩知事に任命される。明治4年(1871年)の廃藩置県により、免職となり、その後東京に転居した。 明治5年(1872年)8月2日に隠居し、甥(弟・義諶の長男)で養嗣子(婿養子)の義脩に家督を譲った。明治14年(1881年)8月16日、義脩を隠居させて、再び家督を相続した。明治17年(1884年)7月7日に侯爵となる。直後の10月23日、病気のために死去した。享年60。

明治41年(1908年)に正二位を追贈される。佐竹侯爵家は次男の義生が継承している。

逸話

  • 3人目の正室である青山忠良丹波篠山藩主)の娘との結婚は、大名間の結婚としては当時としては珍しい見合いによるものだった。義堯は見合いをして一度でこの娘の美貌に惚れ込み、結婚を承諾したという。ところが輿入れしてきた花嫁は似ても似つかぬ醜女であったことに驚き、忠良に問い合わせてみると、娘が醜いことから縁組の当てがなくて困った忠良が見合いのときに替え玉を立てていたのだという。とはいえ、一度承諾した以上は結婚するしかなく、義堯はやむなく醜女を正室にした。しかしわずか9日後に理由を付けて離婚したというテンプレート:要出典

脚注

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  1. 最終的に名乗る「義堯」と同じ読みと思われる(「就」を「たか」と読む例は長州藩主の毛利重就およびその偏諱を受けた家臣たちに見られる)。
  2. この時には、義核(義堯)の従兄弟にあたる佐竹義祚(初め相馬博胤)が息子・義寿の久保田新田藩佐竹家相続を実家の中村藩相馬家に働きかけるといった出来事も起きたが、のちに義祚は戸村義效へお預けの身となっている。