佐久間精一

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佐久間 精一(さくま せいいち、1929年 - )は神奈川県を中心に活動している日本のアマチュア天文家で、川崎天文同好会及び日本変光星研究会の会員でもある。大手化学工業メーカーに勤務し、戦後復興期より変光星の観測に尽力した。天文ファン以外の一般人からみれば、かつての「科学技術伸長度ナンバーワンの国・日本」を支えた典型的な日本人のひとりと言える。

人物

佐久間が活躍した時代は、日本の高度成長期に当り、科学技術の歪も顕著となった。たとえば彼の地元・川崎市では川崎喘息、大気汚染問題がクローズアップされ、職業がら公害問題にも関心が深かった。小惑星6809番は、彼の変光星天文学を中心とする、天文学全体への寄与を記念し命名された。

彼は、天文家の立場から、光害問題の啓蒙に尽力した。口径5センチの双眼鏡で、冬にすばる、夏にこと座の「落ちる鷲」部分の限界等級を測定する方法を発案、普及したのも彼である。これは富士山の視程観測等から大気汚染を測定する従来方法とは別に、空の透明度を測る方法と当時はみなされた。大気汚染と光害とを関連づけながら、環境省(当時の環境庁)が環境問題として光害を問題視する端緒となり、その後の光害問題の取組み全体に大きな影響を与えた。

もともと恒星の観測限界等級に関心のある彼は、はやくから光害問題に注目し、早期の陳情活動に加わっている。「当時水俣病患者の陳情団とすれ違った時、『光害反対の側に立つ人間は、本質的にお上の側である。』と言われ、悲しかった」との語録を残す。その水俣病問題が、総じて患者の言い分が受け入れられながら和解が進む中、「体制側」のはずの光害が、必ずしも解決したと言えないのは、なんとも皮肉な事である。

佐久間はまた、星空を守る会会長で天体力学の権威・古在由秀天文学者国立科学博物館の元理工学研究部研究官・村山定男とも交流があり、村山が始めた国立科学博物館を拠点とする地域天文サークル活動にも早くから参画し、東京・下町周辺の天文学普及活動に影響を与えた。後に村山は天文博物館五島プラネタリウムの館長になったが、佐久間も、そこの幹事役の会に加わって、活動を最後まで助成している。

日本ではすっかり多数派意見となった、「無駄な公共事業による地域の問題」に、地元で率先取組み、非営利団体を設立し活動している。

関連項目

外部リンク