伊達宗利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年9月20日 (金) 12:26時点における133.205.3.225 (トーク)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

伊達 宗利(だて むねとし、寛永11年12月18日1635年2月5日)- 宝永5年12月21日1709年1月31日))は、伊予国宇和島藩の第2代藩主。

初代藩主・伊達秀宗の三男。母は浅井氏。正室は松平光長の娘・大通院(稲姫)。側室に昆陽野氏、元泉氏、田部氏、入野氏、古谷氏がいる。子は豊姫真田幸道正室)、娘(伊達宗贇正室)、娘(京極高或正室)、娘(伊達宗職養女)。官位は従四位下。大膳大夫、侍従、遠江守。

生涯

寛永16年(1639年)2月15日に元服する。長兄の宗実が病弱のため嫡子を辞し、次兄の宗時が父に先立って死去したため、明暦3年(1657年)7月21日、父の隠居により家督を継ぐ。寛文10年(1670年)から八十島親隆を検地奉行として検地制度や村役人制度を確立し、元禄元年(1688年)には紙専売制度も実施するなどして藩政の基盤を固めた。しかし藩主の居殿である浜屋敷の造営、宇和島城の大改修など出費も相次ぎ、藩財政は苦しかった。本家の仙台藩伊達騒動が起こったときには、今村善太夫ら罪人を預かっている。

元禄6年(1693年)11月14日、家督を養嗣子で娘婿の宗贇に譲って隠居し、宝永5年(1708年)12月21日に75歳で死去した。法号は天梁院殿賢山紹徳大居士。

系譜

テンプレート:宇和島藩主 テンプレート:伊予宇和島伊達家