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'''仏教治国策'''(ぶっきょうちこくさく)は、[[中国]]・[[隋]]の[[楊堅|文帝]]の特徴的な仏教政策を指す。 == 概要 == 隋に先立つ[[北周]]では、第3代皇帝[[武帝 (北周)|武帝]]の時代に、[[儒教]]・[[仏教]]・[[道教]]の三教に対する宗教政策(文教政策)の論議が盛んに行われていた([[三教]]談論)。その後、親政を執った武帝は古代の[[周]]朝への復古主義を唱え、仏教・道教の二教を廃し、儒教のみを尊重した。仏教・道教の廃教政策は、[[寺院]]と[[道観]]が抱える財力や人力を、対外戦争に活用することが目的であった。 その武帝亡き後の政権争いに勝利し、隋朝を建てた文帝は、一転して仏教・道教の部分的な復興という政策を採った。さらには、仏教を主とし、儒教・道教を副として扱う仏教治国策を始めた。 具体的な施策としては以下が挙げられる。 * 国寺としての[[大興善寺]]を国都の[[大興]]城の中心に建立 * 「五衆」や「二十五衆」と呼ばれる教化担当の[[僧官]]の設置 * 晩年の[[仁寿 (隋)|仁寿]]年間([[601年]] - [[604年]])の、全国諸州への[[仁寿舎利塔 |舎利塔]]建立 このような政策は、続く[[唐]]朝や[[武則天]]、さらには[[日本]]の[[奈良時代]]の仏教政策に受け継がれることとなる。ただし、同じ李姓であった[[老子]]を祖と仰ぐ唐朝は、仏教の地位を道教の下に置き、同じく仏教を道教の上に置いた武則天の治世も短命に終わったため、中国史上において、仏教治国策は特異な政策といえる。 同じく奉仏皇帝として知られる[[梁 (南朝)|梁]]の[[蕭衍|武帝]]と対比的に語られることが多い。しかし、梁の武帝の場合は皇帝の個人的な信仰に基づく修[[功徳]]行為に対し、隋の仏教治国策は、公共事業としての仏教施設建立や、農民への宗教政策など、国家全体の政策として取り組まれていた点が大きく異なる。 == 参考文献 == * [[山崎宏]]『隋の高祖文帝の佛教治國策』東方書院、1934年。 * 山崎宏『支那中世仏教の展開』清水書店、1942年。 * 浅田守「隋代仏教政策に関する研究」『龍谷大学大学院研究紀要』9号、1988年。 {{DEFAULTSORT:ふつきようちこくさく}} [[category:中国仏教]] [[category:宗教政策]] [[Category:隋朝]] [[Category:仏教の歴史]]
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