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'''仏図澄'''(ぶっとちょう、skt:buddhacinga、[[232年]] - [[349年]][[1月13日]]([[永和 (東晋)|永和]]4年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]))は[[中国]]の[[神異]]僧の第一に挙げられる、[[五胡十六国]]時代の[[西域]]からの渡来僧。姓は帛、[[亀茲]]国の出身であるという。[[烏萇]]で出家したのち、[[罽賓]]で仏学の研鑚に励んだ。 ==概要== 一般的に西域からの渡来僧は、[[竺法護]]や[[鳩摩羅什]]に代表されるように、[[サンスクリット]]等で書かれた将来仏典を漢字に翻訳する、[[訳経]]を行う[[訳経僧]]であることが多いが、中には、訳経を全く行わなかった渡来僧もいた。その代表的な人物が仏図澄である。 [[310年]]([[光興 (前趙)|光興]]元年)[[洛陽]]にやって来て、寺院を建立しようとしたが混乱により果たせなかった。 仏図澄がやって来た当時の中国は、[[永嘉の乱]]等の動乱によって[[西晋]]が滅亡し、南には[[東晋]]が成立し、北では塞外より侵入した[[五胡]]と総称される異民族が各地に国を建て分裂していた時代、いわゆる[[五胡十六国]]時代であった。 仏図澄は、[[後趙]]の[[石勒]]・[[石虎]]に軍師として重用され、戦地において数々の予言を行った。それによって石勒や、凶暴な性格であった石虎の信頼を獲得し、高邁な教理ではなく、日常的な点などにおいて彼らを教え導いたと、『[[高僧伝]]』や『[[晋書]]』の本伝では伝えている。また、その教えの要諦は、人目を引く神異の力ではなく、持律堅固な生活態度にあった。自らの持戒は言うに及ばず、石勒や、石虎のような残虐さで知られる五胡の君主に対しても、五戒の堅持を求めたことが記される。石勒より「'''大和尚'''」の称号を与えられた。また、彼の力によって仏寺は893寺が建立され、門信徒の数は1万に上ったという。後趙の建武十四年([[348年]]、西暦では[[349年]])、[[ギョウ|鄴]]の宮寺で亡くなった。117歳の大往生と伝えられている。 また、仏図澄が中国の仏教史において重要なのは、第一に、石虎に対して漢人一般住民の出家を公許するよう導いたことである。第二には、仏図澄の数多くの弟子の中から、中国仏教の基礎を築くことになる'''[[釈道安]]'''が出ていることである。竺法護のような訳経僧のもとではなく、仏図澄のような神異僧の門下から、正統的な中国仏教の提唱者が現れたところに、[[禅宗]]や[[浄土教]]に代表される、後の実践的な中国仏教の原形を見ることができる。 また、彼の門下からは、[[泰山]]の[[竺僧朗]]、[[四川]]に仏教を広めた[[竺法和]]、[[東晋]]で活躍した[[竺法汰]]に代表される、多くの高僧が輩出している。 == 伝記資料 == *『[[高僧伝]]』巻9「[[晋 (王朝)|晋]]鄴中竺仏図澄伝」 {{DEFAULTSORT:ふつとちよう}} [[Category:西域の僧]] [[Category:魏晋南北朝時代の人物]] [[Category:232年生]] [[Category:349年没]]
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