五条大橋

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五条大橋(西詰より)
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扇塚(五条大橋西詰)
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牛若丸・弁慶像

五条大橋(ごじょうおおはし)は、京都府京都市を流れる鴨川に架設された

五条通国道1号国道8号)の一部として供されている。また、橋の付近の鴨川は下京区東山区の境界になっている。

橋上からは東山の山々を望むことができる。

歴史

古くから、洛中から鴨川東岸への、特に清水寺参詣のための便として架橋されていた。当時は木橋で、鴨川中州を介して二つの橋に分かれていた。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により三条大橋とともに増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。その時までは平安京五条大路の東の端、今の松原橋の位置にかかっていたが、御土居築造に伴って従来の五条大橋は撤去され、郊外へ続く街道筋に当たっていた六条坊門通に架橋され、以後、これを五条橋と称した。通りの名も当初は五条橋通、後に五条通とよばれるようになった(当初は五条松原通と呼ばれていた旧五条通もやがて松原通と呼ばれるようになった)。秀吉はこの橋を東国に至る渋谷街道への入り口とするとともに、伏見街道への入り口ともした(「伏見口」)。五条大橋東畔近くには秀吉の開創した東山大仏(方広寺)もあった。江戸時代になって鴨川河原に高瀬川が開削されたが、三条大橋が高瀬川を渡る三条小橋を伴ったのに対し、五条大橋は小橋を伴わず一気に架け渡す長大なものであった。この秀吉時代に造られた橋の橋脚がなお、昭和期まで河中に残されていたが「鴨川洪水」の後に川底が掘り下げられたため撤去され、のちに京都国立博物館の庭に展示された[1]

1935年(昭和10年)6月28日深夜から29日にかけての「鴨川水害」では、上流の団栗橋・松原橋と共に流され、翌30日には第十六師団の工兵隊が出動、仮橋を仮設したが8月に発生した2度目の水害で仮設橋も流失した[2]

現在の橋は五条通拡幅工事にともない1959年(昭和34年)3月2日に架け替えられたものである[3]

逸話

尋常唱歌の『牛若丸』によれば、五条大橋は弁慶牛若丸が出会った場所とされる。ただし異説もある。『義経記』によれば2人の出会いは清水観音の境内とされる。また、平安時代の五条通は現在の松原通に相当することから「五条の橋」は現在の松原橋付近とする説[4]や2人の出会いの地は西洞院であったとの推測もなされている[5]

現在の橋の西側(河原町通との交差点近く)の中央分離帯には、その状景を模した京人形(御所人形)風の2体の石像(社団法人京都青年会議所寄贈)が設置されたが、2009年4月に始まった下水道工事[6]にともない扇塚(後述)の西側に移設された。が下水道工事の終了に伴い2012年4月に中央分離帯に再設置され、併せて噴水や時計台が設置されている[7]

周辺

橋の西北側には、かつてこの地にあった御影堂扇にちなんだ「扇塚」がある。

橋の東側には、地下に京阪本線清水五条駅があるほか、同駅付近からさらに東に伸びる五条通は五条坂と呼ばれており、大谷本廟清水寺付近へ続いている。

脚注

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外部リンク

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座標: [[[:テンプレート:座標URL]]34_59_44.63_N_135_46_4.39_E_type:landmark_region:JP-26 北緯34度59分44.63秒 東経135度46分4.39秒]
  1. 橋石材(はしせきざい)(西の庭の展示作品) - 京都国立博物館(2010年9月12日閲覧)
  2. 出典:植村善博著「京都の治水と昭和大水害」(文理閣)
  3. 出典:写真集「昭和の京都」ISBN978-4-8381-0427-7 光村推古書院刊 巻末年表より
  4. 五条大橋
  5. 出典:鉄道ピクリアル1984年1月増刊号「特集 京阪電気鉄道」の118ページの京都大学名誉教授宍戸圭一の寄稿に京阪開業時の起点の五条大橋の歴史に関して、牛若丸と弁慶の出会いの地について「松原橋」が昔の五条大橋・当時鴨川に橋は無く松原西洞院の「五条天神社」の森、西洞院川に架かる橋・洛北大徳寺の北方の紫竹牛若町付近の「ごじょう橋」と音読みできる橋など、諸説が有る事が書かれている
  6. 京都市上下水道局2009年11月20日広報資料
  7. 出典:京都新聞2012年4月19日朝刊・京都市地域版19面の掲載記事より