久我美子

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テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:ActorActress 久我 美子(くが よしこ、1931年1月21日 - )は、日本女優。身長153cm[1]。本名:小野田 美子(おのだ はるこ)、旧姓:久我(こが)。所属芸能事務所ワタナベエンターテインメント

経歴

久我家(こがけ)は村上天皇まで遡る村上源氏の流れを汲む華族家柄で、東京市牛込に生まれる。1946年学習院女子中等科在学中、第一期東宝ニューフェイスに合格。同期に三船敏郎堀雄二伊豆肇若山セツ子堺左千夫らがいる。1947年学習院を中退し、『四つの恋の物語』で映画デビューを果たす。

1950年の映画『また逢う日まで』での岡田英次との窓硝子ごしの接吻を演じた(日本の映画界では1960年代のはじめ頃まで接吻のクロースアップはタブーだった)。

1954年岸恵子有馬稲子とともに文芸プロダクションにんじんくらぶを結成した。

1961年、俳優と結婚する気はなかったが、平田昭彦からの猛烈な求愛の末に結婚した。

1969年より約1年間、『3時のあなた』の司会を務めるなど、1970年代以降はテレビ・舞台を中心に活躍する。

1989年の映画『ゴジラvsビオランテ』では亡き夫・平田の遺志を受け継いで女性官房長官役で出演。当時史上初の女性官房長官である森山眞弓とシンクロしたことが報道された。

2004年、義姉にあたる女優・三ツ矢歌子(久我の方が年上)死去の時に、久々に公の場に姿を見せた。

人物

撮影所では本名の「はるこちゃん」と呼ばれた。稲垣浩は礼儀正しい久我のファンで、1957年の映画『柳生武芸帳』で竜造寺の姫君役で起用したのは、いつか折を見て『風林火山』映画化が実現した際に「由布姫」役にと考えていたからだったという。結局映画化は12年後(1969年)になり、稲垣は「私の夢は果たせなかった」と悔やんでいる。

また稲垣は久我について、「日本が戦争に負けたおかげで、侯爵の姫君が女優となったのだが、もし戦争に勝っていれば美子さんは尼寺の人となっていたかもしれない、そう思うと敗戦は久我家にとって幸福とは言えなかっただろうが、美子さんにとっては自由に生きる道がひらかれたと言っていいのかもしれない」とし、黒澤映画での「はる子ちゃん」は、「まる顔で、はつらつとしていた」、「太い眉毛、八重歯、特徴のある声帯、どれもこれもそれまでの映画女優になかった新鮮さがあった」と評している。

稲垣はロケ先で久我とマージャンをしてよく負けたが、久我に「先生、お願い、上らせて」と言われると「魔術にかかったように彼女に振り込んでしまった」という。「少しも口惜しいと思わなかった、たぶん、(久我に)いかれていたのだろう」と語っている。稲垣は藤本真澄の頼みで、久我と平田昭彦の結婚媒酌人を務めている。両者の馴れ初めは、稲垣の『大坂城物語』(東宝、1961年)での共演からで、それから半年ものあいだ、映画界にも週刊誌にも気づかれなかった二人の巧妙な恋愛は、さすが東大出身と元侯爵令嬢だけあると噂されたという[2]

テンプレート:出典の明記 若き日より家柄・容姿のみならず、演技面も芯の通った内面と気品が見るものにも伝わる確かな実力があった。日本映画史を代表する数々の名監督達も、こぞって彼女を起用した(下記参照)。平田との結婚後も、そして死別後も、長年にわたって女優活動を続けたが、近年はほとんど活動休止状態となっている。

なお彼女が公家育ちの名家の出身ながら芸能界を志した理由は、祖父の常通が当主だった大正時代から続く久我家の経済状態の悪化を打開するためであった。当時の久我家は、世間知らずの祖父や父親が、高利貸しに金を借りて慣れぬ事業に手を出して失敗し家屋敷を押さえられた上に、さらにその窮状に付け込まれ、ある詐欺事件の首謀者の濡れ衣を一時着せられて新聞沙汰になったこともあるほど経済的に追い詰められており、この事件以降も生活は相変わらず苦しいままであった。

美子の東宝ニューフェイスへの応募は、上記の家庭状況に加え、戦後の華族制度廃止でますます実家の生活が悪化することを憂慮し、家計を助けるため職につきたいという一心からのものであったが、実家からは「体面を汚す」と猛反対された。結局美子が「久我(こが)」姓を名乗らないことと、住所を親類宅に移すことという条件で芸能活動を許された。漢字は同じでも本名「こが はるこ」が芸名「くが よしこ」と異なるのはこのためである。

家族・親族

久我家

東京都
久我家は、村上天皇の皇子具平親王の子源師房を祖とする平安朝の前期(10世紀)から続く公家名門である[3]師房は当時の朝廷が藤原氏一色だった時代に、他の姓にもかかわらずに、右大臣、太政大臣になった人物である[3]
なお、公家の家格には、第一等の「摂家」から、順に「清華家」、「大臣家」、「羽林家」、「名家」などがあり、久我家は、第二等に位する「清華家」の家格が与えられており、「清華家」の九家の中で筆頭に上げられている[3]
  • 祖父・常通[4](侯爵、貴族院議員)
1873年明治6年)生[3] - 1950年昭和25年)没[3]
1982年(昭和57年)没[4]
  • 母・与志江[4]
与志江の実家は日本橋べっ甲問屋を営んでいた「篠崎商店」[5]セルロイドを扱ってかなり大きな商売をしていた商店である[5]。通顕と結婚する時のことについて与志江によれば「当時は実家が平民、嫁ぎ先が華族さまというんで、宮内庁がずいぶん調べたそうです[5]。何でも親族を七代前まで調査するんだとかいわれて平民同士の結婚のように簡単にいかなかったようですよ[6]。わがままいっぱいに育って『お嫁にはいかないっ』ていってたんですが、そこに華族さまからのお話があったんです[6]。祖母が『末代までの誉れです』とすっかり感激して私に頼み込んだものです[6]」という。
1927年(昭和2年)12月生 - 1984年(昭和59年)7月没

主な出演

映画

ファイル:Mata au hi made 2.jpg
『また逢う日まで』(1950年)で岡田英次

太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品

テレビドラマ

バラエティー番組

関連書籍

テンプレート:Sister

  • 水野晴郎と銀幕の花々』(近代文芸社。水野による久我を含む女優達のインタビュー集)
  • 『君美わしく 戦後日本映画女優讃』(川本三郎著。文藝春秋。川本による久我を含む女優達のインタビュー集)
  • 『小津安二郎新発見 松竹編』(講談社) ISBN 4-06-206681-5
  • 『明治・大正・昭和 華族事件簿』(千田稔著。新人物往来社

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:ワタナベエンターテインメント テンプレート:毎日映画コンクール女優助演賞

テンプレート:ブルーリボン賞助演女優賞
  1. タレントデータバンク
  2. 『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 『日本の名家』239頁
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 『日本の名家』238頁
  5. 5.0 5.1 5.2 『日本の名家』241頁
  6. 6.0 6.1 6.2 『日本の名家』242頁