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'''中島 力造'''(なかじま りきぞう、[[安政]]5年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]([[1858年]][[2月21日]]) - [[大正]]7年([[1918年]])[[12月21日]])は[[倫理学]]者。[[同志社英学校]]最初の学生のひとりで開校当初[[元良勇次郎]]、[[上野栄三郎]]とともに真っ先に駆けつけた。 == 経歴 == [[丹波国]]福知山(現[[京都府]][[福知山市]])出身。[[明治]]11年([[1878年]])、[[新島襄]]は[[津田仙]]の要請を受け学農社の教師として中島を東京に送り出し、それに伴い退学。 明治13年([[1880年]])、渡米。ウエスタン・レゾルス・アカデミーに入学し卒業後、[[イェール大学]]に進学し[[Ph.D]]を取得。イェール大学講師を勤めその後、[[イギリス]]、[[ドイツ]]に留学。 明治23年([[1890年]])に帰国し、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]講師を経て[[帝国大学]]文科大学教授に就任。[[倫理学]]の講座を担当した。 日本に初めて[[トーマス・ヒル・グリーン|T・H・グリーン]]の思想を導入。その普及に努め、功利主義から理想主義への[[倫理学]]の拡充を図り、倫理学の学としての独立性を確立した。personalityやpersonの訳語として「人格」を定着させたのも彼の功績である(もともと「人格」という語はカント哲学に基づく[[倫理学]]的用法によるものだった)。 {{DEFAULTSORT:なかしま りきそう}} [[Category:日本の哲学者]] [[Category:同志社英学校出身の人物]] [[Category:倫理学者]] [[Category:帝国学士院会員]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:イェール大学の教員]] [[Category:丹波国の人物]] [[Category:京都府出身の人物]] [[Category:1858年生]] [[Category:1918年没]]
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