上杉斉憲

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テンプレート:基礎情報 武士 上杉 斉憲(うえすぎ なりのり)は、出羽米沢藩の第12代藩主。第11代主・上杉斉定の長男。父同様、将軍徳川家斉偏諱を賜って、斉憲と名乗る。のちに父と同名の斉定とも名乗っている。

生涯

文政3年(1820年)5月10日、出羽米沢藩主・上杉斉定の長男として生まれる。幼名は鶴千代。

天保7年(1836年)10月23日、従四位下侍従兼式部大輔に叙任。天保10年(1839年)4月3日、家督を継ぐ。同年同月11日、弾正大弼に転任。侍従如元。安政3年(1856年)に海外防備による出費のために藩士の知行借り上げを復活。同年12月16日、左近衛権少将を兼任。侍従を去る。

安政6年(1859年)には種痘を藩内に推奨した。文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたり、9月22日、左近衛権中将に転任。弾正大弼如元。元治元年(1864年)5月1日、従四位上に昇叙。左近衛権中将兼弾正大弼如元。

藩政改革に努め、軍隊の洋式訓練方法を取り入れるなど、藩政に大きな成功を収め、慶応2年(1866年)にはこの功績を賞され3万石の加増を受けている。上杉家の領地が増やされるのは実に2世紀半ぶりのことで、豊臣政権時代に越後から会津に加増転封になって以来のことである。この一事が非常な喜びとなったか、かつての名君・上杉治憲(鷹山)に次ぐ名君とまで呼ばれた。開明的な人物で、開国にも積極的だったという。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起きて会津藩と共に米沢藩も討伐の対象とされたが、当初は斉憲は新政府の意向に従って恭順を考えていた。しかし、その嘆願を望んで送った書状を新政府に握りつぶされたため、これに怒って仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主となり、新政府軍と戦った。米沢軍は一時は新政府軍を圧倒し、新潟港を奪い返すまでに至ったが、慶応4年(1868年)5月に新発田藩の寝返りもあって新政府軍の猛攻を受け敗走する。

その後、旗色が悪くなったため、やむなく新政府軍に降伏した。そして、それまで味方であった会津と庄内に兵を送ったため、「裏切り者」と称された。明治維新後、奥羽越列藩同盟の盟主であったことを咎められて、領地を14万石に削減されてしまった。また、明治元年12月7日、家督を長男・茂憲に譲り隠居した。慶応4年8月3日、解官。明治2年(1869年)9月28日、従五位に叙位。

明治22年(1889年5月20日、死去。享年70(満68歳没)。

斉憲家臣

元治元年の江戸武鑑に見られる主要家臣は以下のとおり

家老、奉行、侍頭及び分領家】

本庄弥次郎、長尾権四郎、中条豊前、千坂琢磨色部長門、毛利治部、竹俣美作、市川美濃、清野大学、島津玄蕃、平林内蔵助、竹俣直蔵、広居図書、莅戸孫七郎

【中老】

杉原石見

用人

深澤五平太、甘粕数右衛門(甘粕継成か?)、小倉将監、樋口伊織、額田求馬、木滑要人(城使兼務)、若林作兵衛、登坂八兵衛、

【世子傳役】

松本彦左衛門

【世子附き用人】

大瀧新蔵、増岡孫次郎

【御城使】

額田卯右衛門

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