上小阿仁村

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テンプレート:Infobox 上小阿仁村(かみこあにむら)は、秋田県の中央部に位置するである。

地理

隣接している自治体

人口

秋田県の市町村の中で最も人口が少なく最も高齢化過疎化空洞化が進んでいる。

2007年平成19年)から2009年(平成21年)にかけて、毎年自殺者が4、5人出ており、10万人あたりの自殺率に換算すると、150ポイント前後と、きわめて高い値となっていた。このため、村では2010年(平成22年)度から自殺予防への取り組みを行う集落に助成する制度をスタートさせた[1]。その成果もあってか、2010年(平成22年)の自殺者数はゼロ[2]となり、翌2011年(平成23年)も自殺者は1人[3]と、以前と比較して自殺率は大幅に改善している。

テンプレート:人口統計

また、合わせて少子高齢化に対応するため、子宝祝金制度を実施している[4]。転勤による異動者、里帰り出産を除く村民に対し、第1子から出産時の一時金および第3子から月ごとに支給する制度で、一人当たりの支給最高額は第4子以降が6歳まで村内に在籍した場合で、合計272万円支給される。

出産時一時金 月ごと支給額(6歳まで) 一人当たり支給額合計 6年間最高支給額・総合計
第1子 50,000円 - 50,000円 50,000円
第2子 500,000円 - 500,000円 550,000円
第3子 1,000,000円 10,000円 1,720,000円 2,270,000円
第4子以降 2,000,000円 10,000円 2,720,000円 4,990,000円(4子)
2,270,000円+2,720,000円×4子以降の人数

村長

歴史

  • 1591年天正19年)、秋田実季太閤検地による領地目録の中に「小阿仁村」として記録されている。[5]
  • 1813年文化10年)、旧北秋田郡荒瀬村根子集落(現在の北秋田市阿仁根子)のマタギ「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」が八木沢集落に移住、定着する。徳助は村田組に所属するマタギ、三之助は山田六之丞シカリから分家、七左衛門も善兵衛シカリから分家している。
  • 1822年文政5年)、萩形集落は約10km北東の萱草や根子のマタギによって開かれた。1966(昭和41)年、県営第1号となる萩形ダムが完成したのをきっかけに離村。
  • 1889年明治22年)4月1日 - 町村制施行により、小沢田村・五反沢村・福館村・杉花村・堂川村・仏社村・沖田面村・大林村・南沢村が合併し上小阿仁村が発足[6]
  • 平成の大合併」のおり、当初鷹巣阿仁部の五町村で合併が話し合われていたが、上小阿仁村は合併協議会から離脱し、単独立村を選択した。
  • 2012年平成24年)8月29日、明治22年町村制の施行以来、初の「八木沢マタギ狩猟用具」5点を村の有形民俗文化財第1号に指定。(上小阿仁村教育委員会)

観光

観光スポット

  • 萩形キャンプ場(運営期間6月1日〜10月1日)
  • 萩形の清流
  • 山村広場(仏社地区・上大内沢地区)
ファイル:Fruit hoozuki.JPG
フルーツほおずき
  • 萩形ダム(ダム湖・小阿仁湖)
  • コブ杉(森の巨人たち百選
  • 道の駅かみこあに(休館日年末年始)

祭事・催事

  • 鳥追い(2月)
  • 裸参り(2月)
  • 万灯火(3月春分の日)
  • 山野草展示会(5月中旬〜下旬)
  • 太平山山開き(6月)
  • ねぶ流し(8月:各集落)
  • 大林獅子踊り・小沢田駒踊り・八木沢番楽・沖田面盆踊り(8月)
  • 五城目町・上小阿仁駅伝大会(10月)
  • 産業祭(10月)

温泉

  • 山ふじ温泉

特産物・名産品

教育

  • 上小阿仁村立上小阿仁小中学校

交通

村内には、鉄道は走っていない。

道路

バス

金融機関

指定金融機関

2007年(平成19年)12月5日に指定金融機関契約の締結を行い、2008年(平成20年)1月4日から北都銀行が指定された。これに先立ち、同行は、村役場の真向かいにある道の駅かみこあにの敷地内に、店舗外ATMを設置している。

村内の金融機関

JAあきた北央の上小阿仁支店は村役場に隣接し、上小阿仁郵便局ゆうちょ銀行代理店)は沖田面地区にあり、中心部には村役場の裏に小沢田郵便局がある。

ほかの銀行・信用金庫・信用組合[7]の支店・有人出張所は村内に所在しない。最寄りの拠点は、秋田銀行が鷹巣支店または五城目支店、北都銀行が米内沢支店、秋田信用金庫が五城目支店、羽後信用金庫は森岳支店(三種町)、秋田県信用組合は森吉支店である。

郵便局

  • 上小阿仁郵便局(集配局)
  • 小沢田郵便局

姉妹都市

八木沢・萩形マタギの歴史

上小阿仁村を代表する「マタギ集落」は八木沢と萩形で近世、「阿仁マタギ」などの狩猟民によってきり開かれた。萩形は1966(昭和41)年、県営第1号となる「萩形ダム」が完成したのをきっかけに離村。一方、八木沢は2009年春、集落ただ一人の古老マタギが鉄砲を返納し、生業とするマタギ集落が消えた。

萩形マタギ

萩形は1822(文政5)年、約10㌔北東の萱草や根子のマタギによって開かれた。 1700年代に入り、菅江真澄翁の「月のおろちね」に阿仁マタギが移住以前にマタギ小屋や「」があったとされ、当時は一年の狩猟に依りて生計を立てたとされる。主峰、太平山(1171メートル)を背に奥羽山脈を旅する「阿仁マタギ」の砦でもあり、戦前は「バンドリ(ムササビ)やテン」などの毛皮が軍向けに高く売れた時期もあり、マタギを生業とする「狩猟文化」が盛んであった。66年、秋田県営第1号となる萩形ダムが完成したのをきっかけに約10戸が水没し、残りの30戸ほどの住民も故郷を後に方々へ散った。集落の外れに、1969(昭和44)年に村の消滅とともに建てられた「離村記念碑」に当時の家長たち38人の名が刻まれ静かに佇む。

八木沢マタギ

ファイル:八木沢集落.JPG
秋田県上小阿仁村八木沢集落。2010年3月撮影。

八木沢集落は文化10 (1813) 年、旧北秋田郡荒瀬村根子のマタギが移住・定着している。根子は マタギ発祥の地とされ、大ムカデを退治して、正一位左志明神の位を授かった「万次・盤(万)三郎」を始祖に仰ぎ、狩猟文化を守り続けてきた。厳しい「長男相続制」のために、他所に移り住む二男三男が多かったことなど「マタギ文化」が広範囲に拡散されている。

1805年、民俗学の祖と言われる菅江真澄(1754 - 1829)は、マタギの里として知られる「奥阿仁地域」を縦断し、マタギの習俗や伝説などを「みかべのよろい」などに書きとめた。「山ひとつ越えると根子という集落があった。この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ね、マタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵した」としている。

真澄翁が奥阿仁を訪れてから8年後、八木沢集落が誕生している。「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」の三軒が定着する。集落は近世から「出羽丘陵・奥羽山脈」での狩りをする狩猟民の中継地点。冬場は豪雪にみまわれ厳しい自然環境のもと、狩猟が盛んに営なまれた。山の神に対する厚い信仰をもち「俗信禁忌」があった。昭和30年代、民俗文化の大きな転換期をむかえる、伝統的な信仰・行事・習俗・芸能にいたるまで大きく変化。小さな一地域の民俗文化の改廃。「鉄砲も槍もどこの家にもあった。みんながマタギ、自分で鉛を溶かし鉄砲の弾を作った」。しかし、マタギ集落も高度経済成長とともに若者が流出、過疎化による後継者不足となった。そして、ついに「2009年春」集落最後の古老マタギ佐藤良蔵が所持許可証の有効期限を半年残し、鉄砲を北秋田警察署に返納した。日本の民衆の文化「狩猟伝承」を保持してきたマタギ集落が惜しまれながらも消えていった。わずかに残された伝承信仰俗信禁忌などを語る者は、古老のみとなったという。

近世から狩猟をなし、マタギの変貌を物語るものに同村、不動羅集落の山田三郎氏所蔵の「マタギ秘巻」がある。この巻物は高野派の「山達由来之事」と日光派の「山立根本巻」とが同一巻内に納まり「山達由来之事・山立根本巻」という名称になる。現存しているマタギ文章はいずれも流布写本のたぐいであり、原本は不明である。上小阿仁村のマタギ集落は八木沢と萩形(離村)である。このマタギ文章はそこから出たものとされるが、この文章が実在する限り、八木沢、萩形(離村)のマタギはその伝承性上においてかなり形骸化されたものだったに違いない。その証拠に両集落は隣地阿仁町(現北秋田市)から両派の流れをくむマタギたちが住みついていたからだった。参考文献「上小阿仁村史 通史編」 (P872〜873)

有形民俗文化財

八木沢マタギ狩猟用具

有形民俗文化財指定 第1号 上小阿仁村教育委員会[8]

  • 員  数:5点 「マタギ熊槍・マタギ槍・火縄銃の背負袋・マタギマキリ・マタギベラ」
  • 指定日:平成24年8月29日
  • 所在地:上小阿仁村八木沢
  • 所有者:佐藤良美(八木沢集落最後のマタギ 佐藤良蔵の三男)

国保診療所における医師退職問題

2008年以降、村唯一の医療機関である上小阿仁村国保診療所に医師が定着せず、村への批判の声が高まった。しかし2013年の現地取材によると、個々の医師の退職にはそれぞれ異なる事情があったことも示されている(後述の「一連の報道への異論」を参照)。また、国保診療所は「村内」唯一の医療機関ではあるが、上小阿仁村役場から10.7kmのところに北秋田市立米内沢診療所[9][10]がある。上小阿仁村役場から16.8kmのところには北秋田市民病院(病床数320)もある(米内沢診療所の場所にはかつて公立米内沢総合病院があったが、総合病院としての機能は北秋田市民病院に再編統合された)。

経緯

長年同村に勤務していた医師が定年退職したのに伴い就任したA医師が2007年6月に依願退職したことから上小阿仁村は医師の公募を開始した。

そして2008年(平成20年)3月、僻地医療に20年も従事していたB医師が「この村が、医師として最後の勤務地。人への愛情、興味が尽きない限り、診療を続けたい」と同年2月に着任したものの、村人からの苛烈な嫌がらせにより、わずか4か月で辞意表示・着任から6か月で退職した[11][12]

その後2009年(平成21年)1月に、離島タイで医療に従事した経歴を持つC医師が新たに着任したが、同医師も翌2010年(平成22年)3月に辞意を表明、「後任が見つかるように」との理由から2011年(平成23年)3月をもって離職すると発表した。この辞意表明の直後、数多くの村民からの慰留、村当局による改善策の申し入れにより、辞意は撤回された[13]。しかし、同医師は2010年(平成22年)9月に再び退職願を提出し、2011年(平成23年)2月下旬受理された[14]

さらに村の公募に応じて北海道北見市から2011年(平成23年)6月に赴任したD医師も、2012年5月に村に辞意を伝えた[15]

上小阿仁村は2012年(平成24年)10月1日、5月に辞意を伝えたD医師が10月12日に退職し、同日付で北海道帯広市西村勇医師が診療所の新所長に就任すると発表した[16]

しかし、西村医師も着任から1か月足らずの11月6日までに村に辞意を伝えている。理由は体調不良としている[17]。これにより、4人連続して赴任後1年以内に辞意を示すこととなった。

2012年(平成24年)11月22日、前北秋田市長の岸部陞(すすむ)・旧北秋中央病院名誉院長 (76) が所長に就任、診療を再開した。村は後任が決まるまで当分の間、診療を続けてもらう方針であると発表された。

2013年4月30日付けで岸部医師は退職することが判明した。後任については4月26日現在未定で、後任が決まるまで週1回泌尿器科の診察にあたっている医師が臨時で所長に就任し、岸部医師の担当していた内科・外科については週1回外部から招聘した医師が診察にあたる[18]

2013年8月19日、かつて診療所の前身に当たる施設で勤務した経験のある柳一雄氏が常勤医師として着任した[19]

背景

僻地医療のベテランを含む3人の医師が相次いで短期間に辞職している背景には、激務によるものだけでなくモンスターペイシェントによる嫌がらせなどの問題行動、およびそれに真摯に対応しなかった村役場の姿勢にあるとされている[20][21]

例えば、下記のような患者の問題行動が報道されたが[22]、これに対して村当局がどのような対応をしたかは報道されていない。

  • 昼食をとる時間がなく診療所内で食事をしようとパンを買ったときに「患者を待たせておいて買い物か」と住人に責められる。
  • 年間休日18日。土日や祝日も村内回り、お盆期間も診療を続けた。しかし盆明けの8月17日を休診にすると「平日なのに休むとは一体何を考えているんだ」と批判した住人がいた。
  • 診療所向かいの自宅に「急患にすぐに対応できるように」と、センサー式照明を設置費用・電力費用を自費で設置したが、「税金の無駄使いをしている」と苦情を言った住人がいた。
  • 自宅に嫌がらせのビラがまかれた。
  • 辞めていった医師の中には、村の広報紙に村人の医師への対応について苦言を呈した者もいたが、何も改善されなかった。

村当局の対応

診療所の小嶋有逸事務長補佐(2010年(平成22年)3月報道時60歳)は「こんなに身を粉にして働く医師は過去に例が無く無医村になったら村民が困る。自分で自分の首を絞めている」と語った。

当時の村の責任者であった小林村長は「お会いして、いろいろとお話を聞き慰留に努めました結果、結局は辞任の意思は不変の様であります。上小阿仁村ではこれ以上診療を続けられないとのお話の原因について、ここで詳細に論ずることは控えますが…」[20]「一部の不心得者のために人格も腕も一流の医師を失うのは不本意。医師不足は深刻で、無医村になる公算は限りなく大きい」と語った。

C医師の辞意表示のあと、村当局は急きょ改善策を申し入れるがいったん固辞される。また同村の広報誌『広報かみこあに』2010年(平成22年)3月号では、重要事項として「有能で献身的な医者を安定的に確保すること」を挙げた[20]。一度C医師は辞意を撤回し、上小阿仁村の無医村化は回避されたが[13]、最終的に退職願は受理された。

しかし、村民の医師に対する接し方および村当局の対応は改善することもなく、2012年(平成24年)5月にはD医師も辞意を表明している[15]。B医師は村の広報誌にて「村執行部の医師に対する見方、接し方、処遇の仕方の中に医師の頑張る意欲をなくさせるものがあった」「次の医師が見つかっても、その人も同じような挫折をすることになりかねない」とのコメントを残している。

一連の報道への異論

上記の事実が報道されると、インターネット上では「医者殺しの村」「悪の村」「イジメ医者追い出し村」などと上小阿仁村への激しい非難の声が上がった。

だが週刊プレイボーイの現地取材によれば、役場および住民のネット上での非難に対する困惑の声と共に、関係者の証言から、各医師の辞職の原因は

  • A医師はCTスキャンの導入を主張して財政再建中の小林宏晨村長(当時)と対立したのが元で辞表を提出した。
  • B医師は極力薬を処方しないという方針だったため、薬を欲しがる地元住民、特に一部老人と対立したこと、そしてジェネリック医薬品の処方を求めた小林村長に反発したのが辞職の原因。
  • C医師の辞職は女性ということで一部住民からのいじめに晒されていたことが原因なのは間違いない。
  • D医師の辞職は中田村長との対立が原因で、「マスコミが言うような村民によるいじめはない」と本人が語っていた。
  • 西村医師は健康問題と共に、奇矯な振る舞いなどから住民とのトラブルを抱えていた。

という[23]

一方、一連の辞職事件の背景には

  • 同村を含む僻地における独立診療所を設置することの難しさ
  • 医師へのバックアップ態勢の問題
  • 独特の方言、厳しい気候、遊興施設がないなどの過酷な条件
  • 村自体の閉鎖性

などの問題があるのではないか、と同村関係者は指摘している。

NEWSポストセブンによる中田吉穂・上小阿仁村長へのインタビュー(2012年)では、女性医師へのいじめ記事について医師本人が「本意ではないことを書き残されて悔やみきれない」と話していたことを伝えている[24]

中田吉穂村長は辞職の背景として次のようなものを挙げている。

  • 村の診療所では設備面でたいした治療ができず総合病院のほうに紹介状を書くことが多い。ただの紹介屋さんになってしまう
  • 若い村民は自分で車を運転して最初から総合病院に行ってしまう
  • 結果、ほとんどお年寄りしか診療所に来ず、医師の抱いていた想いと現実の差がストレスになる

現実の状況としては車などの足がある者にとってはそう遠くないところに診療所や総合病院があり、「僻地無医村」から想像されるものとは必ずしも一致しない。村民全員から頼られる「村のお医者さん」のイメージと現実が離れていることにも原因があるのではないかとしている。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

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  1. テンプレート:Cite news
  2. 内閣府 経済社会総合研究所「テンプレート:PDFlink
  3. 内閣府 自殺の統計「テンプレート:PDFlink
  4. 子宝祝金制度 - 上小阿仁村
  5. 上小阿仁村村史 通年編P114
  6. 名前の「上」がつくのは、発足当時、近隣に下小阿仁村が存在したことに起因する。下小阿仁村は合併を繰り返し、現在は北秋田市になっている。
  7. 秋田県信用組合の支店がかつてはあったが、森吉支店(北秋田市)に統合されている
  8. 『広報かみこあに 平成24年10月号 645』「村有形文化財第1号が指定されました!」
  9. テンプレート:Cite web
  10. テンプレート:Cite web
  11. テンプレート:Cite news
  12. テンプレート:Cite news
  13. 13.0 13.1 テンプレート:Cite news
  14. テンプレート:Cite news
  15. 15.0 15.1 テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  16. テンプレート:Cite news
  17. テンプレート:Cite news
  18. テンプレート:Cite web
  19. テンプレート:Cite news
  20. 20.0 20.1 20.2 テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Citation
  22. テンプレート:Cite news
  23. 秋田県・上小阿仁村の"医者いじめ"伝説を追え!」、週プレNEWS、2013年1月4日、2013年2月22日閲覧
  24. ネットで「悪の村」と指弾された上小阿仁村長が「いじめ」に反論」、NEWSポストセブン2012年11月25日