三遊亭小遊三

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テンプレート:存命人物の出典明記 三遊亭 小遊三(さんゆうてい こゆうざ)は、落語名跡


テンプレート:ActorActress 三遊亭 小遊三(さんゆうてい こゆうざ、1947年(昭和22年)3月2日 -)は、落語芸術協会所属の落語家(同協会副会長)。本名は天野 幸夫(あまの ゆきお)。山梨県大月市出身(神奈川県横浜市生まれ)、山梨県立都留高等学校明治大学経営学部卒。練馬区在住。出囃子は『ボタンとリボン』(或いは『春はうれしや』)。定紋は『高崎扇』。古典落語専門で、長屋ものを得意としている。

人物

笑点』でのイメージが強いが、漫才ブームの頃に売り出した数少ない落語家の一人で、『らくごin六本木』や『オレたちひょうきん族』など、幾つかのテレビ番組に出演しては存在感を示していた。『笑点』は、その実績が買われて起用されたものである。

高校時代、卓球部キャプテンを務めていたことから、1964年東京オリンピックの聖火ランナーに抜擢される。これは、本来なら他の部のキャプテンがするはずが、不祥事を起こしたため、代わりに選ばれたものである。しかし、母校の近くの区間を走らなかったので、誰も見に来なかった。なお、後に長野オリンピックの時にも聖火ランナーを務め、この時は東京都内を走っている。

卓球選手としては、高校・大学と卓球部に所属して、1966年に山梨県卓球選手権で優勝[1]国体出場には惜しくも届かず、卓球は「ここまでだな」と限界を感じ、1968年に落語へと転身した[2]。落語家になった後も、らくご卓球クラブのヘッドコーチを務め、世界ベテラン卓球選手権大会に数回出場している。

前座時代には、同年齢でもある林家九蔵(現:三遊亭好楽)の実家に居候していた時期があり、当時のことを「兄弟が多いから、ひとりぐらい増えても問題なかった」と語っている(ちなみに好楽は、8人兄弟の6番目である)。

鈴本演芸場から落語芸術協会に小遊三の真打昇進の打診が数度あるものの、落語芸術協会が認めなかったため、鈴本演芸場は昭和57年3月中席夜の部で二ツ目の小遊三をトリに起用した。2年後、鈴本演芸場落語芸術協会と絶縁することになる。

現在の笑点メンバーの中でも、『笑点』でのキャラクターと落語家としてのイメージのギャップが一番薄い。一方、習得している演目は多く(人情噺は基本的に行わない)、同じ演目を連続で何度も繰り返す事はない。落語には独自のアレンジを加える事が多く、時代背景の必要ない(変えたとしても差し支えない)古典落語には時事ネタやカタカナが比較的多く含まれ、時代背景のある落語については時代空間を壊さない程度にオチや使う唄などを変えている。

若い頃は物真似芸をよく披露しており、桂米助と野球選手のフォームの真似をする「野球形態模写」を『笑点』の演芸コーナーで披露した事もあった。高田文夫は、一緒に韓国プロ野球を観戦に行った際、彼が即興でやった韓国人選手の形態模写が現地で大ウケだったのを見て「小遊三の芸は本物だ」と思ったという。『笑点』では、度々巨人に応援コメントを寄せる。

2005年12月、山梨県より「富士の国やまなし観光大使」委嘱。

大喜利メンバーとして

加入した当時、古今亭朝次(現:7代目桂才賀)が自分と同じ色男キャラで売っていたため、小遊三と才賀が隣同士となった1986年1月5日から、才賀が卒業した1988年3月27日まで罵倒合戦を演じていた。

2008年から林家たい平と互いの地元をネタにした罵倒合戦(大月秩父代理戦争)を繰り広げているが、たい平加入以前は地元ネタをしていなかった。これは、林家こん平(たい平の師匠)が「チャーザー村ネタ」を既にやっていて「二番煎じに見られる」と思ったためである[3]

芸歴

その他の活動

など。

現在進行中

CD・DVDなど

(14)「姫かたり」(立川ぜん馬)/「茄子娘」(三遊亭小遊三)
(16)「持参金」(三遊亭小遊三)/「風呂敷」(立川談幸
(15)小遊三1「大工調べ」「粗忽の釘
たいこ腹」「千早振る」「提灯屋
  • DVD『激笑!炎の落語』(コロムビア/2005年発売)
(2)三遊亭楽太郎「お血脈」/三遊亭小遊三「幇間腹

一門弟子

関連項目

出典

  1. テンプレート:Cite news
  2. テンプレート:Cite news
  3. いつみても波瀾万丈』2008年9月14日放送回。
  4. 週刊大衆 2012年5月7・14日号 p. 162 -163 お客のための人間力「この人を見よ!」

外部リンク

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