三笠宮

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テンプレート:日本の氏族 三笠宮(みかさのみや)は、大正天皇の第4皇子崇仁親王宮号である。

三笠宮の宮号は、1935年昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、阿倍仲麻呂の和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」に出てくる奈良の三笠山にちなんで命名された。同時に大勲位に叙せられている。

当主

初代当主・三笠宮崇仁親王は、1915年大正4年)12月2日大正天皇貞明皇后の四男として誕生。御称号は澄宮(すみのみや)。1941年(昭和16年)10月22日、崇仁親王が25歳の折に、子爵高木正得の次女・百合子と結婚し、以下の子女をもうけた。

5人の子女は、名前が「(うかんむり)」、お印が「(きへん)」と、それぞれ同じ漢字の部首で統一されている。

長男寬仁親王が後継者たる男子をもうけないまま2012年(平成24年)6月6日に薨去したため、現行皇室典範上においては、信子妃の薨去および子の彬子女王・瑶子女王の薨去、または婚姻による皇籍離脱をもって宮家が断絶することになる。

寬仁親王家

寬仁親王は生前、将来的に「三笠宮」の宮号を継承すると考えられていた存在であったが、現行制度では宮号は宮家の当主に授けられるものとされているので、当主ではなかった寬仁親王を「三笠宮寬仁親王」と呼称することは、厳密に考えれば誤用であるといえる。なお、かつて宮家の後嗣は「○○若宮」と呼ばれていたが、宮家自体の数の減少や、宮家に男子が生まれることがほとんどなくなったため、現在は一般的な呼称ではない。

なお、寬仁親王は宮号は賜っていなかったものの、寬仁親王家として三笠宮本家から独立した生計を営んでおり、同家の当主となっていた。寬仁親王の薨去に伴い、同家の当主は不在となった。宮内庁は2013年6月10日、寬仁親王の薨去時にさかのぼって寛仁親王家が廃されたものとして扱い、同家の成員については職員や皇族費はそのままで三笠宮家に合流することを発表した[1]。同年7月31日には、当主のいなくなった寬仁親王邸を「三笠宮東邸」に改めることになった。

秩父宮家高松宮家(共に絶家となるまで)、また高円宮家では親王の薨去後に親王妃が当主となっており、それが事実上慣例化していた。しかし寬仁親王家では後継の当主が定まらず、信子妃も、また喪主を務めた彬子女王も当主にはならなかった。

系図

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大正天皇  テンプレート:Color   ┏甯子内親王(近衞甯子)
 ┣━━━━崇仁親王  ┣寛仁親王
貞明皇后   ┣━━━━┫ ┣━━━━┳彬子女王
      百合子妃   ┃ 信子妃   ┗瑶子女王
             ┃
               ┃テンプレート:Color
               ┣宜仁親王
               ┃
                ┣容子内親王(千容子)
              ┃
              ┃テンプレート:Color
              ┗憲仁親王    ┏承子女王
                  ┣━━━━╋典子女王
                久子妃    ┗絢子女王

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:宮家一覧

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  1. 朝日新聞デジタル:寛仁親王家廃し三笠宮家に合流 逝去1年、当主決まらず - 社会