ヴァーサ王朝

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ヴァーサ王朝は、スウェーデン王国1523年 - 1654年)とポーランド王国1587年 - 1668年)の王朝。ヴァーサ家は元はウップランド地方の貴族階級で、15世紀に高官級に出世した。

概要

スウェーデン

スウェーデン王国においてグスタフ・ヴァーサは、14世紀末のカルマル同盟以来120年続いたデンマーク王権の支配に叛旗を翻し、スウェーデンを独立に導いてヴァーサ王朝を興した。その後も北方七年戦争などデンマークとの戦争が続いたが、デンマークがスウェーデンを奪回することはできなかった。

1558年に開始されたリヴォニア戦争では、ポーランド王国と結んでモスクワ大公国ロシア・ツァーリ国)のバルト海進出を阻んだ。この時、ヴァーサ家とヤギェウォ家との婚姻によってヴァーサ家はポーランドにも迎え入れられたが、両国の宗教的不一致のため、ヴァーサ家は17世紀半ばまで内紛と抗争を繰り返すこととなった。

第3代ヨハン3世の息子シギスムンドは母親カタジナ・ヤギェロンカがポーランド王女であったため、幼くしてポーランドに送られイエズス会によって教育を施され、ヤギェウォ朝の断絶後に選挙によってポーランド・リトアニア共和国の元首(ポーランド国王兼リトアニア大公)に推戴され、ジグムント3世(ポーランド王としての名)として即位した。ヨハン3世の死後、ジグムント3世はスウェーデンに帰国し、ポーランド王を兼ねたままシギスムントとしてスウェーデン王位に即位した。当時スウェーデンでは新教ルター派が広まっていたが、ポーランドはプロテスタント正教徒もかなりいたものの、政治の場では相対的にカトリック教会が優位の国であった。

教会の浄化と刷新を目指してカトリック改革運動をもっとも強力に推し進めるイエズス会に育てられたジグムント3世(シギスムント)は、スウェーデンをカトリックに戻すことを図った。このため、叔父カールらはジグムント3世に対する反感を強め、彼がポーランドに戻るとプロテスタント系のスウェーデン諸侯を糾合して、すぐさま反乱を起こした。シギスムンドはカトリック系のスウェーデン諸侯とともに、こうした動機の遠征には乗り気でないポーランド議会(セイム)軍を率いて反乱討伐に再来したが敗退し、叛乱者カール(カール9世)がスウェーデン王に即位した。1600年にはカトリック系スウェーデン諸侯を粛清し、ルター派を国教としたことで、ジグムント3世との対立は決定的となった。

この争いのため、スウェーデンとポーランドのヴァーサ家の間で反目が続き、17世紀にはスウェーデン軍がポーランド領であったリヴォニア方面に侵攻し、リガの町を落とした(スウェーデン・ポーランド戦争)。1626年には東プロイセンを制圧したが、一方、ポーランドはスタニスワフ・コニェツポルスキ将軍を登用し、戦争後期はポーランドが巻き返して戦争自体においては優位を取り戻したものの、フランスの介入によりスウェーデンがきわどく勝利した。ポーランド征服には挫折したものの、スウェーデンは事実上、東欧の大国ポーランド・リトアニア共和国からリヴォニアの大半を奪うことに成功した(1660年に正式認定)。

こうしたことから、この戦争を指導したグスタフ2世アドルフは、ヨーロッパ諸国から「北方の獅子」として知られるようになった。領土を割譲した上、グスタフ2世アドルフによってバルト海を制覇されてしまったことで、ポーランド・ヴァーサ家は名目上スウェーデン王を自称出来ても、実質的な王位の請求は断念せざるを得なくなった。

グスタフ2世アドルフは三十年戦争にも介入し、ドイツでプロテスタントの盟主として、カトリックの盟主ハプスブルク家神聖ローマ皇帝)と戦い(古ゴート主義の理念の拡大による)、フランスと連携しつつハプスブルク家を追い詰めて行った。グスタフ2世アドルフ自身はリュッツェンの戦いで戦死したが、フランスの直接介入もあって、スウェーデン軍はその後もドイツで戦いを続けた。ヴェストファーレン条約でスウェーデンは北ドイツに広大な領土を獲得、一躍北方の大国となり、ヨーロッパでの強国の一つにのし上がった(バルト帝国)。さらに北欧での宿敵関係にあったデンマークとも、三十年戦争後期にトルステンソン戦争を行い、オランダと結びデンマークを撃破した。この勝利によってスウェーデンは、北欧での覇権も打ち立てることに成功した。

しかし、クリスティーナ女王は個人的な理由から退位し、その従兄でプファルツヴィッテルスバッハ家傍系のカール・グスタフ(カール10世)が即位したため、スウェーデンのヴァーサ王家は断絶し、プファルツ王朝に代わった。プファルツ=クレーブルク家出身のカール・グスタフは、スウェーデン・ヴァーサ家の外戚であり、グスタフ・アドルフの異母姉の子であった。カール10世は王位継承を巡り、即位翌年の1655年にポーランド・リトアニア共和国と戦端を開き、その死まで戦場下にあった(北方戦争)。カール10世は、共和国には軍事的敗北を喫したものの、バルト海での優位を保ち、1660年にポーランド・ヴァーサ家のスウェーデン王位請求権を完全に放棄させると共に、自家をスウェーデンの王家として認めさせることに成功した。

ポーランド

ポーランド=リトアニア共和国において内戦時代の遠因を作ったのは、スウェーデンとモスクワへの野心を抱き、予算を軽視して議会と対立してまでもスウェーデンやロシアの征服事業を推し進めたジグムント3世と、彼に常につきまとっていたイエズス会であった。ヴァーサ朝時代、当初はポーランド・ヴァーサ家が連合国家の盟主として優位に立っていた。ところがカトリックとプロテスタントの間の問題を軽視してジグムント3世が強行したポーランド・リトアニア・スウェーデン共和国の大連邦構想は、スウェーデン国内のプロテスタント叛乱によって覆された。

さらに、いったんは征服に成功したモスクワ大公国においても、宰相と大元帥を兼任するスタニスワフ・ジュウキェフスキ率いるポーランド議会の反対を押し切って「モスクワ大公(ツァーリ)はカトリック教徒に限る」という布告をジグムント3世を出したことでロシア人と対立した。ポーランド議会軍が撤退した後、治安維持のためとしてモスクワ市内に取り残されたポーランド国王軍が、モスクワの大叛乱によって籠城の末に玉砕するという悲劇が起こると、ポーランド・リトアニア・モスクワ共和国という大連邦構想も頓挫した(動乱時代)。

当時のポーランド・リトアニア合同の政体は、議院内閣制共和制に近いものであり、現代の議院内閣制における大統領と同様、法律によって王権は大きく制限されており、立法権と裁判権はセイム(ポーランド議会)、行政権は事実上は宰相(大法官、多くは大元帥を兼ねる)を中心とする国王評議会(内閣)が握っていた。しかし厳格なイエズス会に育てられ、対抗宗教改革の闘士となっていたジグムント3世は、議院内閣制に近いポーランド伝統の議会制の政治制度を尊重せず、絶対主義君主のようなふるまいをもって政治的に暴走した。当然のことながらセイムは国王側と激しく対立した。この国王の暴走を遠因とし、議会との対立によりポーランド・リトアニア共和国は政治判断が遅れ、スウェーデンを併合するどころか、逆に絶対君主制を推進したスウェーデンによってバルト帝国を打ち立てられてしまう結果となった。

これによって、当初は平和で繁栄した国家連合の要になるであろうと考えられた、ヴァーサ家の人物を君主に担いだポーランド・リトアニア共和国は、その政治的暴走により繁栄を失って行ったのである。この議会制度は、貴族文化を基盤とする連帯感による統一によって成り立っていた。しかしヴワディスワフ4世の時代にあっては、共和国が巨大化し、新しい文化的背景を持つ勢力を取り込んでしまったために、多文化主義を尊重するポーランドの社会制度に政治的な混乱をもたらすこととなった。

セイムによる自由拒否権(リベルム・ヴェト)の濫用はヴァーサ王朝以前ではありえず、拒否権の行使は健全な議会制度の発展を阻害して行くこととなり、一定の王権に基づき議会と折衝して国家を統治してきた君主制との対立を招くことにも繋がった。ヴワディスワフ4世は、一部のマグナートと組んで王権強化を試みたが、セイムによって拒絶された。こうした政治的対立は、ヴァーサ王朝以後も継続し、共和国衰退の一原因となって行った。宗教的にもポーランド・リトアニア共和国は、長らく宗教的寛容の時代にあったが、イエズス会との関わりから対抗宗教改革の流れに逆らえず、次第に宗教的不寛容の時代へとなって行った。

ポーランド・リトアニア共和国はスウェーデン・モスクワ両国とのたび重なる戦争で国家の経済が疲弊しており、ジグムント3世による征服戦争の債務返済の負担と穀物の国際相場が大きく下落したためにデフレが起こった。デフレの退治とヴァーサ家の破産回避のためにヤン2世は、ボラティーニという人物が鋳造したことから「ボラティンカ・クラウン」というあだ名を持つクラウン銀貨の大量発行に踏み切った。

この超緩和的な金融政策(現在で言う量的緩和政策)により名目物価は上昇し、マイルドなインフレが起こって、名目上のデフレは退治され、表面的な経済成長は達成された。しかし、そのおかげで名目賃金が維持された一方で、低下する実質賃金との差が拡大し、農民や小地主は生活のために借金を重ねざるを得なくなった。その結果、農地を手放さざるを得なくなり、それらを安く買い取る大貴族による農地の寡占化が進み、農民の多くは大貴族に低賃金で雇われる、いわゆるワーキングプアとなり、共和国内の多くの地域が中世農奴制のような状態に戻ってしまった。これを再版農奴制という。

このとき、自分たちの領地を手放して無産者となり、かつ当時オスマン帝国領となっていたクリミア・ハン国での略奪行為を禁止されたポーランド臣民のウクライナ・コサックたちが、貧窮の末にワルシャワの中央政府を相手に自治(事実上はクリミア略奪の黙認)を求めて「フメリヌィーツィクィイの乱」と呼ばれる大反乱を起こした。

それにつけこんだスウェーデンとロシアがポーランド・リトアニア共和国に侵攻した。さらには、ポーランド伝統の自由主義的な政治制度に付随した欠陥(特に自由拒否権)を、近隣諸国の勢力と結託して悪用する者が現れ、彼らも外国勢力にそそのかされて、ワルシャワの中央政府に対し反乱を起こした。これらによりポーランド・リトアニア共和国は内戦と対外戦争が重なった「大洪水時代」と呼ばれる戦国時代となった。この大洪水時代のうち、スウェーデンとの戦争を北方戦争と呼ぶ。

この「大洪水時代」の中、経済政策に大失敗して国民の信頼を完全に失ったヤン2世は廃位させられ、ポーランド・ヴァーサ家は断絶した。ヤン2世はフランスに渡り、修道士となった。

一方で、たび重なる大戦争によりポーランド・リトアニア共和国は、その後のヤン・ソビェスキの中興にもかかわらず、これら一連の流れを押し止めることが出来ず、18世紀末の滅亡へ向かって本格的な衰退の時代に入った。

主要年表

スウェーデン歴代国王

  • グスタフ1世(生没年:1496年 - 1560年、在位:1523年 - 1560年)
  • エリク14世(生没年:1533年 - 1577年、在位:1560年 - 1568年) グスタフ1世の長男
  • ヨハン3世(生没年:1537年 - 1592年、在位:1568年 - 1592年) エリク14世の弟
  • シギスムンド(生没年:1566年 - 1632年、在位:1592年 - 1599年) ヨハン3世の息子
  • カール9世(生没年:1550年 - 1611年、在位:1599年 - 1611年) グスタフ1世の末子
  • グスタフ2世アドルフ(生没年:1594年 - 1632年、在位:1611年 - 1632年) カール9世の息子
  • クリスティーナ(生没年:1626年 - 1689年、在位:1632年 - 1654年) グスタフ2世アドルフの娘

ポーランド歴代国王

  • ジグムント3世(生没年:1566年 - 1632年、在位:1587年 - 1632年) スウェーデン王シギスムンドと同一人物
  • ヴワディスワフ4世(生没年:1595年 - 1648年、在位:1632年 - 1648年) ジクモント3世の息子
  • ヤン2世カジミェシュ(生没年:1609年 - 1702年、在位:1648年 - 1668年) ヴワディスワフ4世の異母弟

系図

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関連項目

参考文献

  • Davis, Norman. God’s Playground. ISBN 978-0-10-925340-1

外部リンク